今回のテーマは全寮制フリースクールをなぜ運営しているのか?
このことをテーマにブログを書いていきます。
興味があるかた、全く興味がないなどとご意見もあるかなと思いますが。
私がチャレンジスクール代表の佐野です。
僕の経歴
小学校のころ親の都合で大阪から埼玉に引っ越し、小学生の高学年の時にまた、親がけんかをして大阪に転校をしました。
子どもながら不安が強く、家庭環境もあれていて落ち着くことができた記録はありませんでした。
ただ母だけは僕たち兄弟の為に必死に働き、辛いことも我慢してやっているなと子どもながら感じることはありました。
でもこちらは右も左も分からない小学生で引っ越しをする度に友達ともお別れをすることになり、小学校から中学にかけて幼なじみという存在はいませんでした。
もともと今思えばですが、僕自身も発達傾向が強く、コミュニケーション能力が非常に低いし、言語化が非常に苦手です。
今も説明書とかの意味が理解が出来ないタイプで感覚で何事も取り組んでしまいます。
それでも小学生だから学校には行く、だけどテストの点数はいつも低く、お母さんに怒らることは無かったですが自分なりに苦しい日々はありました。
なんで教科書のことが理解できない覚えようとしても、注意散漫で集中できないのか?
現在42歳なので、当時は発達障害という言葉もない時代でした、今思えば。
普通に学校に通っていれば、授業中にうるさいやつも居れば、じっとしてられない人もいてその時は何も気にせずそれが当たり前の日常でした。
私が中学1年生の時に大阪に転校して、数か月でまた埼玉県に引っ越しをすることがあり。
その時からイジメを受けることが増えてきました。
日常的に殴られたり、シカトされたりと遊んでほしいならお金を持ってこいなど要求され、僕はそれでも遊んでもらえるならと親に言い訳をして少しお金をもらい、遊んでくれた友達にお金を渡していました。
あの当時は、現代と違いスマホもなく遊ぶとなると外に行くことしかない自宅でテレビゲームといってもスーパーマリオなどのゲームしかなく、昔からロールプレイングゲームがどうしてもできなくて飽きてしまう。
注意欠如だからできないことは今になり理解しています。
中学もいじめを経験して、辛い思いをしても学校に登校しないしたくない期間もありましたが。
兄は早くに家をでて、自分の生活を確立していました。
僕と母の二人暮らし、母はフルタイムの仕事で毎日、仕事帰りに自転車でスーパーにいき食料を買ってくる生活をやっていたことを覚えています。
そんな母に中学2年生ごろから暴言を言うようになり、日々のストレスを母に発散しているようでした。
学校にも行きたくない行ってもつまらない。
自分の中で何がしたいのか分からない時期もあり、それでも母が毎日のように普通に接してくれるので、少しは母の迷惑にならないようにしようと思いながら中学に通っていました。
中学三年生になり、高校受験が始まり、勉強は正直自信がなくやる気もない。
母はそれでも高校受験をしたいなら応援すると言ってくれ、、、、、
その当時興味があった車の整備士になってみたいと思い、工業系の高校受験を受けました。
はじめは推薦枠で受けましたが、見事に不合格
そして一般受験でなんとか高校には合格することができました。
母も喜んでくれて、僕自身も嬉しかったです。
高校に入学してからの問題が発生しました。
工業高校ということもあり、共学の学校なのに男子しかおらず、昔ながら不良しかいませんでした。笑
今では見ることがない短ラン、ボンタンなどなどの制服を着た先輩たち。
いつの時代だよと思いながら学校には通っていましたが、とある日同学年と先輩と揉める羽目になり喧嘩。
小さいころから体は人並み以上に大きく目を付けられやすいタイプでした。
今回の喧嘩騒ぎが学校での問題になり、停学処分となったのでそのまま学校は自主退学となりました。
三月生まれの僕は15歳にして無職の少年になり
親からは通信制の高校の提案があって通信制にも行かせもらいましたが、そもそも勉強がきらいできない奴が通信制などは到底無理な話でした。
そこからも定時制に入れてもらったりと母子家庭の母は僕のために本当にいろいろとやってきてくれたのに、すべてをぶち壊してしまった僕が居ます。
今となっては反省しかないし、感謝しかないです。
その当時は親を恨み親のせいにすることもあり、自暴自棄、人生なんか詰まらないと日々思っていました。
自分の居場所というものがなく、非行少年たちの仲間になると認めてくれて受け入れてくれていると間違えてた安心感を覚えてしまい非行友達と遊ぶことが多くなりバイクで走り回ったりと未成年の時に道を外してしまい悪いこともして捕まったこともありました。
捕まったからこそ、気づけたこともありその時に母親の深い愛情も再認識しました。
見捨てられも仕方ないことをしていた僕を諦めず、支えてくれた母親、きっとあの頃はいう事を聞かない僕に頭を抱えていたと思います。
最近母にはあの頃はあなたがいつ事故などにあって命を絶つのではないかと不安が大きかったと言われています。
若いころは親の言うことを真に受けず、余計なお世話だと思う日々。
とある日に地元では有名な人から、これ以上は悪いことをしても仕方ないから自分の道を探して貫いてみろと中途半端な人間はカッコ悪いぞと言われたのが、きっかけで普通にアルバイトを探したり、土木の仕事をしたりと右往左往した人生を15歳から23歳までやっていました。
23歳からは自分の弱点それは人と話すことが苦手ということ、慣れるには何をしたらいいのか分からず。
求人誌をみて不動産屋の営業に面接に行きました。
お客様と話すことができれば克服できるのではないかと安易な考えで働き始め、見事に会話の件数が増えれば増えるほど上達した気がしました。
20代の時はいろいろな業種の仕事につき、沢山の方と出会い勉強をさせてもらいました。
そんな中僕が20代前半のころから兄が全寮制フリースクールをやっているのは知っていたので、もちろん興味はあり兄からも一緒にやるかと誘われたこともありましたが。
兄と仕事をすると、自分の力が発揮できないと思い断っていました。
それでも、兄がどんどん困っている若い子を助けている姿をみてうらやましく思い、僕自身も兄とは関係がない全寮制フリースクールで仕事を始めたのが始まりです。
今までの仕事はモノを扱う仕事があり、決められたことを行っていれば仕事はできていましたが。
フリースクールに来る子どもたちは、個々に個性があり一筋縄ではいきませんでした。
そこから、子どもたちとどう向き合ったらいいのかと自問自答する日々が続き、うまく会話ができないのであれば子どもたちの為にご飯を作ってあげて喜んでもらうことが出来たら変化があるのではないかと思い、僕自身も飲食店経験もありご飯作りには少し自信があったので、やってみたところ子どもたちからこれうまいの言葉を聞けたときには感動しました。
もちろん食べることは生きていくうえで必要不可欠な部分で、美味しいものを食べている時は幸せになれます。僕もですが。
そこからは子どもたちとも普通に関われるようになり不安から自信に変わりました。
なんだかんだで12年目を迎えて、卒業した子どもたちも数えきれないほどの人数にもなり、出産、結婚、大学進学、社会人デビューと沢山の連絡が入ってくるようになりました。
本当にうれしい限りです。
最後に一番伝えたいのは
全寮制フリースクールが日本で少ない理由
それはここまで自分の人生を犠牲にしてやれる覚悟がある人が少ないからだと思います。
正直、通学型フリースクールには子どもたちが帰宅後には何も責任もなく、心配事も少ないかなと。
全寮制フリースクールは、もちろん勤務はシフト制ですが、夜間もスタッフが必ず待機しています。
不測の事態に備えて、私自身も泊まり込みで勤務することもあり。
私たちは自宅に近い環境提供と、安心できる環境をモットーに支援を行っています。
子どもたちを預かった以上は責任も大きいですが、子どもたちからの学びも沢山あります。
どんな子供でも私の理念では手の焼ける子どもでも諦めらめることをしない!!!!!
最後まで支援を続けたいと思っています。
それが自己犠牲となろうと、子どもたちが間違えた道に進み、人生を棒に振ってほしくないからです。
自分自身が、自分のせいですが苦労した結果一番理解しているので
不登校で悩んでいる子どもたちには明るい楽しい人生を歩ませたい