田植え(補植)体験 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

 

 

友人の実家の田んぼで、

田植えをさせてもらった。

 

といってもすでに

ちゃんとした田植えは終わっていて、

僕らがやったのは、

ちゃんと植わってなかったりして

隙間が空いている場所に苗を植える、

「補植」と呼ばれる作業。

 

日差しが照りつける中の作業だったが、

つばの広いわらの帽子のおかげで

悠々と作業することができた。

 

この作業をやりながら思ったことは、

昔の人にとっての「田植え」という言葉には、

きっと僕らには想像し得ない、

生活のあれこれのイメージが

付随していたのだろうということ。

 

いま風の言葉で言えば、

「田植え」というコンテンツに、

どんな言葉がタグ付けされているか、

みたいなことだろうか。

 

僕ら都会で暮らす人間が

「田植え」と聞いて思い浮かべることと、

実際に「田植え」が暮らしの一部になっている人が

「田植え」と聞いて思い浮かべることは、

その内容の豊かさに雲泥の差があるだろう。

 

しかも同じ農民であったとしても、

平安時代の農民が「田植え」で思い浮かべることと、

現代の農民が「田植え」で思い浮かべることも、

やはりかなり違うだろう。

 

俳句なんかで、

 

「……田植えかな」

 

みたいに言ったときに、

そこに付随するイメージがそれぞれ違えば、

その俳句の内容自体が変わってしまう。

 

だから僕らはそれを読んだ人、

それが読まれた時代などを知り、

その思いを汲み取ろうとしたりする。

 

しかしそれを完璧に汲み取ることは

絶対にできないだろう。

 

でも、だからこそ、

それを汲み取ろうとすることは

とても尊いことなのだと思う。

 

僕も今回田植え(とはいえ「補植」)をして、

「……田植えかな」に込められた思いに

0.0001ミリでも近づけたなら、

これはとんでもなく価値のあることなのだ。

 

……などと言うことによって、

今回の自分の田植え体験の価値を

不当に高めようとするのが

今回のブログの目的である。

 

 

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