それは現場仕事で1日中外を歩き回り、疲れ果てて家路に帰る途中の出来事だった。
アブラキサンの副作用である足の痺れが余計に全身を疲弊させ、重怠い体を引きずるようにして地下鉄の駅のホームに向かった僕は、一人、電車が来るのを待っていた。
ホームには僕のように疲れたサラリーマンが数人と、食事の帰りらしいカップルなどちらほらと人影が見える。
夜の11時前のことで、電車は中々やってこない。

何気に視線を上げるとふらふらとホームを斜めに歩いていく人の姿が見え、「ん?」と思った次の瞬間、その人影がすとんと吸い込まれるように消えた。
何が起こったのかを瞬時に理解した僕は、
「落ちたー!落ちた!!」
と大声で叫びながらそちらの方角へ走った。
そして人が消えた辺りを上から覗き込むと、人が線路の上にうつ伏せで倒れていてピクリとも動かない。
頭から大量に出血していて、血が線路の上に流れ出しているのがホームの上からでも見てとれた。

まずは一刻も早く電車を止めなければならない。
緊急停止ボタンを探そうとキョロキョロすると、20メートルほど向こうで食事帰りらしいカップルの男性が柱の緊急停止ボタンを押そうとしており、それからすぐに「ビー、ビー、ビー」というブザーが大音量でホームに響き渡った。

急いで線路の上に倒れている人を救助しなければならない・・・のだが、僕は線路に飛び降りることをためらってしまった。
全くこんな状況下で言い訳するのも恥ずかしいが、ケモの施行以降ぐっと体力が落ち、両足が常に痺れている中、線路に飛び降りて意識のない負傷者をホームの上にひきずり上げ、そして自分自身も高いホームへ素早く避難する・・・それができる自信がまったくなかったのだ。

おろおろしている僕を尻目に、細身のサラリーマンと中年のおじさんがひょいと線路に飛び降り、負傷者をどうにかこうにかホームへ引きずりあげた。
そして細身のサラリーマンは自身もホームへひらりと上がると、まるで空を飛ぶような勢いで駅員さんを呼びに行った。

救急車を呼ばなきゃ・・・と思ったが、僕のそばにいた若い女性がどうやら119番をしてくれていたらしく、すでに携帯電話で消防署と電話でやり取りをしていた。

 改めてホームに引き上げられた負傷者を見ると、年齢は65歳くらい、どうやらひどく酔っ払っているようだ。
ぐったりとしていたもののよくしゃべり、これなら大事はないな・・・と胸を撫で下ろした。
しかし呂律が回っておらず、言うことも支離滅裂。
自分がどんな状況になっているのかも分かっておらず、しきりに「帰る、帰る」と子供のように駄々をこねていた。
酒の影響下にあるのか、見た目は明らかに痛そうなのだが本人は全く気にしていない。
どうやら側頭部に裂傷があるようで頭部からの出血がひどく、ホームにも血溜まりができつつあった。

直接圧迫止血を・・・と思ったが、運悪くハンカチもビニール袋も何も持っていない。
直接血液を触ることは危険なのでどうしようかな・・・と思った時に、駅員がトランシーバーを持って駆け付けてきた。
僕は駅員さんに、
「頭の出血部位の止血をしてあげてください。血液に触れないように注意して、その持っている白い手袋を重ねて上から少し強めに押さえてください。」
とお願いした。
119番通報していた女性が消防署とのやり取りを終えて、僕を少し不思議そうな顔で見つめる。
きっと僕を医療関係者かと思ったのだろう。

負傷者は横になって気持ちよくなったのか段々と口数が少なくなり、やがて眼をつむって深い呼吸を始めた。
こうなると意識が喪失しても脈が弱くなっても分からない。
急に不安になった僕は、AEDの準備をしておいたほうがいいのだろうかと迷い始めた。

そうこうするうちに電車がやってきた。
非常停止ボタンを押してあるのでトンネルから出てきたところで一度停止し、いつもよりゆっくりとしたスピードで進んでくる。
ドアが開くと降りてきた乗客は負傷者を覗き込み、降りなかった人は電車の中から僕たちを見つめていた。

ふっと見ると、さっきの細身のスーパーサラリーマンがこの電車に乗り込むところだった。
僕に気付くと「後はよろしく!」とばかりに、にこっとして軽く会釈をされる。
「いやぁ、素晴らしい働きでした」と、尊敬の念を込めて僕もうなずき返した。

この電車が出発してからすぐに救急隊が到着したので、後を引き継ぐ。
駅員さんは何故かしきりに僕にお礼を言い、名前と連絡先を教えてほしいというのを固辞した。
救急隊がストレッチャーで負傷者を搬送するのを見届けると、次にやってきた電車に乗ってようやく帰路につくことができた。
僕は職業柄、けが人や急病人に接する機会が多く、こういったケースに遭遇しても落ち着いてはいたのだが、振り返ってみるとケモの副作用があるとは言っても何にも役に立たなかったなぁ・・・と少し残念に思った。

ちなみに僕は、数年前に日本赤十字社の救急法救急員の資格を取得している。手前味噌になるが、この資格を取るのは中々ハードだった。
急病やけがの手当て(包帯法や止血、骨折時の固定)、搬送、救命措置など、実技を含めてみっちりとやらされた。
3年間の有効期限があるのだが、取得してから一度更新をしている。
そろそろ更新しないといけない時期のはずだが、実技があるので、脱毛やら手足の痺れ、陥入爪などの副作用のこともあり、資格継続講習を受けることをためらっている。

でもこんなことがあるなら、やっぱり思いきって受講するべきかもしれない。
そしてせっかく資格を持っているのなら、ビニール手袋と三角巾、人工呼吸用の感染防止具くらいは、普段から持ち歩くくらいの心構えは必要だったと反省した。