このような成長の法則について体験を通して気が付いてくるにつれ、
私はやっと師弟制度(見取り稽古)の価値に興味を持ちはじめたのだが、
なんとも贅沢で理想の高い、ゆとりのある教育だと分かりました。


それこそ昔は、住み込みで見本となる人と生活を共にし、
見本となる人の匂い(この匂いを「薫陶」といいます)を感じるところからはじめ、
その見本となる人の価値観などを察しては考え(ワザと言葉で教えないのです)、
そして実際の技術となるものは、当初は見せるだけで教えないのです。


しかもタダで見せるのではなく、なかなか見にくいように他の仕事(雑務)をやらせながら、
盗み見させるように仕向けるのです。
この雑務というのが重要で、盗み見させやすいようにした配慮だったりします。
そして盗み見したことをマネできるようにと時間を作り、好きなようにやらしてみるのです。
好きなようにやらせるのは、いきなり仕事としてやらせるのではなく、興味が育つようにと考えた、
教える側の配慮でもあります(こういう意味でも住み込みは意味がありました)。


教える側はこういう環境を用意してあげ、そこで長い時間を掛けて、
興味が育ち察し考える習慣も備わった者を見分け、はじめて直接の指導をしはじめるのです。
それこそ何年も費やし、育ちそうな人材かを見極めようとすることもあり、
その期間中に、興味が育たなかったり維持できなかったりした者は自ら去ったり、
察し考える能力が無いと判断された者はクビになったりしたのです。
こういう過程を通して「見込みある者」を発掘し育成していくのです。


このような教え方は、江戸時代のような安定した時代に生まれた知恵でもあるのですが、
ある意味、古き良き時代だから通用したという側面もあると思います。
時代が競争を要求されるようになると、教える側が本来どうしてそのような教え方をするのか、
分からないでやっているという傾向が強くなり出します。
つまり教える側の人材不足になり、このゆとりある教育の知恵は形骸化したシステムとなり、
形骸化してしまったら、学ぶ側も「そんな教え方なんて」と馬鹿らしく感じるものです。


私は、短絡的にテクニックを教えても本当の成功はしないと感じているので、
このような教え方が現代でも重要だと思いますが、
現実では、誰を師と仰ぐべきかどうかを考え選ぶことも大切だと思います。


特に「きちんと愛情を持ってくれそうな人」かの判断は重要だと思います。
但しこういうこともいちいち言っておかないといけない気がするので書きますが、
教える側というのは、付き合いが始まって直ぐに愛情を注ぐようなことは本来しません。
厳しさがあるのが普通だったりします。
他人に甘えた考え方を持っていると、逆に教える側から見放されることもあるので注意しなければならない。


そういうことをふまえて、単なる学年や入社が早い先輩の中には、
教えてもらう人という意味として付き合うべきでない人もいるので見極めなければならないと思います。
つまり学ぶ側にも資質と覚悟がいるということなのでしょう。



私は学生時代、今すぐ社会で通用出来る人間になりたいという意識から、
色々なテクニックを調べ盗みまくったりしていた。


当時はそれでも満足していたが、今思い返せばあまり賢い方法ではなかったとも感じている。
きっと当時の大人たちからはマセて知ったかぶる子供に見られていたフシもあると思う。
そしてその頃の自分のまま気が付かずに大人に成っていたら、
仕事をする人間として、即戦力にはなっても飛び抜けることが出来ない人間に成っていた気がする。


受験テクニックというのも同じに感じる。
賢くなった気がして、実は中身の成熟度は全然高まらない気がしてならない。
あるとき、そんな勉強法がまったく時間の無駄だったと感じる時がくるのかもしれない。

日本には昔、師弟制度というのが色々な職場でその名残が残っており、
要するに「仕事は見て盗んで覚えろ」というスタイルがあった。

武術などでは「見取り稽古」と言われたりする。


学生の頃の私は、何でこんな理不尽で非効率な教え方をするのだろうと思っていた。
「早くコツ(ノウハウ&ポイント)を教えてくれよ」と思えてしょうがなかった。
そして「この人(教える人)は教え方を知らないで知ったかぶっているのではないか?」と勘ぐったりもした。


しかし会社の責任ある立場や教える立場になって気が付くようになったのだけど、
新人にコツ(ノウハウ&ポイント)を教えてしまって、いきなり仕事がある程度出来るようになっても、
なんともまぁ応用の利かない、不測の事態が起こったときに、適切な行為を想像出来ない、
いちいち見守っていてあげないと危なっかしい、そんな人材に育つことが多いのです。


テクニックから入る人間は応用が利きにくく、本当の意味での成長が遅い。
逆に真理から入る人間は悟れば応用自在で、本当の意味での成長が早いということを、
子供には覚えておいて欲しいと思います。



またまた前回の続きです。


サバイバル能力が有るか無いかの判断基準に、
どれくらい社会慣れしているかというのを見たりするのですが、
社会慣れしているかというのは、一緒にご飯を食べたりすると判断しやすかったりします。
食事という自分の食欲を満たす行為の中で、
どれだけ、そしてどのような気配りや気遣いが出来るかを見るのです。


私は基本的に、人材の判断は加点法で「良いところはどこだ」というのを見つけようとするのですが、
極端に「社会慣れしていないな」と思ってしまったら、
どんなに仕事が出来たとしても、一緒に仕事をしようとは思いません。


いい歳のくせに社会に慣れていないというのは難儀なもので、
社会慣れしていないが東大的な思考回路を持ったいわゆる優秀な学生と、
物事の飲み込みの早さはイマひとつだが周囲に気を配り教えたことを愚直に繰り返す中卒では、
もし仮にこのような条件だけで比べた場合、
私の場合ですが、評価はほぼ同じで、期待度でいうと中卒の方が高いことが多いのです。


もちろん人それぞれ使い方教え方それぞれで、また相性というのも正直言うと影響し、
人を判断することは一概には出来ないのですが、
東大的な思考回路というのは、いくつになってからでも身に付けることが出来るのに対し、
社会慣れしていないが為の、気配りのなさや配慮の足らなさ、
そして分をわきまえる些事加減といったものは、
大学を卒業した後に一から学ぼうとしても、そうは身には付かないものです。
というか無理ではないかとさえ感じます。


また、東大的な思考回路というのは、
いい歳した大人にだって、教える側が損得抜きに根気良く教える気にもなれるのですが、
いい歳した社会慣れしていない大人に、気配りの仕方や配慮の仕方、
そして分をわきまえる些事加減を教える気には、どうしてもなれないのです。


これらはいわゆる子供に「しつけ」をするような要素もあり、
まして相手は相手でそのような「しつけ」をされるのをありがたいと感じることなど無いわけで、
正直、私が何でそんなことを教えなければいけないのだとモチベーションが上がらないのです。


このような心情も働き、
やはり若いうちでないと学べないもの、身に付かないものというのはあると思います。
その順番を間違えることは非常に人生を左右すると思うので、子供を育てるうえで注意したいと思います。



前回の続きで、東大生についてです。


これは私の独断かもしれませんが、東大生にありがちな特徴というのを書いてみたいと思います。


まず東大生の仕事ぶりの特徴をあげろと言われたら、


与えられた仕事(課題)の意味を良く考え、不安なら間違い無いか確認し、

上司や同僚、そして部下との関係に気を配りながら(保身を気にしながら)、

問題があれば調整(根回し)し、

そして仕事(課題)をクリアする為にスケジュールを組んでコツコツと作業をこなしていく。

(ように仕事に取り組もうとする)


というものだと思います。


改めて文章にしてみると、凄い優等生というか模範的社員像だと思えるのですが、

ひらたく言うと、「ソツなく仕事をしようとする」のが特徴かと感じています。

ただ、それほど気になることは意外に無く、性格みたいなものだからそういうものかと感じたりします。


能力的な部分では

「調査(観察)・分析・図解・整理(分類と体系化)・言い換え」が得意という傾向がみられます。

最近では「東大生が書きました」ということをウリにした本が増えたと思うので、

一度見てみると分かると思うのですが、

この手の本はほぼ全て「観察・分析して、分かりやすくまとめたり、言い換えたりした本」です。

逆にクリエイティブというかオリジナリティを強く感じるような本は見たことがありません。

(東大生をウリにしていない著者は別です)


「東大生ってどんな人間?」と興味を持ったら、

東大生が書いたことをウリにしている本を何冊か読んでみて、

一般的な傾向というのをイメージしてみると、あながち外さないと思います。


こういう能力が飛び抜けている東大生が、私の連想する典型的な東大生なのですが、

この手のタイプの人間は、もうよっぽどのことが無い限り倒産する心配の無い大企業などでは、

持ち前の「ソツなさ」と「調整力」という仕事遂行上の能力が効を奏し、

役員まで登りつめたりして、能力を発揮出来るのではと思います。


しかし世の中の90%以上にあたる「普通の会社」では、

「仕事遂行上の能力」という評価も大切ですが、それ以外にも、

個人としての逞しさというかサバイバル能力がどれくらいあるかというのが気になってきます。


仕事遂行上の能力とは、言い換えるなら「お役所仕事的な仕事の遂行能力」であり、

サバイバル能力とは「ピンチを乗り切りチャンスを見つける(考える)ような仕事の能力」のことです。


では、一般的な東大生にどれくらい「サバイバル能力」があるかというと、

私はあまり「コイツはサバイバル能力が既にあるな」と感じたことがないのです。


もちろん例外は多く、今現在、四十歳以上(もしくは前後)の東大卒の人には、

いろいろと揉まれた経験のある、欧米のエリートのようなタイプを輩出している気がします。

たぶんこれは私の推測ですが、

東大生の質の変化は、受験テクニックが確立しだしてきた時期と関係があるのでは無いでしょうか?






PICASO
東大生が書いたお役人コトバの謎
東京大学三四郎Investors
東大生が書いたやさしいマネーの教科書
東京大学Agents
東大生が書いたやさしい株の教科書
東京大学赤門Economist
東大生が書いたやさしい経済の教科書
東京大学TNK
東大生が書いた頭が良くなる数学の教科書
東京大学起業サークルT.N.K
東大生が書いた頭が良くなる算数の教科書

徳田 和嘉子
東大生が教える!超暗記術

私の東大生体験を書いてみたいと思う。

将来、東大生みたいな人間に成りたいか、という参考にしてくれれば幸いです。


私の会社は東大近くの本郷三丁目の辺りにあったこともあり、

バイトで東大生を使ったり、近くのスタバに行ったりしたときや、

ランチなどでどこかの飲食店に入ったりしたときに、

こちらが聞くまでも無く、東大生の声を聞くことも多かったりした。

また本郷三丁目界隈はそれほど値段も手頃で美味しい飲食店が少ない(と私は思う)為、

たまに気分転換として東大の学食に入りご飯を食べたりしたので、

東大生のナマの声はそこそこ聞いたつもりでいる。


私が知ったナマの東大生というのは、

周りから東大ブランドとして期待されることに対して、

実は自分はそれほどでもないと気が付いている場合があります。

肩書きは肩書き、本当の自分は自分が一番良く理解していたりするのでしょう。

逆に東大がプレッシャーになっていたりして、

自分が東大生だということを必要以上に知られたくなかったりする人も多いと思います。

こういうのを「逆学歴コンプレックス」と言うみたいです。


そして東大に入ってみたものの、結局やりたいことは見つからず、

大学院へ進むことを考えたり、他の専門学校などを掛け持ちしたり、

結局は就職せずにニート的な状態になったりすることが、多々あると知りました。


東大まで進学出来たのに、今さらみっともないマネは出来ないという心理もはたらくのか、

他の大学の学生より、身動きが取れないというか、世間を気にすることが多いかと感じます。

思っている以上に気苦労が多いようなのです。


東大は時折、官吏養成学校と揶揄されることがある。


官吏養成の基本は

言われたこと(命令されたこと)を理解しソツなく正確に実行するよう育てることであり、

東大はそういう人間を育てる訓練学校という側面もあると感じる。


これは私が感じるに、ロボットやコンピューターの性能のような能力を訓練しているとも言えると思う。

「東大生ほど使うのに便利だ」という経営者達の声を聞くのもひとりふたりではない。

この「便利だ」という言葉がマトを得ていると思うのだが、どうだろうか?


前回の記事で、相手(教師等)の心理を読むということを書いたが、

見方を変えれば、これは一見「賢い人間に成れ」と思うかも知れない。


しかし相手(教師等)が「常に精神的主導権は我々にある」と理解(意識)し、

そして悪意があれば、これほど洗脳・誘導しやすいタイプもない。

悪意と言わなくても、一定の価値観を植え付けることが容易いと思う。


だからこそ自己をきちんと持ち、そして自分がどんな自己を持っているのか把握できていないと、

テクニックに飲み込まれてしまうことが起こると感じる。


私はテクニックが悪いと言っているのでは無い。

順序として「まず自己を持ちそれからテクニックを身に付けろ」と言いたいだけだ。



話が少しそれてしまうけど、このテクニックだけ磨き上げ、

相手の望むことを従順に適えることが思考パターンになっているような人間が、

国を運営する仕事の中枢にいるうちは、この国はより良く変わることは出来ないだろうと感じてしまう。

特に国家間の関係は悪い方に(日本人が損するように)しかならないと思う。


この漫画では「東大に受かる為にはどう勉強すればいいのか」というテクニックがいっぱい出てくる。


私はこの漫画で紹介される勉強法(テクニック)を、
極めて合理的で効率的だと思うし、テクニックとしての完成度は高いと思っている。
実際私もこのような発想を便利だから良く使っていたりする。
(あくまで漫画の中では、さわりとしてしか紹介していないと思うが・・・)

(またこの漫画の関連教育書のクオリティは悪いと思うが・・・)


しかしこの漫画に出てくるテクニックの根幹にあるものは、
「相手(教師等)の心理を読み察し何が客観的で効率的か考えろ(おりこうさんに成れ)」
という発想だと思うのだが、
そういう発想でテクニックを使う人間は、よほど揉まれていないと、
テクニックの完成度が高いだけに非常に危険だと感じていたりもする。


そうは言っても、実はドラゴン桜は実は愛読書のひとつだ。
今まで私が徒手空拳ながら培ってきた思考法とか要領というものと、
この漫画に書かれていることは似通っており、
漫画を読むことで自分の考えが整理されてすっきりすることが多いからだ。


ただ、この漫画を鵜呑みにすると二つの罠にハマると感じる。


ひとつは、
「東大に入ってから、仕事として打ち込めるほど好きなことを見つけようとしても、見からない」ということ。
というか、かなり絶望的に見つかり難くなると思う。
既にやりたい仕事を見つけていて、その仕事を職業にする為の手段として東大を選ぶのは、
考え方として正しいと思うのだけれど、とりあえずのゴールとして東大を目標にしてしまうのは間違いだ。


よく東大に入りたいと思うような学生の言い分として、
「情報を多く集め選択肢を増やすことは、好きなことを見つけ仕事にするうえで大切だ」という考え方がある。
しかし実際は天職を見つけることに対しては逆効果ではないかと思う。
こういう考え方を信じるような人は、もしかしたら「人生をより良く生きる為のセンスが悪い」のかと感じる。


もうひとつは、
精神的にも経済的にも豊かになる為には、「0」から「1」を創る能力が大切であって、
「1」をどれだけ要領良く(効率良く)「100」にするかでは、豊かになれる可能性がぐっと落ちるということ。
「0」から「1」を創る能力とは、人生を切り開く能力とも言える。
だけど例えば、学生のときにこの漫画に書かれている内容を知り、それに沿って勉強することは、
「1」を「100」にするだけ。


この漫画で公表されているようなテクニックを自分で作り出せるかが大事であり、
出来上がったテクニックを活用しているだけでは、
「0」から「1」を創るような人間には成り難いということ。


それに気が付くことなく
「1」を「100」にするだけの思考回路しか持ち合わせていない人間になってもらっては困る。



~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~


ただ、この漫画は、是非とも学校の教師に読んでもらい、

教え方を考えるうえでの参考にして欲しいとは思う。
どうも多くの教師というのは、サービス向上の意識が見当外れの場合が多いからだ。


逆に学生は、出来るだけ読まない方が良いのではないだろうか?
いろいろと「どう学べばいいか」を自分で試行錯誤して、
独学で、ここに書かれているような勉強法を編み出してもらいたいと思う。
それはそれほど難しいことではないと感じる。
それは学ぶということのテクニックを突き詰めて考えると、
ここに書かれているような方法に行き着きやすいと思うからだ。


学校の教師は、「要領の良い勉強の仕方はコレだよ」と助けてあげるのではなく、
要領の良い勉強法を見つける為のサポ-トを意識して欲しいと思う。
学生が読むということは、「0」から「1」を創る勉強において、
いきなり答えから入るようなものなので、私はお勧めし難い。


確かに、要領の良い勉強方法を自分で見つけ出すことは、教えられて知るよりもかなり非効率的。
私なんか社会に出て数年掛かってしまった。
たまたまの結果論として学生時代に知ることが出来ず、
かなり人生を遠回りしながら独学で見つけ出してきたのだが、
遠回りしてきたからこそ得たものがすごく大きいと感じていたりもする。
この遠回りすることを許し認める環境が、本当の意味での“ゆとり”教育に繋がるのではないか?








三田 紀房
ドラゴン桜 (1)
親野 智可等
「ドラゴン桜」わが子の「東大合格力」を引き出す7つの親力
牛瀧 文宏, 三田 紀房, モーニング編集部
ドラゴン桜式 算数力ドリル
牛瀧 文宏, 三田 紀房, モーニング編集部
ドラゴン桜式 数学力ドリル ―中学レベル篇―
牛瀧 文宏, 三田 紀房, モーニング編集部
ドラゴン桜式 数学力ドリル ―数学Ⅰ・A―


子供に注意として言っておきたいことがある。


それは、勉強のテクニックを身に付ける前に「自己の確立(人生の目的探し)を優先させろ」ということだ。


自己の確立(人生の目的探し)というのは、そう簡単に出来るものでは無いが、
常に意識し、もしかしたらと思えることに遭遇したら、
学問的な学びをする勉強はいったん中断してでも、自分の「もしかしたら」という直感が正しいかどうか、
試してみた方が良い。


良いと思ったことが半年後には違うと感じたりして、いろいろ試行錯誤すると思うが、
それでもまずこちらが優先順位一番にした方が良い。

試行錯誤することを選ぶ為に、もしかしたら受験勉強が出来なくなるかもしれないが、
私なら間違いなく試行錯誤する方を選ぶ。それぐらい大事なことだと思う。


というのも、自己の確立(人生の目的探し)というのは、制限時間があり、
歳を取るにつれ、確立し難く(見つかり難く)なっていくからだ。


逆に学問的な勉強(ましては受験勉強)は、時間によって出来なくなることはない。
あるのは周りからどう見られるかという、恥ずかしさだけではないか。


実はここが「人生のテスト」を受けているときだと思う。
「見栄」を優先させるか「実」を優先させるか、人生の岐路に立っているのだ。


勉強のテクニックというのは、いつでも身に付けることが出来るが、
自己の確立より先に勉強のテクニックを身に付けてしまうと、なおさら自己の確立が難しくなると思う。
そういう思考回路になってしまうと思うのだが、他の人はどう思うだろか?


逆に自己の確立が先だと、勉強のテクニックは、より効率的に身に付くことが多いと、私は思う。
くれぐれも「テクニックの罠」にはハマらないよう、子供には注意していきたい。


ワーナー・ホーム・ビデオ
ペイ・フォワード


自分がされた善意を、してくれた相手ではなく別の他人にすること。
これを皆がやれば世界は良くなる。


これがペイフォワードという発想です。


しかし誰かれ構わず善意の行いをしても、この善意のリレーは繋がっていかなない。
何故なら同じ境遇や同じ気持ちを持っている人にしなければ、上手くリレーにならないからだ。
そしてリレーするとき、何故私は貴方にこのようなことをするのかということを、
きちんと説明する必要があるだろう。
そして相手が貴方の気持ちを理解したとき、その善意がはじめて次に繋がると思うのだが、どうだろうか。


私は好きなことを仕事にするのを子供に勧めるが、
このペイフォワードの発想を正確に理解し、
自分の「人生の目的」の中心に据えたうえでないと、
「人生の成功」は掴めそうで掴めない状況になってしまうとも感じている。


また、ペイフィワードにはこんなサイトもある。ご参考までに。


http://www.awaji-net.com/pay-forward


http://app.blog.livedoor.jp/cpiblog00478/tb.cgi/18303572





私はつくづく思うのだが、
気持ちの良い状態、つまり幸福感(言い換えるなら充足感・充実感)というのは、
自己の利益や欲望を追求しているうちは手に入らないものではないだろうか?


行き着くところ、幸福感を得る為には、「誰かの為に」と思えなければ駄目だと思うのです。
そして誰かの為にと思うとき、実際に自分も経験して、
「同じ悲しみ苦しみを味わせたくないから」と思えれば、なお良いでしょう。


自分が本当に心から、「〇〇〇だから誰かに〇〇〇してあげたい」と思えないならば、
それは偽善の場合が多く、幸福感は得られないだろうと感じてしまう。
それどころか逆に、何かした相手を傷付ける可能性が高いと思う。
「貴方にだけは助けてもらいたくない」というヤツだ。


だから誰かの為に何かをする場合というのは、何故自分がその人にそれをするのか、
明確に自分で理解しているかが重要になると思う。