身の回りで起きた出来事を具体的に書き出してみる。
今まではちょっと抽象的すぎた。
このブログを読んでいる人たちは、
僕の身の回りで何が起こったかのか判らなかったと思う。
なんとなく、言語化して整理する必要がある、気がする。
なによりも自分自身の為に。
* * *
僕は04年2月に3年間勤めた半導体の設計会社を辞めた。
僕はハードな仕事に向いていないと思ったから。
実家で半年ぐらいのんびりして、
どこか海外を自転車で旅をするつもりだった。
次の仕事は旅をしてからじゃないと考えられなかった。
モラトリアム、なのかな?
* * *
のんびりとリラックスした生活を送っていた04年8月2日に
84歳の誕生日を一週間後に迎えた祖母の徘徊が始まった。
以前からちょっとおかしいなぁとは思ってたけど、
警察のお世話になるほどとは思ってもみなかった。
祖母は自分の家すら判らなくなってしまっていた。
その後何度も徘徊が続いた。
祖母の認知症(痴呆)が判ってからは、
87歳の祖父が祖母の身の回りの世話をしていた。
…と言うよりも、むしろ僕達には何もさせてくれなかった。
祖父なりに何かしらの責任を感じていたのかもしれない。
しかし、祖父の祖母に対する介護はあまり褒められたものではなく、
祖母が汚れた下着をそのまま着ていることが何度もあった。
僕達は祖父の目を盗むように祖母を介護していた。
僕は旅立てなくなってしまった。
祖母とその介護で疲れ切っている家族を日本に置いて、
自分だけ海外へ旅立つことは出来ない。
もちろん、実家での暮らしが過ごしやすかったせいもある。
祖母は去年の秋ぐらいからパニックを起こさないようになった。
僕は居心地の良い実家でのらりくらりと一日一日をすごし、
旅立ちを先送りにしてきた。
祖母の介護を祖父に任せたままで。
* * *
そして05年2月28日に祖父が交通事故に遭った。
信号の無い片側2車線の道路で運送会社のトラックが
自転車で道路を横断していた祖父をはねた。
天気の良い昼間の出来事。広い道路の中央付近。
祖父がトラックにをはねられた現場は、
大きな橋の坂道を下った先にある直線道路で、
トラックは相当なスピードを出していたらしい。
祖父が予測した以上のスピードだったのだろう。
トラックは止まりきれずに祖父をはねた。
現場には15メートル以上のブレーキ痕が残っていた。
運転手は痩せた32歳の男性だった。
その日、僕はのんきに映画を見に行っていた。
映画館から家へ帰ったとき、青ざめた顔をした母から
祖父が交通事故にあったことを知らされた。
* * *
祖父はすぐに救急車運ばれた。
祖父は頭蓋骨を含め全身の骨を折っていた。
砕けた骨盤からの出血が止まらなくて一時は危篤状態になった。
でも、驚異的な体力で回復へ向かった。ICUの医者も驚いていた。
全身に色々な管を突っ込まれてベットに横たわる祖父は、
なんとかして生き残ろうと必死に戦っていたのだと思う。
太平洋戦争で3分の2が戦死した部隊で生き残った人だ。
食料も水も何も持たずニューギニアのジャングルを700km歩き、
祖母に会う為に日本に帰ってきた。そう簡単に死ぬはずがない。
僕達は祖父の回復を信じて疑わなかった。
* * *
徐々に回復の兆しが見えてきた3月4日に祖父の容体が急変した。
肉体的には回復の兆しが見え始めていたけれど脳の損傷が激しすぎた。
その日の夕方に瞳孔が開き始めた。脳が腫れて脳幹を圧迫。
「不可逆的な変化です」と医者が何度も言った。
父と叔父と僕は医者から延命措置をするか否かの判断を託された。
その日の午前中に「明日から鼻から流動食を入れましょう」
と医者から言われた矢先だった。僕達は楽天的すぎた。
僕達は延命措置をどうするか決める必要もなかった。
話し合いをする時間もないうちに祖父は亡くなった。
細い糸がぷっつりと切れるように静かに息を引き取った。
今年米寿になるはずだった祖父は本当によくがんばったと思う。
臨終が告げられても祖父の体はしばらく暖かかった。
今にも目を開けて大きな声でしゃべりだしそうだった。
祖父のうっすら伸びた髭が生きている証のように思えた。
でも時間が経つにつれて血色が悪くなり徐々に冷たくなった。
僕は初めて近親者の死を見取った。
僕は破裂した水道管のように泣いた。
ひどく取り乱した情けない泣き方だったと思う。
立ち眩みがしてその場にしゃがみこんだ。
その間もとめどなく涙と鼻水が流れる。
自分でもどうしようもなかった。嗚咽が止まらない。
泣き止むと手足が痺れて頭がくらくらした。
東京に住む兄へは僕が電話した。
自分でも何を言っているのか判らなかったけど、
兄はすぐに理解してくれた。
僕はひたすらゴメンと言っていたと思う。
* * *
祖父の通夜も葬式も四十九日も無事に終わった。
祖父が亡くなってからは僕と親戚のおばさんが祖母の世話をしている。
今月からヘルパーさんが週三回来てくれるようになった。
あの手この手で何が祖母に合うのかを手探りしている状態。
当然だけど、祖母は祖父の死をまだ理解できていない。
あるいは一生理解出来ないのかもしれない、と思ったりする。
一日一日がすごく疲れる。ふ~。
* * *
何とか家族のバランスを保っている今の状態で、
僕が抜けちゃうとどうなるんでしょうね。
さて、さて、さて…。