「執着心を手ばなして」



この言葉、私が好きだったブログの最後の記事のタイトル。



私が好きだったブロガーさん

この記事を最後に、ブログをやめられた。


そのブログは、今はもうない。



私は「何を見た(読んだ)んだろう」と思った。

記事には具体的には書いてなかった。




でもね、不思議なことに

「執着心を手ばなして」

その言葉が、ずっと頭の片隅に残ってる。






話変わって

今まで色んな人のブログを読んだけど

「推しが喜ぶブログをモットー」にしてるブロガーさんがいて。

その人のブログからは、幸せしか感じなかった。


「あ、私この人に一生かなわないわ」

初めてそのブログ読んだ日から、なぜかそう思ったんだ。

全然知らない人だけどね。

「私この人の足元にも及ばない」って。

なぜかそう思ったんだ。






また話変わるんだけど。

前にジン君のoutタグを、記事にしてる人がいたの。

もちろんジン君を快く思ってない記事。

私、それがすごく許せなくてさ。
 


必死に何か言いたくて、言い返す言葉を考えていた。

どんなに汚い言葉で相手に言ってやろうか。

ひたすら相手を蔑む言葉を考えてたよ。





でもさ

「執着心を手ばなして」

「推しが喜ぶ」


この言葉たちが邪魔してくるの。


なんでだろうね。






憎悪でいっぱいだった私の心は

着地点を失ったまま

ずっと私の頭の中でぐーるぐる。



どこにも吐き出せないまま、何日もその感情がずっと頭の中に居座るの。





そんな時にさ、ふと藤井風の「帰ろう」が


「憎しみあいの果てに何が生まれるの
 わたし わたしが先に 忘れよう」





その歌詞が、そのメロディーが

ずっと頭の中で流れてくるの。




涙がでた。




そして

なーんか、すべて馬鹿らしくなっちゃって。




私の執着心ってなんだったんだろう。


ジン君?

憎しみ?

誰かを罵りたい気持ち?

許せない気持ち?





私は何に固執していたのだろう。






「許せない気持ち」

それって、最後は自分の中で折り合いをつけるもの。



「許せない気持ち」

私は、それをずっともったまま生き続けたくはない。




たから私は「許せない気持ち」を手放した。




それは「許す」ことを選んだのか、「忘れる」ことを選んだのか。




自分でもよく分からない。






でも「許せない気持ち」に重きを置いて、生きたくない。



私は、いつも通りの日常に戻りたい。


穏やかな日常に戻りたい。


ただ、そう思ったんだ。





「推しが喜ぶ」って、

自分自身が幸せでいることだよね。




自分の心を支配していたのは、ただの執着心。

執着心があったら、何も今と変わらない。




自分がいま見てる景色を少しでも変えたいなら

「執着心を手ばなして」生きる。



相手が変わることを待つより、

自分自身が変わるという選択。



誰かの言葉に傷ついた心を救ってくれるのは、

別の誰かの言葉だったりする。





『憎しみあいの果てに何が生まれるの』



生まれるものは、何もない。









そうだ。
私、あの人にすごく言いたいことあったんだ。


テテに「かわいそう」は似合わない。


テテに似合うのは、

ひたすら「かっこいい」じゃない?




ただのジンペンより