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僕たちにいろんな意味で大きな衝撃を与え、
いまだ収束の目処さえ見えない東日本大震災。
この震災は、あまりに大きな「文明の災禍」
をもたらしたという意味で、
これまでの震災とは全く異なる。
それゆえに、
今回の震災をどのようにとらえ、
これからどのように生きていけばいいのか、
まだ整理がつかない人も多いだろう。
当然のことである。
この震災を生み出した
現代社会への反省なくして、
被災地や日本の復興はありえない。
「とりかえしのつかないことになる前に」
などと言う気はない。
もうすでにとりかえしのつかない現実に
直面している人や地域に
想像力が及ばないとしたら、
今回の災害を起こしたのはやはり
そうした精神を作り出した
文明の災禍なのだろう。
【引用メモ】
死者はこれから永遠に共同体を支えながら生きる存在になる以上、葬儀は共同体の手でださなければならないのである。/今日の文明は、このような社会をもまた壊した。そして人間たちは個人として生きるようになった。そのとき、死後も守る永遠の社会もまたなくなっていたのである。だから死は終焉でしかなくなった。(p43)
人間的な思いや行動が被災者たちを支えると言ってもよい。ところが原発事故ではこのことが通用しない。原発周辺に多くの人たちが駆けつければ将来の被害が拡大されてしまうだけだし、放射線濃度の高い地域の生産物を購入することも将来の被害規模を拡大してしまいかねない。もちろんそれでも避難した人たちを支えるボランティア活動を行なったり、義援金を送ったりすることはできるが、地域の再建に協力する人間的な思いや行動は通用しないのである。/農民や漁民の方々には申し訳ないが、放射性物質に関しては、論理的に「風評被害」は存在しないと考えた方がよいと私は思っている。なぜなら、風評被害とは無関係なのに変な風評をたてられて被害を受けることである。ところが放射線被害ではどの程度の放射線までなら安全なのかが、明らかではない。(p55)
現代人たちは真実を知って判断を下すわけではない。イメージを確立することによって、そのイメージに対して判断を下すのである。(p82)
放射性物質の飛散という問題に関しては、理論上は風評被害は存在しない。なぜならその影響が、いつ、どのようなかたちで出てくるのか、あるいは出てこないのかが、誰にもわからないからである。/今回のケースでいえば、風評被害とは国の安全基準を下回っているのに買い控えられている、ということである。(中略)もしも国の言うことが一○○パーセント信用できるというのなら、そもそもこんな事故は起っていなかったはずだ。なぜなら日本の原子力発電は安全だと国は言いつづけてきたのだから。(p97-98)
私は戦後の日本の大きな誤りのひとつは、子どもたちに「自分のために生きなさい」「自分を大事にしなさい」と教えたことだと思っている。/(中略)私が述べたいのは、何が自分のためになるのかなど誰にもわからないということである。そして、自分のためとは何かがわからないのなら、何が自分を大事にすることなのかもわからないだろう。/(中略)自分のために生きるとはどうすることなのかはよくわからないが、他者のために生きるということなら、どうすればよいのかはわかる。(p165-166)
専門家とは何であろうか。それはすぐれた専門領域の知識をもっている人のことだと思っている人がいたとしたら、その人々はよほどおめでたい人間たちである。そうではなく専門家とは、専門領域でしかものを考えられない人のことである。もちろん、ときに私たちは広い思考力をもった専門家に出会うことがある。だがその人たちは専門家ゆえに広い思考力をもっているのではなく、自分が身を置いている専門領域に対して批判の目をももっている、あるいは懐疑する目ももっているがゆえに、専門領域外からの思考方法も身につけているのである。(p176)
普通の人たちがバックアップする方法をもち、また巨大システムに対しても介入していける仕組をつくりださないと、われわれは専門家の暴走に翻弄されるばかりだろう。それでは無事な社会はつくれない。さらに述べればこのようなことが話題になっているときに、再び専門家の立場から、知の高みに依拠して、「現代文明のみなおしが必要だ」などと語ることは、その愚かさの表明でしかないのである。(p178)
これからの社会は風土とともになければいけない。ローカルな世界を基盤にしなければならない。復興をめざす地域も、日本の社会も。/なぜ私はそう考えるのか。そこにこそ自然や歴史や文化や、そして他の人々との確かな関係がありうるからである。(p183)