2025年5月18日(日)

春の終わりを告げる薄桃の風が、公園のドッグランを撫でていた。

 白くふわりと揺れるマルチーズ――名前は〈しろ〉――が駆け出す先で、小柄なトイプードルがくるくると跳ねる。教師の佐伯遼(さえきりょう)は、首輪を引き寄せながら穏やかに目を細めた。一方、事務員の小松奈央(こまつなお)は、トイプードルの〈シフォン〉のリードを手に、まぶしいほどの笑顔を浮かべる。


 「すごく仲良しですね」

 遼が声をかけると、奈央は少し驚いたように振り向いた。

 「初めて会ったはずなのに、不思議なくらい気が合っちゃって」

 シフォンはしろの耳元で甘えるように鼻を鳴らし、しろは尻尾を振って応えた。まるで鏡合わせのダンスだった。


 遼は地域の小学校で理科を教えている。授業準備で夜が遅くなると、ふと息苦しくなる時がある。それでも、朝五時半にしろの目覚まし代わりの「わん」で起こされれば、眠気も不思議と消えた。

 奈央は市役所の窓口勤務。慌ただしいカウンターで笑顔を保ち続けると、家に帰るころには頬の筋肉が固まる。それでも、玄関のドアを開けた瞬間、シフォンが耳を寝かせて跳びつくと、胸の錘がふわりと浮くのだった。


 その日以来、ふたりは毎週土曜の朝に同じ時間、同じ場所に立つようになった。約束をしたわけではない。ただ、犬たちの体内時計が巧みに引き合わせた。



 六月、梅雨入り前の曇り空。ランの隅に紫陽花が咲き始め、遠くで雷の小さな音がくぐもる。

 「今日は授業参観なんですけど、休み時間に来ちゃいました」

 遼が腕時計を気にしながら笑うと、奈央は目をまるくした。

 「え、もう戻らなくて大丈夫ですか?」

 「あと十分。……会いたくて」

 口にした瞬間、頬が熱くなる。

 奈央は足元のシフォンを撫で、ごまかすように視線を落とした。

 「わたしも、同じです」

 雨粒がひとつ、ふたりのあいだに落ちた。

 空気に含まれる匂いが急に濃くなり、犬たちが鼻をひくつかせる。

 「次の土曜、もしよかったらランのあとに近くのドッグカフェへ。テラス席、犬連れOKで」

 遼が言うと、奈央は濡れ始めた前髪をかき上げ、頷いた。



 雨上がりの朝、ドッグカフェの白いパラソルの下で、珈琲の湯気が小さく揺れる。テーブルの下では、しろとシフォンが鼻先を寄せ、同じタイミングで尻尾を振っていた。

 「ここ、学校帰りにずっと気になってて。だけど一人じゃ入りづらくて」

 遼がカップを傾ける。

 「私も。地図アプリにずっとピン留めしてたんです」

 奈央の声に、ふたりで笑った。その響きが、冒険の扉をひらく合図のようだった。


 遼は教壇に立ち始めた頃の不安を語った。子どもたちの視線や保護者の期待に押しつぶされそうだった日々。

 奈央は窓口で受け止める市民の怒声、時に「役所の人間は冷たい」と投げつけられる言葉の棘を打ち明けた。

 「でも、家に帰ると――」

 「犬がいてくれるから立ち直れるんですよね」

 声が重なり、また笑いがこぼれた。


 遼はカップを置き、そっと奈央の指先に触れた。

 「しろとシフォンが近づけてくれたなら、ぼくらも――少し近づいてみてもいいですか」

 奈央の掌が、小鳥の羽ばたきのように震えた。

 「はい。……一緒に、歩きたいです」

 テラスの床を、細い陽射しが泳いだ。犬たちがくしゃみのように小さく鳴き、まるで祝福のファンファーレのようだった。



 夏休み前、学校のグラウンドに蝉時雨が降り注ぐころ、遼は生徒たちに向けて最後の授業を終えた。

 「先生、休み中も犬と遊ぶんでしょ?」

 ある児童が無邪気に尋ねる。

 遼は教室の窓から差す光を振り仰ぎ、微笑んだ。

 「もちろん。でも今日は大切な人も一緒なんだ」


 放課後のドッグランには、瑞々しい青芝が広がっていた。しろとシフォンが駆け回り、水皿の雫を撒き散らす。その向こうで、奈央が緊張した面持ちで待っている。

 遼はポケットから小さなロケットペンダントを取り出した。表に犬の足跡、裏に「Will you walk with me?」の刻印。

 「指輪ほど大げさじゃないけど、ぼくららしいものを選びました」

 奈央はペンダントを受け取り、蓋を開く。中には二匹が並ぶ写真、そして空白の小さなスペース。

 「ここに、これから撮る私たちの写真を入れよう。ずっと四人で――いや、ふたりと二匹で並んで歩いていけるように」

 奈央の目に涙が溜まり、しろとシフォンが足元で跳ねて騒ぐ。

 「はい。歩きましょう、ずっと」


 西日が木々の隙間から射し込み、影と光が縞模様をつくる。その迷路を、教師と事務員、そしてマルチーズとトイプードルがゆっくりと進んだ。四つの影が重なり合い、長く伸びて、やがてひとつの線になった――風のあとをやわらかく結びながら。