「一度くらい会ってみなさいよ。悪い子じゃないのよ、ぜんっぜん」


母の押しに、いつものように負けた。


春休みに入ったばかりの午後。陽ざしがやわらかくて、空気にまだ寒さが残っている。


私は小学校の教員。もうすぐ29歳になる。恋愛経験は、ないわけじゃない。でも、仕事に夢中になってきたぶん、気がつけば周りの友人たちは次々と結婚していた。母には何度となく言われた。「いい加減、真面目に考えなさいよ」と。


そして、今回。母の幼なじみの息子さんと、なぜか「食事でも」と話が進んでいた。


「気乗りしないなら、断ってもよかったのに」


店に入ってからすぐ、彼は笑いながら言った。


「あ、いえ……そういうわけでは」


「俺も親に言われてきた口だから」


そう言って笑った彼の名前は、相原 智也(ともや)さん。34歳の会社員。話してみると、驚くほど話しやすい人だった。よく通る声、ほどよく低くて、落ち着いていて。でもユーモアもあって。


彼の趣味はジョギングと映画鑑賞。私はピアノと読書。共通点は少なかったけれど、それがかえってよかったのかもしれない。


「先生って、大変?」


「大変です。でも、好きです」


そう即答した私に、彼は「うん」とうなずいて、「そういうの、かっこいいと思う」と言った。


食事は1時間半ほどだったけれど、帰るころには、私は彼の連絡先をちゃんと登録していた。



最初の出会いから、2か月が経った。


定期的にやりとりをして、3回目に会った帰り道。彼は私に、こう言った。


「先生、もう少し仲良くなってもいいですか?」


その言い方が、なんだかくすぐったかった。今どき“先生”なんて呼ばれることはないし、まっすぐな言葉に、私は少しうつむいてから「はい」と答えた。


それから、何度も会った。お互い忙しいから、頻繁ではなかったけれど、彼は必ず「次はいつ会える?」と聞いてくれた。


彼はときどき、自分の仕事の愚痴も話してくれた。上司と合わないこと、部下の育て方に悩んでいること。私も、子どもたちとの関わりや、保護者対応の難しさを話した。互いの世界は違うけれど、わかり合える気持ちが、少しずつ重なっていった。



秋の終わりに、彼と一緒に行った公園で、私たちは初めて手をつないだ。


「先生の手、ちっちゃいね」


「5歳も違うんですもん。子どもみたいだと思ってるんでしょう」


「ううん。ちゃんと大人の女性として、見てるよ」


その言葉は、冬を目前にしていた私の心を、不思議なくらい温めた。



ある日、ふいに彼から「話がある」と言われた。


少しだけ、心がざわついた。でも、待ち合わせ場所に現れた彼は、スーツ姿で、どこか決意のようなものをまとっていた。


「先生……いや、遥(はるか)ちゃん。俺ね、たぶん……君と出会って、すごく変わったんだと思う」


いつになく緊張している様子だった。


「変わったって?」


「ちゃんと、将来のこと考えようって思えた。君といる時間が、どんな仕事の疲れよりも大事だって、そう思った。だから……」


彼は、ポケットから、小さな箱を取り出した。


「結婚、前提に付き合ってください」


その瞬間、時間が止まった気がした。


でも、胸の奥で、確かに何かがほどけていくのがわかった。最初は“親同士が仲良し”という半ばお見合いのような出会いだった。けれど、こうして心の芯に触れるような想いにたどり着いたのは、ふたりがちゃんと、自分たちの歩幅で向き合ってきたからだ。


「……はい」


私の返事に、彼は安堵したように笑った。



春。新年度の始まり。私は職員室で、新しいクラスの準備をしながら、左手の薬指にそっと目を落とす。


ピンクゴールドの指輪が、光にきらめいていた。


「先生、おはようございます!」


廊下から元気な声が聞こえる。私は笑って立ち上がった。


教室のドアを開けた先には、また新しい物語が待っている。


でも、この春からは、家に帰ると「おかえり」と言ってくれる人がいる。


それが、こんなにも心強いことだなんて、あの日の私はまだ知らなかった。