2025年5月8日(木)


ひかりの差す方へ

七月、蝉の声がはじまる少し前。

佐伯先生が学校に戻ってきた。


 「川島先生、よろしくお願いします」


少しだけ緊張した声が響く。三年三組の教室は、担任不在のあいだ、専科の先生や学年の先生が回していたが、それでも子どもたちは彼女の帰りを待っていた。


 「佐伯せんせいー!」


職員玄関で彼女を見つけると、子どもたちは我先にと走ってきた。


彼女が帰ってきた。あの春、静かに崩れそうだった彼女が、今、ちゃんとここにいる。


「三組の雰囲気、すごくよくなってきましたね」


放課後の教室でそう声をかけると、彼女は笑って答えた。


「はい、みんな、すごくたくましくなってて。私がいなくても、ちゃんと育ってくれてたんだなって……ちょっと寂しいけど、嬉しい」


「それは、佐伯先生が四月に蒔いた種が、時間をかけて芽吹いたんですよ」


「……そんなふうに言ってくれるの、川島先生くらいです」


彼女はそう言って、黒板に背中を預けた。私たちは、夕方の教室でしばらく並んで立っていた。


 その沈黙が、なぜか心地よかった。


 「……本当は五月で辞めようかと思ったんです」


 ぽつりと彼女が言った。


 「でも、職員室の引き出しに、川島先生が書いてくれた“授業記録ノート”があって。あれ、読んだんです。自分のクラスのこと、こんなに丁寧に見てくれてる人がいるって思ったら、涙が止まらなくて……」


 「私……川島先生がいてくれたから、戻ってこられたんだと思います」


 彼女の声は、少し震えていた。


 「僕も、あなたの言葉があったから、教師を続けられています」


 ふたりの距離が、また少しだけ縮んだ。



 交際が始まったのは、夏が終わる頃だった。

校内では、もちろん誰にも言っていないが、二人が醸し出す雰囲気に気付いた先生もいるかもしれない。


 秋、運動会終わり。

体育部で頑張っていた彼女に声をかけると、彼女は照れたように笑った。


 冬、彼女の誕生日。雪は降らなかったが、空気は張りつめていた。


 私は少し遠くのレストランを予約して、花と小さな箱をポケットに入れて出かけた。


 「川島先生……今日、少し緊張してます?」


 「ばれました?」


 彼女が笑う。


 食後、店を出たあと、私は小さな橋の上で彼女の前に立った。


 「これまで、何度も支えてくれてありがとう。これからは、隣で一緒に歩いていける存在でありたいです。……僕と、結婚してください」


 ポケットから取り出した指輪の箱は、思ったよりも重かった。


 彼女は、最初、言葉が出なかった。でも、その瞳は濡れていた。


 「はい。こちらこそ、お願いします」


 夜空には星が出ていた。寒さを忘れるほど、心があたたかかった。



 春、彼女の名字は変わったが、子どもたちは最初だけ不思議がって、すぐに慣れた。


 「佐伯先生、じゃなくて、川島先生、なんだねー!」


 そう言って笑う子どもたちを、私たちは笑顔で見守っていた。


 教室と教室の間の廊下ですれ違うとき、ほんの少しだけ手を振る。それだけで、今日も頑張れる気がする。


 あの日、五月の光の中で芽吹いた関係が、いまは確かな形になって、未来へと続いている。