毎年、初発の乳がんの手術日だった5月30日には、こういうタイトルで記事を書いているが、これも今回で8年目になる。
改めて当時の病理検査の結果を振り返ってみると・・・。
○ 腫瘍の大きさ
2.7×2.2cm
○ リンパ節転移の有無と個数
有り
sn…6個
lv1…8個
lv2…6個
計…20個
○ 脈管侵襲
血管…陽性
リンパ管…陽性
○ 当時の主治医の説明ではステージ3bだと聞いていたが、数年後、前縦郭に転移があることが分かり、この頃からすでにステージ4だったと思われる。
僕のがんは、決して楽観視できるものではなかったのだ。
術後28日目に当時の主治医から説明を聞いた時、文字通り、突然床が崩れて奈落の底へと真っ逆さまに落ちた。
そしてそれから1ヶ月間はずっと泣き暮らしたものだった。
「どうか・・・リンパ節への転移だけは勘弁してください」とあれだけ神様に祈ったのに、よりによって20個も転移してるだなんて、
(もう僕の人生は終わった・・・)
と覚悟した瞬間だった。
術後2年半で教科書どおりに転移し、それからあれよあれよと全身がん状態になった。
多発皮下転移、多発骨転移、肺、前縦郭・・・その他にも怪しく腫大している臓器がある。
ケモと放射線で頭髪は戻ってこず、長年のホルモン療法で思考は鬱っぽくなり、体は関節痛と毎年数キロ単位で体重が増減する。
僕はこれまでいろんながん患者のブログを読み漁ってきたが、こういう経過をたどってきた人でいつまでも元気な人はなかなかいなかったように思う。
転移が確定した時、教授先生はこう言った。
「これから病気は年単位で悪化し、月単位で急変する可能性がある。今後は大きな計画は立てないように」・・・と。
そばで聞いてきた妻のすすり泣きが大きくなり、いまだに耳から離れない。
転移が発覚して2年が経過した時、僕は教授先生の診断書を添えて会社に病状を話した。
すると僕はいつ死んでも誰も困らない、僕の為に新設された一人部署へ異動になった。
そして高額療養費の自己負担額を維持するため、昇給を凍結してもらうことを希望した。
昇進もなく、昇給もなく、部下もおらず、頼ってくれる人もいないという状況に最初は戸惑ったけど、今はあまり考えないようにしている。
考えないようにはしているのだが、先日、後輩がとうとう僕を追い越して昇進した時には、つい、
(この病気になっていなかったら、僕はどんな人生を歩んでいたのだろうか・・・)
と考えてしまった。
考えても仕方のないことなので、慌てて頭をぶんぶん振ってもやもやを追い出した。
教授先生は今でもことあるごとに、「年々悪くなっていっている」と言う。
僕もそう思う。
今のところCEAは落ち着いているけど、決して治ったわけではなく、現在の治療に支えられているに過ぎない。
決して良くなっているわけではないのだ。
それでもこうして術後8年目を迎えられるなんて、当時は夢にも思わなかった。
ステージ4が8年だよ?
・・・すごいねぇ。
ただ僕のよく当たる予知夢では50歳前後で死ぬことになっているので、今でも長生きできるとは思っちゃいない。
いつ死ぬのか分からないので、当然先の計画や希望もない。
ただ機械的にやってくる1日1日を、明日は今日よりも価値ある1日であることを願うだけだ。
・・・それもなかなか思うようにはいかないんだけどね。
僕はマンションの高層階に住んでいるのだけど、ある日、真夜中に気分転換で廊下から地上を眺めていると妻が出てきて「やめて」と言う。
どうも胸騒ぎがしたらしいが、そういう気はさらさらない。
でも、死んじゃえば心も体も開放されてさぞ気分がいいだろうなぁ・・・とは考える。
コロナ禍で飼い始めたワンコは本当にかわいくて、まるで我が子のように接している。
1歳半を過ぎ、人間で言えば成人式が終わったくらいの年齢らしく、この頃はようやく落ち着きを見せてきた。
そうなるとなおさらかわいい。
同じふとんに寝て彼の頭の腕枕になるときが至福の時で、前にも言ったことがあるけど、叶うのなら彼を最後まで見てやりたいと思っている・・・叶うのならね。
叶わなければ妻が面倒を見てくれるだろうけど、それでもやっぱり心配だな。
子供のいない家庭だったけど、彼のおかげで妻と二人、子育ての真似ごとをすることができた。
この頃はママ友ならぬワン友ができ、妻もずいぶん楽しそうにしている。
これで9年目に突入したけど、先に書いたように中長期的な計画を立てることができないので、1日1日を大切に生きていくしかない。
もっとも「希望を持てない・・・」と言っても生きることを投げやりになっているわけではない。
一言で言えば・・・。
不確かなことをあれこれ考えてうろたえたりせず、ただ悔いのないように楽しく生きる。
それに尽きるだろう。