現在InstagramでもTikTokでも再生数が伸びまくってる短編映画『リナリア』が誕生するまで、あの脚本は監督と相談しながら計7回の書き直しをした。


うち4回が全直しだ。


「渾身の一撃」と自信を持って出した脚本が次々と打ちのめされていく。


「この恋に気づいて」という花言葉にちなんで『リナリア』というタイトルをつけたが、この想いに一番気づいて欲しかったのは脚本を書いた僕の方である。


浮気される話や婚約者を紹介される話、人生どうしようも無くなっちゃった女性の話、ボツとなったこれらの作品が重なってできた山。


そのてっぺんに立ったのが今回の『リナリア』だった。


もしあの作品だったら、もしこの脚本が通ってたら。


そういうことも当時は考えていたけど、“作品作り” はきっとそうじゃない。


僕自身、今回の『リナリア』が人生3作目の脚本。


だけど、ボツになった脚本も合わせたらもっとある。


全部世に出したいけど出すことが出来ない作品が次々とボツになっていった。


このボツになった作品を「死んだ作品」と言う方は一定数いると思う。


僕も最初はそう思っていた。


「あーまたボツだ。あーまた死んだ。」


そうやって次々と生み出しては殺して、殺しては生み出してを繰り返しているような感覚だった。


でも作品を作ってきてそうじゃないと気がついた。


ボツは死んでいるんじゃない。積み重なっている。


採用された作品の骨となり肉となり、世に出た作品の一部としてちゃんと生きている。


生かすも殺すも作品をこの世に生み出した本人次第だった。


多分絵や漫画、建造物もそう。


これはドラマも含め作品を生み出す人全てに言えることだと思うが、本当に強いのは《自分の作品を率先して壊せる人》だと今では思う。


一度作ってしまった作品を率先して壊す。


壊した先で今よりもっと良い作品を生み出す。


その決断をどれだけ躊躇なく、どれだけ積極的に、どれだけ早く選べるか。


かなり勇気のいることだし、勿体無さもあると思う。


でもその決断の速さと柔軟さがより良い作品を生み出すには重要なんだと思う。


僕はこの『リナリア』の脚本執筆でその点について思い知った。


「固執が作品の質を落とす」


商品を作る人もそうだけど、作品を作る人には特に持っておかないといけない考えだと個人的に思っている。


自分が作った作品の見た目や意味に固執していないか?


現在の流行に沿いすぎているその考えに固執していないか?


常識やセオリーに固執していないか?


迷いなく全部壊して、それでも更に良いものを生み出せる脚本家でありたい。