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このような非常に充実した内容の本を読むと、
赤線だらけになってとっても困る。
中でもとくに興味深く読んだのは、
近代化における「貨幣」と「時間」の役割の共通性である。
本来、あらゆる「モノ」そのものに
普遍的な「価値」を与えることはできない。
なぜなら、それは使う人や、その用途によって、
その「モノ」の価値は変化してしまうからだ。
砂漠で遭難した人にとっての「水」が、
「ダイヤモンド」以上の価値を持つように。
しかし、そうしたモノにさも「固有の価値」が
あるかのように決められるのが「価格」である。
これによって、あらゆる「固有の価値を持ったモノ」たちは、
すべて「交換可能なモノ」であるかのように認識され、
扱われるようになっていく。それは人間そのものも例外ではない。
こうして「貨幣」は、あらゆるモノの「唯一性」を喪失させていく。
また「時間」にも、本来「普遍的な価値」を与えることはできない。
同じ一瞬でも、互いの愛を確かめられた瞬間と、
ぼんやり空をながめているときの一瞬は、決して等価とは言えない。
しかしそれを計量し数値化することによって、
それは単なる「1分」という客観的な価値に変換される。
それによって、まるであらゆる時間は等価として
「交換可能」であるかのように認識されるようになる。
こうして時間もまたその「唯一性」を喪失させていく。
そしてこのことが、現在の資本主義社会を支えている。
真木悠介はこのことについて次のように述べる。
「ウェーバーがこれを『典型的に資本主義の精神』とみなした
ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」という
生活信条をまつまでもなく、時間を費やす、時間をかせぐ、
時間をむだにする、時間を浪費する、時間を節約する等々といった
時間の動詞自体が、市民社会の<功利的的実践>(コシーク)の
日常感覚における時間と貨幣との
このような同致をすでに物語っている。」(p300)
「時間が他の時間のうちにたがいに
等価をもちうるという実践的還元のうえに、
一般化された商品交換のシステムとして
市民社会の総体は存立している。」(p300)
このことが、僕たちの「生の充実」を喪失させているという。
そしてそれを取りもどすことができるのは、
「具体的な他者や自然との交響のなかで、
絶対化された『自我』の牢獄が溶解しているとき」だという。
独特な文章を書く著者なので、
人によって好き嫌いはあるかもしれないが、
私たちがどのような世界で生きているのかを知る上で
ぜひ一読してみたい本である。