2025年5月6日(火)
春の小径
それは、春のはじまりだった。
教室の窓から差し込む午後の陽が、まだ誰も座っていない生徒用の椅子に影を落としている。新学期の準備で誰もいない職員室に、紙の擦れる音と鉛筆を削る音だけが響いていた。
「山根先生、これ、確認してもらってもいいですか?」
背後から声がかかる。振り向くと、同じ学校に今年赴任してきた女性教師――伊吹優子が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。学年は違うが、彼女もまた担任を持つという。
「ありがとうございます。……助かります」
彼女は、どこか疲れたような目をしていた。だがそれは、よく見れば、経験に裏打ちされた柔らかさのようにも見えた。山根弘樹は、ふと自分の胸の奥が、微かに波立つのを感じた。
――彼女にも、子どもがいる。
そんな噂は、赴任早々から耳に入っていた。奇遇にも、山根もまた小学三年の娘を持つ父親だった。二年前に妻を病気で亡くし、それからというもの、教師と父親の役割をどうにか両立させるだけの、ぎこちない日々が続いていた。
優子と話すうちに、彼は次第に彼女の中に、自分と似た孤独を見つけるようになった。朝の打ち合わせ、会議の後の雑談、放課後の教室――短い言葉の端々に滲むもの。それは、一度壊れた家庭をもう一度整えようとする者の、静かな祈りのようなものだった。偶然にも自宅が近所で、子供同士が同じ学童に通っていたのも大きかった。
ある雨の日
ある雨の午後、彼女の息子が学童でお迎えを待っているのを見かけた。優子は帰りぎわに急な保護者対応があり、長引きそうな雰囲気だった。
「学童に来ているのですが、優斗くん、一緒に車で送りましょうか?」
と優子に連絡した。彼女から「ありがとうございます。お願いします」と返信が来た。
その日を境に、二人の家庭は少しずつ重なり始めた。子ども同士が仲良くなったのがきっかけだった。日曜の公園、運動会のベンチ、冬の図書館――。
気づけば、弘樹の心には、もう以前の「静けさ」が戻らなくなっていた。代わりに、彼の生活には無数の「音」が鳴り始めた。子どもの笑い声、夕食の鍋が煮える音、二人で交わす小さな意見の相違と、すぐにそれを包み込む微笑み。
「結婚を、考えてもいいと思うんです」
2月のある夜、弘樹がぽつりとそう言ったとき、優子はしばらく黙っていた。彼女の目の奥には、過去への葛藤と、未来への決意が交錯していた。
「私は、誰かの『代わり』にはなりたくないの。私も、あなたも」
「それは違う。君は、君として、ここにいてほしい」
春が再びめぐってきたとき、二人は再婚した。子どもたちは、新しい生活に戸惑いながらも、少しずつ「家族」という言葉の輪郭を描いていった。
廊下に差し込む陽の光が、二人の影を柔らかく重ねる。
誰かがそっと囁く。「先生、なんだか、顔が優しくなったね」
それは、春の風の中に溶けていった。
