乱読 このよきもの
童門冬二『千利休』(96.6.20 PHP研究所)では、千利休の侘び茶の成立についてずいぶん長く述べている。この本のほとんどがそれに費やされているというほど、多面的に追求している。この人の小説は、小説の名の通りに、説・論と言っていいような文体に特徴があるようだ。その中で、面白い説に出会った。
利休が北向道陳の次に師事した武野紹鷗の茶の湯の精神の成立を描いている。筆者によれば、紹鷗の歌の師の三条西実隆が藤原定家の『詠歌大概』を解説した。
「歌の極意は、稽古と作意にある。定家卿は、歌の極意を、情は新しききをもって先となす、人のいまだ詠ぜざるの心を求めて、これを詠む、と・・・」
紹鷗は、これを茶の湯の極意も同じと閃き、定家の
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」
を、茶の湯における寂であるとした。
筆者の説は、これら先人の隠遁へのつながりを利休が拒否して戦う姿勢を持つ、というように続く。
さてそこで、なにがおもしろいのかというと、ここで主軸になる侘び茶認識は、温故知新と通底する、あるいは温故知新から発展したことなのではないかということだ。童門氏が温故知新との共通性を感じているなら作品に反映するだろう。これを仮説として証明しようとするとおおごとだ。これら登場人物たちやこの時代の経学がどうだったかを調べなければならない。儒学史といった概説的なものには出てこないだろうから、膨大で細かな調べをしなければならない。たぶん誰もやらない。現代の作家である童門氏は、たぶん茶の湯側の調べをして、新古今の幽玄と茶の湯の侘び・寂との相関を見、一世界を組み立てた。作品として創作するとか、形にできるとかは別として、ものを考えるということの一面を考えると、おもしろいということになる。学力の中身というより、学力の方向・目的ということにつながると思う。