「里」という思想 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
「里」という思想 (新潮選書)/内山 節

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言葉も、思想も、人間も、
本質的にローカルなものでしかありえない。
これは非常に衝撃的な言葉でありながら、
また同時に納得せざるを得ない。

「私たちの社会は、この世界の一元化を、
 グローバリズムという言葉で肯定するようになった。
 それがアメリカ型資本主義の世界化に
 すぎないことを知りながら、経済への欲望が
 このグローバリズムを肯定させたのである」

このグローバリズムが、
人間から何を奪い続けてきたのか。
それを見つめ直さないことは、
結果的に人間性の放棄につながるだろう。
断言してもいいが、ローカリズムの否定は、
クリエイティビティの否定である。

【引用メモ】

村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。(p32)

歴史は人間の思考を深いところに導く。/現在の私たちは、歴史をもたない社会がもつ暴力性や一面性を、「アメリカ的行動」のなかにみている。(p57)

過去をもたない移住してきたアメリカ人と、語り継がれた過去を捨てた私たち。この両者は、自分がなぜここで生きているのかをつかめないままに、進歩をめざして走りつづける以外に存在感が発見できないという、共通の心理をもつようになった。/そのことが、いかに精神的に安定しない社会をつくりだしたことだろう。(p75)

言葉は本質的にローカルなものである。なぜなら言葉に付着しているこのような意味合いは、その地域における長い時間がつくりだしたものであり、その地域がつくりだしてきた風土から離れることはできないからである。(p114)

自由な労働があるとすれば、それは、自由な時間の創造を感じさせる労働のことなのかもしれない。(p126)

自然保護は世界中で議論されている課題なのに、このテーマの受け止め方はさまざまである。北米では原生的自然の保全がその中心になり、大陸ヨーロッパでは、人間の暮らす村々で野生生物が生存できるようにすることが、中心的な課題になっている。そして日本では、自然とともに暮らせる人間のあり方が議論の中心である。(p153)

私たちの精神風土では、自分の側に主体があるのではなく、支えてくれる自然や人々こそが創造者であり、それに応えようとするとき主体的なのである。(p155)

伝統的な日本的精神とは、多層的精神という言葉に集約できるのではないか(p160)

東アジアのモンスーン地帯に位置する、日本的な自然とともに生きることは、自然の多層性を受け入れながら生きる精神をつくりだすこと、でもあったからである。/(中略)この自然の多層性を受け入れていく暮らしが、伝統的な、多層的な精神をつくりだしていった基盤なのだと思う。だから自然と結びついた暮らしをやめたとき、多層的な精神も混乱するようになったのだ、と。(p162-163)

平和は、世界のさまざまな地域に暮らす人々の考え方や暮らし方を、お互いに尊重し合わなければ生まれない以上、平和に対する考え方も、多様なものを認め合わなければいけないのだと思う。とすれば、グローバル化が新しい戦いを生んでいるという問題は、平和主義をめぐっても成立していることになる。(p188)

毎日普通に暮らしているだけで、気付かないうちに、自分の精神が何者かに乗っ取られ、ひとつの時代や社会がつくりだす精神の習慣のなかにとりこまれながら、「現代人」という群れのなかにのみ込まれていく。この問題を、人間の自己喪失とそれへの恐怖という視点から描いたのは、二十世紀に流行した実存主義の哲学であった。(p194-195)

人間は誰でも、自分が暮らす世界の自然や歴史の影響を受けながら、自分の考え方をつくりだしている。風土やその地域がつくりだしてきた時間の影響を受けている、といってもよい。だから人間の発想も思想も、基本的にローカルなものとしてしか、つくりだしえないのである。とすれば、欧米の人々が近代社会をつくる過程でみつけだした理性中心主義も、その理性がみつけだした真理も、ヨーロッパ的な、あるいはアメリカ的なローカルなものとしてしか成立していないはずである。(p202)

自分たちの価値観にもとづいて、他の国や社会の人々を、管理していこうとすること自体が侵略である。/(中略)私たちの近代文明は何をもたらしたのか。その問いを忘れるなら、近代文明の浸透に自分たちの文化の破壊と現代的な侵略を感じる人々にとって、私たちは「敵」にしか映らない。そのことに思いを寄せられない傲慢さは、現在では、恥であるだけでなく犯罪である。(p209)

素晴らしき未来を提示し、そこにむかって人々を誘導する方法を、私たちは捨てなければいけないのではなかろうか。その意味で、私は、未来を喪失させようと思う。(p216)