うんこ VS 名言 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
きのうは、

「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」

という名言を紹介して、
「時間のあるときにうんこの話をする」
ということを書いた。

すると、

「うんこの話より名言の解釈を聞きたい」

という予想外の声をいただいたので、
今回はうんこの話を急遽とりやめ、
仕方なく前回紹介した名言の解釈をする。

ちなみにこの名言を言った
松永安左エ門という人は「電力王」「電力の鬼」
と呼ばれたすごい人だったらしい。

この名言を言ったいきさつなども
ウィキペディアにあるので
詳しくはそちらをどうぞ。


「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」


僕は永安左エ門さんのことは何も知らずに、
この言葉だけを先に知った。

だから彼の意志とは関係なく勝手に解釈して、
ほんまにそうやなーと思ったのである。


だいたい人間が決める人間の価値なんて、
その時代や状況によってコロコロ変わる。

過去の偉人も、時代が変われば愚物になりかねない。
戦争だって、勝てば官軍、負ければ賊軍。

そういう意味では、代表的な日本の偉人とされる
松下幸之助だって、少し時代が変われば
「こんな悪いヤツが過去にはいたのか!!」
と言われる可能性だってないとは言えない。

もちろんそれは誰でもおなじである。
たとえば坂本竜馬だってかまわない。

「あの坂本竜馬が、
『土佐人、薩摩人じゃなく、日本人ぜよ!』
 とか叫んだから、地域の共同体の解体が
 ここまで進んでしまったんだ!
 とんでもねーことしてくれたぜ!」

という評価が一般化する時代が
こないとも限らない。

そんなふうに考えると、
何が正しくて何が間違っているのかなんて、
わかりようがない。

つまり、「できる、できない」とか、
「すごい、すごくない」なんてことは、
単純にどっちがいいとは
言えないはずなのである。

あの人はいい会社で働いているとか、
あの人はものすごく性格がいいとか、
あいつは仕事ができないとか、
あいつは全然面白くないとか。

そんなことは人間の値打ちとは何の関係もない。

養老孟司さんは、
『希望のしくみ』という本の中で
こんなことを言っている。


「入学試験の価値観なんかにも通じるんだけど、
「できた方がえらい」っていうのは大間違い(笑)。
 そんなの、人間の価値とは関係ないんですよ。
 できようが、できまいが、
 たんなる状態の違いでしかないんだから。」


ところがその「できるか、できないか」で、
人間の価値を決めてしまうのが、
私たちの社会というものである。

しかしよくよく考えてみれば、
今の地球の環境破壊を先導してきたのは、
いわゆる「できる人たち」である。

ノーベル賞を受賞した優秀な経済理論が、
リーマンショックやサブプライムローン問題という、
とりかえしのつかないほどの
金融危機を引き起こしているわけである。


「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」


そうだ、何ごとだー!と言いたくもなるではないか。

そして、世の中の価値観が
大きく変わろうとしているいま、
この言葉のもつ意味はますます
大きくなっているような気がするのである。

もちろんうんこの値打ちについても
同じことが言えるが、それはまた
別の機会にゆずることにしよう。