【映画】祝の島 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
電力会社との対立を描くのではなく、
祝島の人たちが何を守ろうとしているのか、
を描こうとしているところに好感が持てた。

映画の後に、監督の纐纈あやさんと
哲学者の内山節さんのトークショーがあった。
下記はそのときのメモ。

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祝島の人たちが言う「私たち」という言葉は、
自然を含んだ私たちであり、
祖先を含んだ私たちであり、
子孫を含んだ私たちであり、
神仏を含んだ私たち。
東京にいると、「ここにいる私たち」
という感じになる。

原発反対のデモが、時を経るにつれて、
まるでお散歩のようになっていった。
ゆるやかな時間、日常の中にこそ革命がある。
そういうことを描いた映画が過去にもあった。

ドキュメンタリーだから客観的だとは言えない。
監督が見ようとする世界が見える。

原発問題は「正しさ」を争ってはいけない。
それは見る角度によって違う。
私たちにとって「何が大事なのか」を議論すること。
それは、「どんなふうに生きていきたいか」
「どんな社会をつくっていきたいか」
ということとからんでくる。

子どものために30年かけてつくった農地が
「原野に還っていい」と言える
島の人の気持ちがなかなか理解できなかった。

島の人は、「いない人」の話をする。
ご先祖様のこととか、子孫のこととか。
時間の感覚が違う。

日本の共同体の「歴史」は過去ではなく、
自然やご先祖様が今もすぐ脇にいて、
いま生きている人たちを包んでくれている。

「無縁社会」と言われるが、
そこに「自然」というものが入ってくることで
なにかが変わるのではないか。
自然とつながることで、人間の限界を知るとか。

祈ることによってしか
つながることのできない存在、
たとえば神仏のような、
そういう世界のつながりが必要。
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