母語と国家語
母語と国家語
今、われわれの「国語・平和教育研究会」で、森本さんが提起し続ける形で、母語という柱を立てて追究している。母国語ではない。人が考えるのは、言葉に依る。その思考するためのことばとは、何か。多くの人は、単に日本語などといって済ませてしまう。国語科と数学科をまとめて記号科にするといった論は論外として、国語科か日本語科かといった論でも、このこと(認識とことば)は問題にされていない。むしろ言語論として正面から取り上げると浮上するのかもしれない。
仲間だった岩田さんは亡くなってしまったが、個人の言葉と社会の言葉という2側面から追究した。森本さんは、ぼくもそこに賛成しているのだが、その言葉・日本語はどこから来た言葉か、ひょっとすると国家語を自分の言葉と思わされて・刷り込まれていないかという視点を立てる。このことは、会でもまだ深く論議されていないのだが、業界用語・仲間内方言にも及ぶことにもなりそうだ。俺は教師語や組合語でしゃべっているのではないか、と。
ことばを問題にするということは、認識主体の認識のあり方の問題だから、当然立論は厄介だ。認識するのは個人で、だから自分にしかわからない言葉でもかまわないのだが、それはいわゆる内言の段階で、話す・書く外言となると通用しなければならないから、共通性を持たなければならなくなる。二つを断固として併用できればどんなにかいいのにとも思うが、幼児期から覚える・獲得するのは通用する言葉だから、それらを区別できなくなるのもまた当然だ。そこで、個人の認識に、ある集団・組織の認識がかぶさることになる。方言という地域で共通する言語は、かなり問題にされてきた。だが、一般民衆と国家とでは、共通語・標準語と俗語といった形以外には、ほとんど取り上げられてこなかった。
退却は転進と大本営用語で規制され、終戦が敗戦にすり替えらた。それは戦後すぐにも新造され、軍隊・軍艦・戦車は自衛隊・自衛艦・特車と呼ぶことで現在に至っている。今も、骨太だとか構造改革だとか、新造語は次々に生まれる。それらは、情報操作の問題として論議され、文法的には言葉の魔術などとも呼ばれ、読み領域では論法といったことで時に議論される。日本には修辞論がない状態だということも関わって、この辺がとてもやりにくい。