世の中、「それって常識でしょ?」って言って、問答無用にものごとを否定する人が多いと思います。


 私も無意識のうちに時々そういった表現を使ってしまっているかと思います。


 しかし、そもそも「常識とは何なのか?」って思いませんか?


 私は「常識≒固定観念」であると考えています。

 また「常識≒99%の人が正しいと思っていること」とも言えます。


 私の考えでは99%の人が正しいと思ったことでも、「それが本当に正しいかどうかはわからない」と考えています。


 例えば、よくたとえ話にされますが、昔の人は「地球は平面である」と思っていたと思います。

 また「地球を中心にして天体が回っている」(天動説)とも。


 でも、実際のところは「地球は丸い」し、「地球が自転している」(地動説)のは、現代では明白なことです。


 また、戦国時代は、刀を持って戦をし、殺した相手の首を切断して持って帰った・・・。今では想像も出来ないことが「あたりまえ=常識」として通用していました。


 身近な例では、携帯電話などがそうかもしれません。

 今では、ほとんどの人があたりまえのように携帯電話を持っています。

 「社会人なら携帯電話くらい持っているのが常識でしょ!」と言えなくもありません。


 しかし、10年前はどうだったでしょうか?

 おもだった人はその当時でも携帯電話を持っていたと思います。

 では、20年前はどうだったでしょうか?

 私の記憶では、タクシーなどに備え付けられていたように思います。

 では、30年前はというと、おそらくは一家に一台『黒電話』があったくらいでしょう。

 40年前はといえば、数軒に一台くらい電話があって、隣近所にかかってきた電話を取り次いだりしていたと思います。


 大昔は緊急の連絡は、電報で「チチキトクスグカエレ」(父が危篤なのですぐに帰って来い)でしたが、

 今は「父帰宅、すぐ帰れ」と母親が息子に携帯メールをしているのでしょうね(笑)

 時代や、環境、科学、条件、価値観などの変化によって、「常識常識でなくなること」も多々あります。


 今、時代は大きく変化しています(これは常識ですよねえ?笑)


 ほんの少し、条件が変わるだけで「常識」というものは、意図も簡単に覆されるかもしれません。

 そういう意味では私は「非常識」であることが悪いとは思ってはいません。

(もちろん、一般の社会通念や、公序良俗、法律に反さない範囲での非常識ですけど・・・)


 私事ですが、我が家は二世帯住宅なのでお風呂が2つあります。

 つい、先日、オークションでジェットバスの浴槽を格安で落札しました。

 自宅のウッドデッキに手作りでジャグジーを作ろうかともくろんでいます。


曼荼羅(Man-dala)-ジェットバス

 ちなみに、我が家は3人家族であり、これで自宅にお風呂が3つあることになります。


 家族には私は非常識だと思われているようです。

 やっぱり、私って非常識なのでしょうか?(爆笑)


 

 せっかく仏教的な観点で「曼荼羅」というブログ名を付けさせていただいたので、今日は仏教の教えを1つご紹介したいと思います。


 SMAPのヒット曲で「世界に1つだけの花」という曲をご存知でしょうか?


 歌詞に書かれてることの趣旨は、「花にはいろいろ種類があるけれど、それぞれの花の種は違うので、それぞれの花を咲かせることに一生懸命がんばればいい」といったものです。


 ここで創作話を1つします。


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 ある花屋の店先にある「赤いバラ」がこんなことを考えていました。


 「私は数ある花の中でも一番鮮やかで高貴で美しいのだ!」と。
 「だから、私を買いなさい!、明るい窓側に生けて飾ればいいのだ!」
 「そうすれば、そこはバラ色になる
」と・・・


 そこへ、一人の女性がやってきて、赤いバラには見向きもせず、迷わず「菊」の花を買っていきました。

 その女性は今から「墓参り」に行く途中でした。


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 もう1つ、創作話をします。


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 ある花屋の店先にある「赤いバラ」がこんなことを考えていました。


 「隣にある花たちさん!、みんなそれぞれ自分の持ち味を生かしてきれいな花を咲かせまんか?」
 「みんな一緒にがんばりましょう」
・・・・と。


 そこへ、一人の男性がやってきて、色とりどりの花の中から「きれい」と思うものを何本か選んで、花束として買っていきました。(もちろん、その中には赤いバラも入ってます)

 その男性は今から病院に入院している彼女の「お見舞い」に行く途中でした。

 彼女はもうあまり長くはありません・・・・


 男性は病院に着いて、その女性に代って花瓶にその花束を生け、明るい窓側に置きました。

 女性はその花瓶の中からきれいだと思った花を1つ手に取りました。
 それは「赤いバラ」でした。


 その瞬間、女性の心の中は「明るくバラ色」に変わりました。

 女性はこう語りました。

 「私の人生は、とても短い人生だったけど、こんなバラのような美しい人生だった」と・・・


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 これらは、あくまでも、単なる創作話です。


 バラはバラ、菊は菊、バラは菊にはなれない、バラにはバラの菊には菊の「使命」がある。
 大事なのは、バラはバラとして、菊は菊としての使命を「最大限まっとうすること」だと思います。

 これは、天台宗における「一隅を照らす」という考え方にも似ていますし、日蓮宗(法華経)における「桜梅桃李(おうばいとうり)」という考え方にも通じるものがあります。


一隅を照らす:
 「一隅」とは今自分のいる「その場所」のこと。
 一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。


桜梅桃李:
 桜は桜、梅は梅、桃は桃・・・・
 いずれも独自の美しい花を咲かせることから、桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李は李の特徴を改めることなく、生かしていくとの意味


 私が昔から大事にしている「座右の銘」とも言える言葉があります。


 それは「路傍の石でも磨けば光る」という言葉です。

 誰かが言った言葉ではありません。(自分の心の底から沸き出でたものです)

 意味は自明かと思いますが、道端に落ちているつまらない石でも「磨けば、それなりに光る」というような考え方です。


 みんな、生まれながらにして「生まれてきた意味、目的、使命」があると私は考えています。


 その使命をまっとうすることが、幸せに生きる秘訣だと考えています。




 「出来ないという理由」を1つ1つ見つけるより、「出来る方法」を1つ1つ考えるほうが楽しい。


 多くの人が何か困難な状況に出会ったとき、ついつい、それが実現できない理由ばかりを考えてしまうのではないでしょうか?

 例えば、お金が無いから○○できない、時間が無いから○○できない、景気が悪いから、政治が悪いから○○できないなど。


 たぶんこれって「言い訳」のような気がします。


 できない理由を自分以外の何かに転嫁し、その理由を明確にすることによって、できない自分を正当化しているのかもしれません。


 できない理由を1つ1つ述べても、結局最後には「できない」という事実だけが残るだけだと私は思います。


 ここで、1つだけ前向きに考えて、できない理由を述べるのではなく、もう少しだけ前に進んで、では「できるようにするにはどうしたらいいのか?」を考えてみてはどうでしょうか?


 「○○できない」というところで思考を止めるのではなくて、「なので○○したらどうだろうか?」まで考えを進めればよいだけだと私は思います。


 その方が、楽しいじゃないですか!


  「出来ない理由からは何も生まれない、出来る方法には可能性がある」


 と私は思います。


 思考を○○できない「で切る」のではなくて、○○すればできるのでは?というところまで、一歩進めましょう(笑)