
先日、21_21 DESIGN SIGHTで開催されている
「テマヒマ展 〈東北の食と住〉」に行ってきた。
「東北のものづくりには、合理性を追求してきた
現代社会が忘れてしまいがちな「時間」の概念が、
今もなお生き続けています。
…会場では、佐藤 卓のグラフィックと深澤直人の空間構成により、
東北のテマヒマかけた「食と住」にまつわる55種の品々を、
撮りおろしの映像や写真とともに紹介します。」
(テマヒマ展webサイトより)
関連プログラムとして行われていた、
内山節氏と佐藤卓氏の対談にも参加。
テーマは「労働というワクチン」。
下記はそのときの僕のテキトーなメモ。
-------------------------
1960年代くらいから日本の行事が消えていった。
県の総合計画はどこも似たり寄ったり。
「5年ごと」という「時間」に問題があると思って
100年計画で考えたら「作る計画」から「残す計画」になった。
残すものは、自然、伝統、手仕事、第一次産業。
現代は、人々がまじめに働くほど社会が壊れていく。
人々がまじめに働くほど良くなる社会へ。
何かを続けられるのは、認めてくれる人がいるから。
村の男たちはみんな少しは大工仕事ができる。
だからこそ本物の職人のすごさがわかる。
農水省は「土の上に降りない農業」
「畑に入らなくていい農業」を目指した。
資本主義社会は絶えず「イノベーション」を求める。
「イノベーション」が生み出すのは「人員過剰」。
それを吸収するための「右肩上がりの経済」が前提となる。
絶えざる「イノベーション」は絶えざる「過剰生産」を生む。
それが「過剰消費」をあおっていく。
村の畑を耕していると、過去の人がいなくなった気がしない。
歴史とはもともとつながっていくものだった。
今は「乗り越えるもの」。そこに限界がきている。
人々の意識が変わったのは戦争の影響が大きい。
「みんなのために生きる」ことが、
「国家のために生きる」ことに置き換えられた。
それが敗戦によって「自分のために生きる」人々を生んだ。
制度の決定権を、地域ではなく国が持っていることのおかしさ。
国内で消費する魚は実は国内だけで自給できるが、
輸入しないと「捨てるぶんが足りなくなる」(経済合理性)。
-------------------------
展示は8月26日(日)までやっているので、
お時間ある方はぜひ。