堀部安兵衛の歴史☆ | 真奈のスイカ大好き食いしん坊日記

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歴史の時間

今回は、こないだのリアル歴史散歩で勉強した赤穂浪士の一人でもある堀部安兵衛さんの歴史について調べてみました

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義のために戦った高田馬場の仇討ち

 堀部安兵衛は生涯に二度の敵討ちをしたことで、江戸時代でも最も人気の高かった剣豪である。
しかも、彼にとっての2度目の仇討ちは、日本で一番人気のある赤穂浪士としての吉良邸討入りである。
 それにしても、どういうわけで二度も敵討ちをすることになってしまったのか。
 実は、最初の敵討ちが二度目の敵討ちの原因になっていたのだ

 堀部安兵衛の父・中山弥次右衛門は越後新発田藩士だったが、仕事上の不手際で浪人し、安兵衛が14才のときに死んでしまった。
 これ以降、安兵衛は中山家再興を目標にし、このために彼は上州馬庭の樋口十郎右衛門将定に入門し念流を学んだ。
 19才のとき、今度は江戸に出て、さらに剣術の腕を磨くために堀内流の堀内源左衛門正春に入門した。
 このころ、安兵衛の同門に伊予西条藩士の菅野六郎左衛門というかなり年長の人物がおり、普段から馬があったので、2人の間には叔父甥の義約が結ばれていた。
この菅野が、元禄7年2月11日午前11時ころに、同僚の伊予藩士・村上庄左衛門と高田馬場で果たし合いをすることになった。
 事態を知った安兵衛が助太刀として菅野とともに高田馬場に出向くと、村上は2人の仲間を引き連れてきていたので、安兵衛はそれら2人を切り捨てた。
 それから、年老いた菅野も大いに傷ついていたので、村上までも切り倒した

 ところが、菅野はその直後に死んでしまったので、この事件が“高田馬場の仇討ち”として知られることになったのである

 こうして、安兵衛の最初の仇討ちは終わったが、これが次の仇討ちの始まりになった。
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高田馬場から始まった赤穂浪士への道

 高田馬場の仇討ち事件には多くの見物人が押し掛けており、その中に赤穂藩江戸留守居役の堀部弥兵衛という老武士がいた。
 この弥兵衛が、安兵衛のいかにも勇敢な戦いぶりを見て、一人娘の婿養子になってくれと申し出たのである。
 安兵衛は、なんとしても中山家の再興を願っていたので、婿養子となって堀部姓になるわけにはいかないという理由で、最初はこの申し出を断った。
 が、弥兵衛の誘いは執拗で、しかも婿養子となっても中山姓でいられるように取り計らってくれた。血気盛んな安兵衛もその熱意に動かされたのか、ついに婿養子となり、のちに堀部家を継ぐことになったのである。
 こうして、晴れて赤穂藩士となった安兵衛だが、それから数年後の元禄14年、江戸城の松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけるという刃傷事件が起こってしまった。
 このため、浅野内匠頭は切腹、赤穂藩浅野家は断絶となり、2年後の赤穂事件へ向けて事態は急展開することになったのだ

 義理の叔父のためにすでに3人の男を斬ったことのある安兵衛だから、2度目の仇討ちにおいても大いに活躍した。
 浅野家筆頭家老大石内蔵助は浅野家再興を目標に最後まで吉良邸討ち入りには慎重な態度をとり続けたが、血の気の多い安兵衛は終始一貫して主戦派的な態度をとり続けた。
 吉良邸討ち入りの日の活躍も光っていた。
討ち入りは奇跡的な大勝利で、四十七士の中には死者も出なかったのだが、吉良側の実力者・鳥居理右衛門には多くの者が手を焼いた。このとき安兵衛は他の者たちを退かせて一騎打ちをし、理右衛門の頭を2つに割ったのである。
 この日、最終的に安兵衛が何人斬ったのかなど知る術はないのだが、戦いのあと安兵衛の刀はひどく刃こぼれしていたという。 

以上、堀部安兵衛さんの歴史でした

堀部安兵衛さん、すごく男らしくて、カッコイイ方だなぁと思いました

仲間の為に、戦うって素敵です

私も、いつもみんなに助けてもらってるので、これからもずっと、メンバーや仲間や、応援してくれている皆さんを大切にしていきたいです