タイトル
小人の饗宴
監督
ウェルナー・ヘルツォーク
内容
世間から孤立した建造物。その中で、何人もの小人たちが一般人と隔離され生活している。
その施設の管理者、それも小人だった。
この映画には小人しか出てこない。
管理する側、される側。
される側の小人の一人がナンバープレートを持たされ、写真を撮影される場面がら映画は始まる。
{俺は何も喋らない。知っていても、知らない。喋ることはない}
プレートを持たされた小人から執拗に繰り返される返答。
場面が変わり、何が起きているか克明に描かれる。
ペペと呼ばれる小人が椅子に縛られている。縛られがらも彼は高らかに笑い続けている。
その周りを先公と呼ばれる小人がいらつきながら歩き回っている。
建物の入り口には鍵が施錠されていて、建物の周りにペペの解放を求める抗議が、仲間の小人達
によって行われていた。
先公はこれに対し、建物に籠って、自己保身するばかり。
時折小人達に上から目線でもっともらしい説得を行うのであるが、小人達にとって、火に油を注ぐ結果にしかなっておらず、抗議行動はエスカレートし、まったく手が付けられない状況に陥っていく。
抗議している小人達が電話線を切ってしまったため、まったく外部との通信が途絶えてしまい、孤立無援の状態になってしまう。
その中で抗議行動が狂気に変容し、抗議を超えて、集団心理によりタガが外れ、狂気そのものが
行動の目的になっていく様が映像によって描き出されていく。
所感
ストーリー展開が不親切、話がつながらない部分が多々ある。
また登場人物がわかりにくい、小人達がこの施設に入れられた経緯もわからない、建物の目的、
場所がどんなところか、ぺぺが拘束されるに至った経緯や、管理者側と管理される側の確執の理由もわからない、とにかく映像からそれらを読み解くのが難しく、ストーリー展開やその背景がわからないだけに、観る人が映画に入り込むのが難しい。
しかし、製作者側にしてみれば、観客あってこその映画なので、ストーリーに観客を誘い込むの
が目的であるなら、最初からそのあたりの配慮はされているはず。
つまり前提条件は一切必要と思っていなくって、単に抗議行動とそこからエスカレートする狂気がメインテーマになっているとするなら、こういう展開も納得はできるかなと。
その内容の一部をかいつまんで紹介するがとにかくひどい。
まずは建物に石を投げつけるところからはじまり、先公達が大切にしている棕櫚の木を倒したうえで火をつける、彼らより劣勢な存在として描かれている盲目の小人2人に対し、いたずら、いじめ、
はてはお互いをたきつけ、お互いが持っている杖でたたき合いをするように仕向ける、飼っている
豚を殺す、施設内の車を動かし園庭を走り回る、鶏を建物内に投げるつける、小人同士でふざけて食べ物をぶつけ合う、マヨネーズをかけ合う、その状態で歌や踊りに狂ったり、植木鉢にガソリンをぶっかけ火を放つといった具合。
当初の抗議行動から大きく逸脱し、狂気を演ずること自体が目的となっていく。
映画はそうした状況を克明に描き出すことに執心されているのであり、それゆえストーリーなどは本来的に必要ない。
ただし、観るものを目的地に導くための手段として、ペペの拘束、先公たちと施設で暮らす小人達の関係などの背景を描かざるを得なかったというのが本当のところかと思う。
あとなぜこの映画に小人しか出てこなかったのか。
1970年に製作されたこの映画、今よりも小人に対する偏見は強いだろうし、その一方で偏見に対する善意の抗議も激しいものがあり、難しい時代状況の中で作られたのかなと想像する。
確かに小人の存在は、タブー的である。
それゆえ、それだからこそ、小人の人たちは別世界に住んでいて、とてもつつましやか、人間のいやらしい部分など持ち合わせがない、もしくはそれを持っていると言ってしまうこと自体が差別として受けとられるような、そんな感じもしないではない。
タブーということは触れてはならないし、わからないままで詮索してはならない雰囲気を持っている。
わからないままでしておくというのは、ある意味、現状維持というか、自己保身的ではある。
ここで個性と差別という問題が出てくる。
個性はいいが差別はいけない。
その区別はどこでするのか?
心の在り方の差異は個性、身体の極度の在り方の差異は差別。
この映画ではそうした区別をすることに対しての挑発も感じられなくはないのである。
小人だって狂気的になるし、いじめもあれば、けんかもある、かえって性格的には難ありかもしれない。
あえて小人達を出演させることで、差別と差異の違いはあるのか、本来的に健全なありかたとはどうなのかを突き付けているようにも感じた。
(生まれたくって小人に生まれれたわけではないもんね。しかし差異はあるわけで、それを隠蔽しようとすると、どこかに歪はでてくるとは思う)