僕はときどき一人でカラオケに行く。
「恥ずかしい」というハードルは
もうほとんどクリアしているのだが、
なかなか克服できない難点がある。
それは、「歌のレパートリーのマンネリ化」である。
何人かで行けば、他人の歌に触発されて
「おお、そういえばあの曲があったぜ!」
と連想ゲーム的にレパートリーが増えることがあるが、
一人ではそれが全く期待できない。
歌える曲はもっとたくさんあるはずでも、
なかなか思い出せないのである。
結果として、いつも同じ歌を歌うことになる。
これではさすがに飽きてしまう。
だが、実はそんなマンネリ化を
脱するための秘密兵器がある。
それが、「履歴機能」である。
その部屋で歌われた過去100曲くらいが、
履歴として表示される機能があるのだ。
それを見ていると、自分がふだんなかなか
思いつかない曲が入っていたりして、
楽しみを広げてくれるのである。
…とこんなふうに書いていると、
「ずいぶんさびしい奴だな…」と
自分で思えくるが、いやいやそんなことはない。
「カラオケ」を「読書」と同じように
考えてみてはどうだろうか。
ひとりで読書していても、
誰も「さびしい奴」だとは思わないだろう。
カラオケだって、実はそれと同じなのだ。
「本を読みたい」のと同じように、
「歌を歌いたい」だけなのである。
そう思えば、一人カラオケには
何の違和感もないはずなのである。
…などと書いて
さびしさがより強調されたところで
次に進みたい。
そう、カラオケの「履歴機能」の話である。
この履歴機能の面白いところは、
そのカラオケの立地によって
非常に特徴があるということである。
渋谷などのカラオケでは、
ジャニーズ系や最近のJ-POPなど、
当然若者が歌う曲ばかりが並ぶ。
ところが新橋などになると、
「オッサンか!」という突っ込みが
自然に出てくるレパートリーになり、
演歌なども混じりはじめる。
ほかにも韓国の曲が並ぶ場所、
洋楽がやたらと多い場所などさまざま。
しかもだいたい、その場所のイメージを
裏切らないのが面白い。
この履歴機能のおかげで、
僕はマンネリ地獄からかろうじて
抜け出すことができるのである。
しかしこれは案外、
カラオケだけに限らないのではないか。
それぞれの「場所の履歴」のようなものが、
いまその場所にいる人に
インスピレーションを与えたり、
さまざまなヒントとなることは
大いにありそうな気がする。
例えば、3.11の津波から集落を救った
「此処より下に家を建てるべからず」
という石碑もそのひとつかもしれない。
その場所に残された「履歴」を参照していたからこそ、
そこの集落の人たちは助かることができたのである。
あるいはそれは伝統や民話という
形をとるかもしれない。
ここではこの作物を育てるのがよいとか、
こういう作法を守らなければならないとか。
またその場所の履歴は、過去を見せるだけでなく、
新しい未来のアイデアを生み出すこともある。
今ではもう作られなくなった作物を復活させて
その地域ならではの特産品を作るなど、
まさに今見直されている町おこしの手法である。
ところが、明治以降の日本人がやってきたのは、
その「場所の履歴」を消去することだったと言えるだろう。
その土地の人たちが守ってきた神仏を破壊し、
その集落に伝わってきた伝統や教育を形骸化させ、
その自然とともに育った感性を奪ってきた。
それは、「場所の履歴」を消し去ることで
国家を成立させてきたアメリカという国を
模倣してきた弊害であろう。
いまさまざまなところで
「危機管理」の重要性が叫ばれているが、
「場所の履歴」を参照することは、
荒々しい自然とともに生きてゆく宿命にある
日本人にとっては必要不可欠な要素である。
だからこそ僕らは「過去の履歴」を
残していかなければならないし、
現在の履歴をしっかりと刻み、
伝えていかなければならない。
だから僕は今日も
渋谷の「歌広場」におもむき、
「ちょっと古めのJ-POP」の履歴を
着々と刻みつけるのである(参加者募集中)。