2025年5月7日(水)


五月の余白に咲く

連休が明けて、職員室の空気は少しだけ重たかった。黒板の前に立つ子どもたちの背中がまだどこか緩んでいるように、先生たちもまた、本格的な忙しさに向けてギアを上げきれていない。


 だからこそ、彼女の不在が静かに際立った。


 新任の先生、佐伯優。四月から三年三組の担任を任され、いつも一生懸命だった。朝一番に来て、子どもたちが帰ったあとも、教室でノートをめくっていた。ときどき、教室の隅で一人泣いている姿を見かけたこともある。


 彼女が病休に入ると聞いたとき、私は驚かなかった。むしろ、ようやく誰かが彼女に「休んでいい」と言ってくれたことに、安堵した。


 私は川島直哉。二年目の教師で、隣の三年二組を受け持っている。


 「川島先生、学年会議の資料、今日お願いしてもいいですか?」


 学年主任の古賀先生が声をかけてきた。佐伯先生がいないぶん、資料づくりや行事の調整などの仕事が、少しずつ私のほうに回ってくる。覚悟していたことだ。


 その日も遅くまで職員室に残っていると、ふと、机の引き出しからメモが出てきた。佐伯先生の字だった。


 《三組の子たちが少しずつ声を出すようになってきました。川島先生が教えてくれた“褒める”タイミング、すごく効いてる気がします。ありがとうございます。》


 柔らかく、まっすぐな文字だった。


 四月のある日、彼女は給食の時間に言った。


 「子どもって、先生が本当にその子のことを“信じてる”かどうか、わかるんですね」


 そのときの声が、いまも耳に残っている。


連絡

佐伯先生が病休に入って二週間ほど経ったころ、ふいに彼女から連絡が来た。


 《川島先生、三組の様子、少しだけ教えてもらえますか?》


 私は、嬉しさと、少しの戸惑いを抱えながら、短い返信を送った。


 《みんな元気です。朝の会で「佐伯先生は?」と聞く子もいます。》


 それから、ぽつりぽつりとメッセージのやりとりが続いた。


 「子どもたち、遠足の班決めでもめてたけど、最後は自分たちで解決しましたよ」

 「教室の後ろに、佐伯先生宛の“おたよりBOX”作ったら、毎日誰かが何か入れてます」


 文字のなかでだけ会話する関係は、不思議と心地よかった。言葉を選ぶ時間があるからだろうか。それとも、彼女がそこに「いる」ことを、ただ確認できるからだろうか。


 ある夜、少し長めのメッセージが届いた。


 《ほんとは、もっと頑張りたかった。川島先生みたいに、余裕のある先生になりたかった。でも、いろんな音が頭の中でごちゃごちゃになって、朝になると、体がうまく動かなくて……》


 私はすぐには返事をしなかった。ただ、スマホの画面を見つめて、彼女の気持ちを、手のひらで温めるように読んだ。


 やっと絞り出した言葉は、こうだった。


 《僕も、最初のころ、いろんな音に押し潰されそうでした。でも、ひとつだけ、信じられる音を見つけたら、他の雑音は消えていきました。それが、子どもの声でした。》


 送信したあと、後悔もした。きれいごとに聞こえるかもしれない。でも、返ってきた返事は、意外なものだった。


 《川島先生の声も、私にとって、その“信じられる音”です。》


 胸の奥がかすかに振動し音を鳴らすのを感じた。


 

明日へつづく…