「忙しい」の「忙」という漢字が、
「心」を「亡くす」と書くのはよく知られています。
まさに、あの時間に追われているときの、
落ち着きのない気分にピッタリ。
ふつうはあんまりうれしくない状態です。
ただ、単に「忙しい」と言っても、
実はふたつの種類の忙しさがあるように思います。
書類の整理や、人と会う約束が重なるなどの
「物理的な忙しさ」がある一方で、
見た目はぜんぜん何もしていなくても、
頭の中ではずっと何かを考え続けているという
「精神的な忙しさ」もあります。
両者は相互に関係し合っていることが多いですが、
「心」を「亡くす」という意味では、
特に「精神的な忙しさ」のほうが
深刻であるように思えます。
精神科医のミンコフスキーは
こんなことを言っています。
「私は分裂病(現在は統合失調症:筆者注)者や
分裂病質者が『休息』を
……たのしむことができないこと、
単なる容器としての時間を、
前もって定められた観念や行為で、
縁まで完全に満たそうとする
傾向があるのを強調した」
「……病的合理主義者が、
一秒の時間も無駄にしないために、
……時間を失いたくないために、
彼は霊感と生命との源泉としての
時間との接触をまったく失っていた」
(中江育生、清水誠訳『生きられる時間<2>』みすず書房)
「時間」をひたすら「意味」で満たそうとする
(精神的に忙しい状態!)ことによる、
生の実感の喪失。
これは程度の差こそあれ、
誰もが思い当たることなのではないでしょうか。
有意義に時間を使うべく、
スケジュール帳をひたすら予定で埋めようとする人は、
決してめずらしくありません。
しかしふと立ち止まったとき、
そんな日常をむなしく感じる人もまた
多いような気がします。
「目的のため」に消費される時間。
「意味のため」に消費される人生。
そのことが生命をむなしくさせるという矛盾。
実はこの「生の実感の喪失」のことを、
「心」を「亡くす」と言うのであれば、
ぼくたちは「忙しい」ということを
どうとらえればよいのでしょうか。
現代における「人生の意味や目的」は、
必ず「未来」において見出されます。
誰もが「将来のために」生きているからです。
「未来のために、現在が手段として消費されている」
という現実が、「生の実感の喪失」に
つながっているのかもしれません。
だとすれば、
「意味」のための「いま」を生きるのではなく、
「いま」を生きていることに
「意味」を見出すことこそが、
ぼくたちに求められている
ことなのではないでしょうか。
ところがこれを
「考えること」によって見出そうとすると、
どうしても「意味のためのいまスパイラル」
に巻き込まれてしまいます。
そうではなく、
「いまのための意味スパイラル」
を生み出すためには、
「知性」ではなく「身体性」の力が
必要になってきます。
ぼくがときどき
「一人カラオケに行く」と言うと、
「それって意味あんの?」
とドン引きされることがありますが、
それは大きな間違いです。
むしろ、知性で理解できるような「意味」など
あってはいけないとさえ言えるでしょう。
意味はないかもしれないけれど、
それをしていると、
なぜか心と体が喜んでいることがわかる。
むしろ「その時間が意味そのもの」になっている。
そいういうことが、
「霊感と生命との源泉としての時間」
につながっているような気がします。
ならばやはりそうした時間は、
ぼくたちが「考えない」ときにこそ
訪れるのではないでしょうか。