春の風が、花びらを巻き上げながら表参道を吹き抜けていく。
吉川晴人は、ふと足を止めた。毎月一度、神社参拝をしている彼は、今日は鎌倉の小さな古社「白鷺神社」を訪れるつもりだった。
いつものように、鳥居の前で一礼し、手水で清め、静かに石段をのぼる。まだ朝早く、境内には人の気配が少ない。晴人は、本殿前で深く頭を垂れ、心の中でいくつかの願いを唱えた。
「……いいご縁がありますように」
それは、彼がいつも最後に唱える言葉だった。特別に焦っているわけではない。ただ、神様の前では、ほんの少し素直な自分になれる気がして、そう呟くのが習慣になっていた。
お参りを終え、授与所でお守りを選んでいると、隣からふんわりと沈丁花のような香りがした。ふと顔を向けると、薄桃色のシャツを着た女性が、御朱印帳を差し出していた。
「この神社、初めてなんですけど、御朱印って素敵ですね」
声をかけるのは、なぜか自然だった。
「ここの御朱印、ちょっと珍しいんです。墨書に白鷺の印が押されてて」
女性は驚いたように目を見開いた。「そうなんですね。旅先でいただく御朱印が好きで、いつも見返しては旅を思い出してます」
「僕は御朱印は集めてないけど、神社そのものが好きで……静かな場所で心を整えるというか」
彼女は微笑んだ。「名前、聞いてもいいですか?」
「吉川晴人です」
「私は水島紗月です」
それが、二人の出会いだった。
***
それから数週間後、晴人と紗月は鎌倉で再会した。彼女から届いた一通のメッセージがきっかけだった。
《白鷺神社、あの日からまた行きたくなって。もしよかったら、また一緒に》
梅雨入り前の午後、長谷寺の紫陽花が色とりどりに咲いていた。雨上がりの石段を並んで歩きながら、二人は前より少しだけ距離を縮めていた。
「お寺も、やっぱり落ち着くね」と紗月が言う。
「神社とお寺って、似てるようで違うけど、どっちも“拠り所”になる場所なんだろうね」と晴人は応えた。
御朱印を受け取る紗月の横顔が、まるでひとつひとつの筆跡に耳を澄ませているように見えて、晴人は胸が熱くなるのを感じた。
「僕、御朱印帳を持ってないんだよね」と言うと、紗月が鞄から一冊を取り出して差し出した。
「予備に買っておいたの、よかったら使って。晴人さんの最初の一頁、今日の御朱印にしてみない?」
彼は少し照れくさそうに笑いながら、それを受け取った。
***
日曜ごとに、二人はどこかの神社やお寺を訪ねるようになった。京都、飛騨、日光、小江戸川越――古い町並みを歩きながら、季節ごとの空気を深く吸い込む日々。
境内で風に吹かれながら、紗月が呟いたことがある。
「御朱印って、その日の“記憶”なんです。筆の勢いや墨のにじみが、全部その日そのもの」
「それって、写真よりも“記憶に近い”ね」
「うん。だから、私にとっては旅の“日記”みたいなものかな」
「じゃあ、僕の御朱印帳の一頁目に、紗月さんの名前も書いてもらおうかな」
そう言うと、彼女は驚いたように一瞬目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
***
ある夏の日、奈良の春日大社の境内で、蝉時雨の中、晴人は少しぎこちなく言った。
「今度、京都の貴船神社に行かない?川床料理とか、涼しそうだし」
紗月は首を傾げた。「それって……デート?」
「うん。もう、ただの“神社友達”じゃなくて。もしよければ、もっとちゃんと――」
蝉の声が遠くにかすれた。
「はい」と彼女は短く答えた。
「もっとちゃんと、晴人さんと一緒にいたいと思ってました」
そして、その日の御朱印には、小さくハートの印が押されていた。きっと、それは見間違いではない。
***
やがて、ふたりは夫婦になった。
紗月は今でも御朱印帳を持ち歩き、晴人は新しい神社を探すのが楽しみになった。旅先では、晴人が御朱印の順番を並び、紗月が筆の流れを解説する。
彼らの本棚には、色とりどりの御朱印帳が並ぶ。墨と朱の中に、ふたりの記憶が静かに息づいている。
そしてその一冊目の御朱印帳の一頁目には、こう書かれていた。
「白鷺神社――令和七年三月吉日 出逢いの記憶」