大航海時代以降、アメリカ大陸で採掘された銀はスペインの戦費支払い、その他不均衡貿易でオランダに流れ込みます。

そして、そのオランダとスペインその他ヨーロッパ各国がアジア貿易を始めると、その決済に銀が使われます。

その結果、アメリカ大陸の銀は世界を駆け巡って、インドや東南アジア、中国に流れ込んでいきます。

 

これが、大航海時代以降のおおざっぱなお金の流れです。

 

さて、この銀の流れに無縁だった国があります。それはイギリスです。

イギリスが獲得した植民地に銀鉱山はありませんでしたから、どうしてもそれ以外の収益源を見つける必要があります。

 

それが、以前にも触れた三角貿易でした。この三角貿易の目玉商品は奴隷です。

何しろ、調達コストが安く済みます。

最初は、自ら奴隷狩りをして調達しようとしますが、反撃を受けるなどロスも多かったため、途中からアフリカ人同士を争わせて負けた方の民族の男たちを譲り受けるという方法に切り替えます。そのため、アフリカのめぼしい国(民族)に武器その他を貸し与え、戦争に勝たせようとします。

そして、めでたく(?)イギリスが手を貸して勝利した国(民族)に自国産品を渡して代わりに奴隷を手に入れるのです。

 

この“自ら手を汚さない”やり方は以後の植民地獲得の為の常套手段となっていきます。

イギリス人は、インドでもこのやり方を踏襲しています。

綿貿易でインドに食い込んだイギリスは、インドの地方権力者同士の争いを利用して、その戦争に勝つことでインドでの権益を広げていきます。

この時に活躍したのが、東インド会社の傭兵部隊シパーヒーです。このシパーヒーはインド人でした。つまり、インド人同士に争わせて自らの権益を広げていったのです。

 

イギリスは、この他にもヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立も利用します。イギリスは、意図的にヒンドゥー教徒を優遇して役人や医師に弁護士などにヒンドゥー教徒を多く採用します。これは、社会のエリート層をヒンドゥー教徒が占めることになりますから、イスラム教徒は当然不満を持ちます。

こうして、インド亜大陸におけるムガル帝国(イスラム国)の影響力を低下させようとしていったのです。

 

そしてその後、イギリスはムガル帝国皇帝からベンガル他一部地域の徴税権を得ることに成功します。

イギリスは、この地方の徴税権を手に入れたわけですから、徴税することで先ほど触れたインドに流れ込んだ銀を回収することが出来るようになったわけです。

 

こうなると、イギリスはインド貿易自体で収益を上げ、そして徴税でも銀を回収出来るという二度美味しい状態になったわけです。

 

どれだけ美味しいかというと、インドで徴税した銀を香辛料や綿織物の買い付けに使います。そして、それをまた税金として回収するのですから、インド国内で銀を回すだけでイギリス本国やヨーロッパに送る物品が手に入るわけですから、これで儲からない方がどうかしています。こうして植民地にされたインドの経済はどんどん疲弊していきます。その分、本国では贅沢な生活が出来るようになるという仕掛けでした。

 

イギリスは、このやり方で世界のあちこちの国を植民地化していきます。

ビルマ(現在のミャンマー)でも、ビルマ人を虐げる政策をとり、直接的に手を下すのはビルマ国内の少数民族にやらせました。イギリス人のこうした民族間の憎悪をあおるやり方が原因で、ミャンマーでは今でも少数民族に対して迫害が起きたりしています。

 

もちろん、こうしたやり方はイギリスの専売特許ではなく、ヨーロッパ各国のどこでもがやっていたことです。

つまり、誤解を恐れずに言い切れば、現在の民族紛争の多くはこのヨーロッパ諸国の植民地政策に端を発していると言ってもいいでしょう。

 

 

余談ですが、実は、日本も二度このやり方をされています。

1度目は、江戸時代に起きた島原の乱です。

 

まず、宣教師がやって来て(日本の場合は戦国時代)布教活動をします。そして、一定の信者が集まると、今度は宣教師を養成する学校や病院などを建てて地域貢献をしていきます。こうして信者を増やしていき、この大きくなった組織を制限しようとする政府に反抗するよう仕向けます。

彼らは、自分たちの教えが正しいという信仰心から反抗しますので、勢い抵抗は激しくなります。

ここで、宣教師が武器商人を政府に紹介して、反抗する信者鎮圧用の武器を購入させます。

しかし、反抗を始めた信者側には手を貸しません。傍観しているだけです。

こうして、内戦を長引かせて双方の力が弱まってきたところで本国の軍隊で一気に占領するのです。

 

これは、スペインやポルトガルが植民地を獲得する時に取った手法でした。

スペインやポルトガルの植民地獲得競争は、レコンキスタ終了後の軍人の失業対策も兼ねていましたから、植民地の候補地におもむく人々は荒くれ者が多かったのです。

その上、トリデシリャス条約の仲介をローマ教皇に頼んだ条件に、植民地でのカトリックの布教がありました。これにフランシスコ会などの布教活動がリンクしたので、勢い布教活動と植民地獲得はセットになるのです。

 

これを日本でもやろうとしたのです。しかし、これはプロテスタントのオランダがポルトガルを追い落として日本との貿易に食い込みたいが故に、布教をしない証として原城砲撃をするなどして、徳川幕府は鎮圧に成功します。

 

そして、2度目は幕末です。

これは説明するまでもないですが、フランスは幕府に食い込み、反幕府姿勢を取る雄藩鎮圧に軍資金を貸し付け、武器を提供しますし、イギリスは薩摩藩に食い込み、藩幕府派に勝たせることで、その後の利権を掌中にしようとします。

しかし、イギリスやフランスのそういったやり方を察知した優秀な人材が大勢居たおかげで、イギリスやフランスにつけいるスキを与えず、自主独立が保てたのは幸いでした。