月が明ルイ14世 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
今日の月はずいぶん明るかった。

月をながめていると、
「昔の人は、この月をどんな風に見ていたんだろう」
と思う。

僕たちはなんとなく
科学的な知識によるイメージでとらえたり、
自然の一部という感覚で見たりして、
なんとなくそれがそこにあるものとして
納得し、折り合いをつけている。

しかしこのブログでも何度か書いているように、
かつての日本には「自然」という概念がなかった。

そういうときに、
「月」はいったい、何として見えていたんだろう。

もちろん、「太陽」だってそうである。
「太陽系の中心にあって、地球は太陽の周りを回っている」
だなんてとらえ方をする人なんてほとんどいなかっただろう。
あれが「宇宙にある天体」という認識さえなかった時代がある。

ならばあれは、
光り輝きながら世界を照らす玉でしかなく、
そのときの名称はどうであれ、
「太陽」は何の比喩も持たず「太陽」だったのだろう。

それは隣の山田さんが他の誰でもない
山田さんであることと同じだ。

だからこそ、その頃の太陽も月も、
それは神様と同じことだったのだと思う。

フォイエルバッハは、
自然の諸力の擬人化により神が誕生したと言ったが、
それはもうそれまでの「神」とは全く別のものだろう。

キリスト教や仏教を宗教と呼ぶならば、
伝統的な自然信仰は宗教とは呼べないのと同じように。

今日はすでにとっても眠いので、
読者を無視した乱文を残して
このまま無責任に終わります。(いつもやろ!)