第一次世界大戦以降、世界の軍事は「総力戦」が前提となっていました。

「総力戦」には資源の安定供給が欠かせません。そして、日本が資源が乏しい国であると言うことは誰よりも日本人が一番知っています。

そのため、真っ先に考えねばならないのが「自給自足」です。それが証拠に、第一次世界大戦後に政権を握ったヒトラーはアウタルキー政策(自給自足政策)を進めています。

 

また、「総力戦」では、国家を「総動員」せねば迫りくる敵を撃退することができません。

そこで日本は、1918年(大正7年)に「軍需工業動員法」を制定します。

既に「徴発令(1882年(明治15年))」という物資・人員の徴用を目的としたものは存在していましたが、これでは「総力戦」に対応できないとして、新たに制定されたのがこの「軍需工業動員法」です。

 

陸軍も、持久戦を戦い抜くには資源の自給自足が必要であるということを強く認識していました。(陸軍が満洲にこだわり、そこで自前の一大産業を興そうとしたのはこうした前提があったからです。)

自給自足が無理でも資源を安定的に調達できる体制は必須であるとして、1927年に内閣に総動員計画の立案と実行のための資源局が設置されます。ちなみに、このような機関は当時のヨーロッパ諸国でも存在していましたから、日本だけが取り立てておかしな機関を作ったというわけではありません。

 

とは言え、イギリスやフランスといった第一次世界大戦の戦勝国の他、ヨーロッパ諸国は世界中に植民地を持っており、それら経済圏活かしてそれなりの自給自足体制はとれます。

しかし、日本は遅れてきた一等国です。そのような自前で何とかできるようなものは何も持ち合わせてはいませせん。

その上、前回触れたように産業の鍵となる工作機械は言うに及ばず、鉄もアメリカからのくず鉄輸入に頼り、更には石油や綿花もアメリカから、ゴムはイギリス領からといった有様で、あまりにも米英に依存し過ぎでした。

 

もう一つ、忘れてはいけませんが、日露戦争時の外債は主にイギリスとアメリカで行われました。それ以降もことあるごとに米英を中心に外債を起債し続け、その残高は15億円を超えており、その額は当時の日本の国家予算に匹敵するまでになっていました。

こうした状況を大きく変えることは不可能であるとして、米英協調路線を主張する政治家や経済人は多くいました。

 

しかし、一方でその米英(特にアメリカ)は、満洲から日本を追い出すためにあの手この手を使ってきます。

こうした揺さぶりを排除するためにも、日本は自給経済圏の確立を急務とし、実際にその為に満州国を建国するまでに持って行っています。

こうした考え方を「アジアモンロー主義」と言いますが、1929年の大恐慌以後、日本ではこうした考え方が次第に主流を占めるようになっていきます。

 

「アジアモンロー主義」というと、何かおどろおどろしいものに聞こえますが、経済面から見れば「ブロック経済」の事です。

実際に、満州事変以降の日本の行動はまさにこのアジアモンロー主義を実現しようとするものでしたが、日中戦争がはじまってからはその様相が次第に変わってきます。

 

日中戦争がはじまると米英依存はますます強くなり、反比例してアメリカの日本に対しての批判や裏工作などはひどくなる一方です。イギリスも、中国大陸の権益を数多く持っていますから、日本が中国大陸での権益を広げると、イギリスとの軋轢も増えます。

おまけに、日中戦争が中国大陸全域に広がり(といっても沿岸地域と一部内陸部ですが)、必要に迫られて海上封鎖をすると、今度はフランスなどとも衝突するようになってきます。

 

更に北からはソ連が満洲を狙って工作活動を始める等、この頃の日本はまさに四面楚歌状態でした。

そのため、ソ連のけん制のためにドイツと防共協定を結び、その他の面でもドイツとの連携を模索していくことになります。