「……また、美容室の話?」
放課後の職員室で、同期の絵里が少し呆れたように言う。私は苦笑いしながら、スマホの画面を裏返した。美容室の予約確認ページが表示されていたのを、彼女はしっかり見ていたらしい。
「いいじゃん。髪、伸びてきたし」
「この間、切ったばっかじゃん。先生と美容師、って……あんたほんとに本気なの?」
私は答えなかった。絵里はため息をついて、カップ麺のふたを開けた。湯気が立ちのぼる。
「付き合うだけなら、まぁいいけどさ……結婚とか言い出したら、止めるからね。絶対に」
彼女の声には、心配と、少しの苛立ちが混じっていた。
⸻
彼と出会ったのは、春。転勤してきた小学校の近くの美容室だった。まだ土地勘もなかった私は、通りがかりの看板に引き寄せられるように扉を開けた。
「担当させていただきます、村瀬です」
そう言って鏡越しに笑ったのが、彼――村瀬陽翔だった。
人懐っこい笑顔と、柔らかな手つき。教師という職業柄、人の変化や空気には敏感だった私も、彼のことはすぐに「ただの美容師」ではないと感じた。話し上手で、聞き上手。気づけば、髪を切ってもらう時間が、月に一度の楽しみになっていた。
夏が過ぎた頃、「今度、ごはんでも」と誘われた。
躊躇もした。私は担任を受け持つ小学校教諭、彼は自営業の美容師。生活リズムも、仕事の価値観も、まるで違う。けれど、彼の真っ直ぐな目に嘘はなかった。私は頷いた。
⸻
「先生、恋してる顔してるね」
図工の時間、児童のひとりが唐突に言った。驚いてその子の顔を見ると、にやにやしている。
「なんで?」
「だって、顔がふわふわしてるもん。ママが言ってた、恋してると、そうなるんだって」
そう言って笑う子どもたちに、私は「もう、やめなさーい」と苦笑いしながら声をかけた。でも、胸の奥があたたかくなった。
⸻
秋、絵里に彼のことを話すと、案の定だった。
「遊ばれてるんじゃないの?」
「彼、ほんとに結婚考えてるの?」
「教師って大変だよ? 相手に理解されなきゃ、無理だよ?」
絵里の言葉は、現実的だった。彼女なりの親切なのも、わかっていた。でも、私の気持ちはもう、揺るがなかった。
「私、彼といると、自分を好きでいられるんだ」
そう言ったとき、絵里はあきらめたような顔をして、「……そっか」と呟いた。
⸻
冬、私は彼の実家に行った。迎えてくれたお母さんは、静かにお茶を淹れながら言った。
「教師さんって、大変なお仕事ですよね。陽翔には、もったいないくらいだと思います」
その言葉に、泣きそうになった。彼の手が、そっと私の膝の上で握られた。
⸻
春が巡り、出会ってちょうど一年。
彼の美容室の予約表の隅に、ひっそりと書かれていた文字がある。
「4月8日 入籍」
ある春の放課後、給湯室で絵里に報告した。
「絵里。私たち、結婚することにした」
絵里は数秒、ぽかんとしたあと、ゆっくりと立ち上がった。そして、苦笑いしながらこう言った。
「ほんと、どうしようもないくらい幸せそうね。……ま、いっか。おめでとう」
彼女の目にも、うっすら涙が浮かんでいた。
⸻
ふたりの生活は、すれ違うことも多い。私は朝が早くて、彼は夜が遅い。休日が合わない週もある。でも、帰る場所があるというだけで、不思議と強くなれる気がした。
朝、玄関先で手を振って別れるとき、彼がよく言う。
「今日も、子どもたちのヒーローになってね」
そして私は返す。
「あなたも、お客さんの魔法使いでいてね」
風に揺れる予約表の向こうに、今日も彼の笑顔が浮かぶ。