再度 金の総額
前回まちがえて、行を切らなかったために、読めないという苦情が来て、、慌てて渡辺さんに相談したり、いろいろやってみましたが、結局直せません。それで、もう一度入れ直すことにしました。折角開いてみてくださった方には、申し訳ないことでした。ごめんなさい。
金の総額
知りたいこと、わかりたいことの一つに、金・貨幣の総額というか全体というか、金というものはいったいどこにあるのかと
いうことがある。流通している金としまわれている金を合わせて全体になるはずだが、そうなるのだろうか。銀行預金などは個
人としてはしまってある金だが、銀行は回しているのだから流通中だ。だが、食べ物や家屋が金で買われて、体力や安心安全と
して動いて給料として再生産になるには、剰余価値や目減りは別としても、ずれがある。消化も成長も含めた時間のずれの中で
物価と給与のずれなどもあって、収奪も絡む。また、個人としてでは収支がまとめられなくて、一家とか一社とかなら一つのま
とまりとして計算できたとしても、国はそういう意味の一まとまりのものであるのだろうか。外貨の流通中とか、貿易黒字分と
かは、金の総額とどう関わるのか。問題にされる膨大な国家赤字などもそれらのずれや総額とどう関わるのだろうか。
日銀券の発行高というのがどうもよくわからない。江戸時代など、何度も悪貨への改鋳や大量放出で物価調整などしたという
が、同じことを今もやっているという単純なことだろうか。へそくりをごみに出して燃えてしまったのは、国中足しても大問題
にはならない。擦り切れた札の代わりは紙が新しくなるだけで、額に変化はない。インフレ対策で増やしたのはいつ引っ込めて
いるのだろうか。今までのその足し引きは釣り合っているのだろうか。金余りなどと簡単に言うには大きすぎる金額が、世界中
を引きずり回しているが、いくつもの国を丸ごと買えるようなその金はどんな形でどこにあるのか。
現在の貨幣経済は、財布ケータイやカードに現れるように、貨幣というものが金の総体の首座を失いつつあるようだ。現金を
持ち歩かず小切手にサインするだけというアメリカの富裕層の姿は、1940年代に聞いた覚えがあるが、今は符号(変換ミス
ではない)の時代かもしれない。企業などの収支や決算は数字でしかない。保有する現金額といっても、文字通りの現金ではな
い。まさか札束を決算総会に持ち込んで見せることはなかろう。商取引といっても、札束が行きかうわけではない。単に数字が
動いているだけだ。そういった意味で、現代はバーチャルなのだ。そこに、広義の、道義的意味での詐欺的行為が次々出てくる
のだろう。法律が後追いしていくのを、ぼくは呆然と見ているだけだが、見方を変えれば、法律を作るまで行為を止めて置けな
いところが計算された抜け穴であるのかもしれない。
ちょうどこれを書き直しているとき、手当たり次第に読んでいる本の、これまたちょうど読み終わった本の、中身も面白かっ
たが、あとがきに気をひかれた。
あとがき (黒須紀一郎『天保蘇民伝』1994作品社)
この「天保蘇民伝」の構想を考えている時、突然バブル経済が崩壊して、不景気がやってきた。
金銭にあまり縁のない私も、バブルが弾ける前までは、テレビや新聞紙上を賑わす何百、何千億円という途方もない数字を、
ゲームでも見ているように、面白く眺めていた。
ところが、バブルが弾けると、途端にどん底の不景気となった。どこにも、金がないという。不思議であった。あれほどの札
束が、消え失せてしまったというのだ。
あの戯れに踊った札束は、どこへ行ってしまったのだろう?
そんなことを考えている内に、今度は百年ぶりの米の不作となった。これが江戸時代であれば、間違いなく大飢饉になってい
る。米を買い漁る人々の姿を見て、天明や天保の飢饉の話を想起した。
と、思っていたら、今度は聖域であった米輸入禁止の撤廃である。これは大変なことになるな、と思った。日本全国に筵旗が
立ち、国会は農民デモに席巻される。そんな映像が頭に浮かんだ。しかし、実際は小ぜりあい程度で、何も起こらなかった。
あの何百年も続いてきた農民の怒りは、どこへ行ってしまったのだろう?
この二つの疑問が、「天保蘇民伝」のモチーフとなった。(後略)
さすがに作家というものは、現実から考えることを、別の素材に乗せて、ある世界を創るのだ、と思った。作家総てではもち
ろんないが、そういう作家もいるということが嬉しい。
給料が計算書だけになることに最後まで、といっても数年だったが、抵抗したものだった。今、税金や健康保険や、振込みで
なくてもいいものは窓口払いに通っているが、バーチャル化への抵抗は果敢無い。天引きのものも、窓口払いにできるらしいが
、ちょっと面倒で手が出せない。
ある、われわれに身近な元教師が、何年も税金を払う必要がないと悠々しているという、知っているものは知っている話があ
る。朝日で公貧社会というシリーズが始まった。第一回に税金を払わないサラリーマンの知恵のことが出ていた。なるほどとわ
かる。これを読んで何パーセントの人が同じようにやるだろうか。だが、これをやるには、かなり神経を配ることと、数字の扱
いにめげないこととが必要だろう。どちらもぼくには無理そうだから手は出さない。その意味でも、算数・数学の意味は大きい
。少なくとも、数字嫌い・苦手の意識は、小中の学校教育に大半の責任がある。ということに、やや自己弁護の響きが伴ってし
まうが、筋からは、確かだ。数字大好き人間が大半になったら、どんな社会になるだろう。
金の総額などとこんなことを考える先にあるのは、経済の現状、富の偏在といわれている富はどこに行っているのかというこ
となのだ。金が全体でいくらあって、そのうちのどれだけがどこにあるのか、一番大きい部分を持つのはどんな人物たちなのか
。ワーキングプアや浮浪生活者を頂点に、お天道様と米の飯のうち、米の飯がついてこなくなっている現状、格差といわれる中
で貧者・負者の手に入るはずの金がどこに行っているのか。一部資本家だなどという一般的、半ばごまかし的でなく、個人名と
までいわなくとも、搾り取る終点にいるものが誰なのか。ぜひ知りたいものだ。