触媒シリーズの記事で

 

デルフィナのMPクラスで「正観」を磨くトレーニングに夢中になっているお話をしました。

 

この3記事の標題に「触媒」と付いているのに、

本文ではまったくそのことには触れていないのですよね。

 

 

 

 

 

それは「自分が触媒になることを受け容れる」ために書いたからです。

 

 

 

 

 

透視能力を磨いていく過程では

すぐ視える人、やってもやっても全然視えない人

深く読める人、浅くあまり関連性のないものしか感じない人

そうしたことで他の人と自分を比べて苦しくなったり、疎ましく思ったりします。

 

また他人を視ているはずなのに

むしろ自分が蓋をしてなかったことにしてきた過去の傷や

本当は〇してやりたいほど憎いのに、私は意識高いから赦す、と自分についた嘘

一番視たい肝心な透視は何も視えないのに

自分の中の嫌な部分、人に知られたくない汚い部分、

そうしたものがどんどん体感や感情を伴って浮き彫りにされていく。

 

その場に居る誰かが直接批判してくるわけでもなく、

自分の汚れた、醜い、取るに足らない部分を他人に公開してるわけでもなく、

ただみんな目をつぶって静かに瞑想しているだけ。

なのに内観とは違ったスピードで、身ぐるみ剥がれるような刺激的な魔法学校なのでございます。

 

 

 

自責の念に悶絶するアングリマーラのお話があります。

 

罪悪感、劣等感などを深く感じれば感じるほど

自分が卑しくみっともなく、大嫌いに思えるでしょう。

私たちがしていることはそんな「自分を成仏させる」ことかもしれません。

 

 

 

如心ー仏陀のような悟りを得ることを目指さなくても

ひとりひとりの小さな変容の機会に如心を味わう方は多いと思います。

ですから 一瞬一瞬如界を拡げていくことは可能なのです。

(実相世界の共創造)

 

仏教で言う「中庸」とは

どんな自分であっても

いま自分がどんな状態にあっても

ただ在ることを受け容れる、

たったいまの、自分の中心に自分が居る(ナカイマ)

その積み重ねなのだと思います。

 

お互いが鏡となって、触媒となって、エネルギーが動きだしたり、

何らかの化学反応が起こることもございます。

(他者から見ると疎ましい刺激物になるかもしれません)

すべてをこの研鑽の場でのプロセスとして受け容れる、という決意でした。