今日の出来事…


最近、心がズタズタになっていて、どんなことをしても、自分を盛り上げられなくなっていました。


仕事もホントに辞めたいって、思っていました。


気持ち的にも、非常にすれてる考えで、こんな話もわからない、馬鹿なんだ、とか、この先、勝手に苦労すればいいよとか思ってました。



全部自分!!


伝えられない自分を棚にあげて、また悪い癖の人のせいにしてました。


私には、味方が少ない分、もっと色々な方法を考え行動しなきゃ、信じてくれてる人たちのためにも、頑張らなきゃ!!と、前職の先輩と一緒に話してて思いました。


この業界、絶対に通る道なので、乗り越えなきゃならない、
商品は、日本社よりもいいものは持っているのだから、一人でも多く不幸な人を増やさないためにも、ホントに大切な人からまもりたいと、再度認識できた、いい話し合いでした。

甲府へ戻る際、どうしても父が自宅を見ておきたい、との事で亘理(わたり)郡浜吉田(はまよしだ)にある自宅に立ち寄ることになりました。ここは、仙台の家とは別に、父が母と余生を過ごす為に建築した家です。

途中、ガソリンスタンドはすべて大行列、でも並んでいるのはいい方で、車を走らせるにつれ、「閉店」「ガソリンなし」の看板が目につきました。緊急車両以外、給油させてくれないという状況でした。

浜吉田に到着し、唖然としました。それはまるで見たことのない場所でした。

あったはずの道路がなく、あったはずの郵便局や、あったはずのコンビニがありませんでした。周りは泥と、倒れて水で濡れた木だけ。津波が、ここまで来ていたのです。この辺りは「津波はここまで来ない」と言われていた場所でした。でも、それはそう言われていただけ。現実は、津波がきたのです。近くには「常磐線」という線路があります。線路の上に、どこかのおうちの畳や冷蔵庫が泥まみれで投げ出されています。車は家の玄関に入り込んで、入口を塞いでいます。窓ガラスもすべて割れ、すべては瓦礫の山となっていました。

すべてが、壊れていました。すべてを失っていました。

道は、木が倒れて封鎖してますので、車で自宅近くまで行けません。父と私は、近所に車を止めて、歩いて家に近づきました。道なき道を、倒れている木の板の上を歩き、両手をついて登りながら、家の方角目指して歩きました。家の方角でさえも、よくわからない状態でした。途中、近所の方に会い「あー!よかった!無事だったのね!」と嬉しい再会がありました。近所の方々は、道路の道を少しでも歩くことができるように自分たちで木を避けたりしてくれていました。行政が助けにくるのは、いつになるかわからないからです。「ここにはいない方がいい。我々も逃げるから」と言っていました。そして、家を見つけました。ここでも奇跡が起こりました。自宅を建てる際に、宮城県沖地震の経験をしていた父が、土台にこだわり、頑丈に作っていたこと、ウッドデッキの上に家を建てたことで、土壌から段差があったことで、家の中に浸水していなかったのです。これは奇跡でした。父は泣いていました。本当に、奇跡だと、私も思いました。

そして「また元気で会おうね!頑張ろうね!」と近所の方々にお互いに告げあい、自宅をあとにしました。

そしてそこから宇都宮へ戻り一泊。何日かぶりのお風呂と温かい食事をとることができ、甲府へ無事に戻ることができました。

甲府に戻って、私と両親は驚きました。今まで見てきた景色とまるで違うからです。

駅前では普通にお店が開いていて、電気もついています。穏やかないつもの街並みでした。「同じ日本なのに、こんなに違うのか・・」とても複雑な気持ちでした。

私達親子は無事に生き延びることができました。

しかし、まだまだ何ひとつ問題は解決していません。

被災された方は大勢います。

私も、現地に友人や遠くにいて会えない親戚を残して甲府へ戻ったことに、罪悪感を感じ続けています。

私がもっと何かできたら、それこそ大きなトラックで何百人もの人を連れていくことができたら、収容施設を持っていたら、それこそ自家用ヘリで助けにいけたら・・

色々考えます。

私の母方の祖父祖母は、福島県の南相馬市にいます。よく映像でも流れる地区です。

海の近くで、「だめだろう」と半ばあきらめていましたが、ここでも奇跡は起き、親族は無事でした。避難所生活をしています。しかし、叔父叔母夫婦が、まだ見つかっていません。

連絡の取れない友人もいます。家と両親を波にのまれた、若林区に住んでいた友人もいます。まだまた多くの方々が苦しんでいます。何ひとつ、解決されていないのです。

そこで皆さんにお願いがあります。

今、私たちが何をすべきなのか、それをもう一度考えて下さい。

皆さんの周りの方、お客様の中で、連絡が取れない親族や友人がいる方はいませんか?

既契約確認されていますか?東北地方は遠いから、いないだろうとは思わないでください。甲府に戻り、両親を共立病院へ連れて行った際に診てくださった先生の娘さんは、宮城県に住んでいらっしゃいました。

ご両親が一度に亡くなってしまった場合の必要保障額をきちんとお預かりしていますか?これは現実に起こります。

現に、私の友人は、両親を、家を、一気に失い、帰る場所も、仕事もないのです。

甲府も地震があり、怖い方もいるかもしれません。だけど、我々しか、きちんとした保障を提供できる人はいないんです。私たちは、その仕事ができる。今、できるんです。

「やる仕事がある」「できる仕事がある」というのは、とても恵まれていることです。

できる仕事が何もない、そんな方が、私の両親含め、今、日本には沢山いるんです。

一日数時間の停電も我慢してください。私から見たら、電気がつくだけで幸せに感じます。温かい食事があり、お風呂に入り、お布団で寝れる。皆さん、当たり前だと思いますか?

違います。これは恵まれている環境なのです。当たり前だと思っていた人々が、今、当たり前じゃなくなっているんです。

必要以上の買占めもしないでください。救援物資が送れなくなります。

必要以上に買い占めることによって、お店やコンビニで物がなくなります。

それを補うために、物を搬送するトラックが走り、ガソリンを使います。

そうすることにより、緊急車両のガソリンが不足します。病人や被災者を運ぶことができません。そして、物が何もない地域に届けるものもなくなるのです。

今、友人の父が、仙台の病院で入院し、透析しています。電気が病院まで完全に復旧しておらず、透析ができなければ、友人の父は亡くなります。

友人は、千葉に住んでいるため、父を呼びたいと必死で言ってきました。

だけど、今の現状を考えると、迎えにいった人も被害に合う可能性が高い、原発もどんどん悪化している、難しい・・・そこで、片っ端から病院関係の人がいないか、連絡を取り合いました。受け入れ病院がないか、調べて情報提供していました。

でも、同じような状態の方が沢山いるので、特別扱いできるわけでもありません。

復旧のめどがついた病院へ搬送作業が始まりましたが、まだガソリンが不足しているのです。

そんな中、彼女からメールが届きました。

「少しずつではあるけれど、復旧した病院への患者振り分けが始まったようです。父の順番がいつくるかわかりません。しかし何よりも、父が地元にいたいという気持ちが強く、父の意思を尊重することにしました。

辛いけど、節電に努めつつ、祈ります。本当にありがとう。」

節電も協力してください。一人一人のご協力がなければ、東北地方の人たちは、いや、日本国民全体が、元の生活に戻れないんです。

今、会社でも救援物資を集めていますね。中には、個人的に物資を送りたい方もいると思いますが、避難所によって不足しているものも違います。ましてやガソリン不足の中で向かっても、途中何かあれば新たな被害が増えることになります。個人的にボランティアに向かっても、向こうで自分たちの食事をもらうわけにもいきません。避難所で寝るわけにもいきません。その分、被災者に負担がかかりますから。

一番いいのは、募金等で大きな資金を用意し、しかるべき時に大きなお金を渡して、必要なものを赤十字などでとりまとめて用意できること、各行政地区で救援物資を集めていますが、それらを経由して物資を送ること、だと思います。

私の友人、Aさん(女性)は、今、仙台市青葉区八幡(はちまん)というところに住んでいます。

彼女も震災にあい、ライフラインが一時すべて止まり、地震があってから数日後、やっと連絡が取れました。仙台市内でも、排水管等の問題なのか、水が出るところと出ないところがあります。幸いにも彼女が住んでいる地区は、水と電気が通いました。

彼女も被災者です。でも今彼女は、自宅を周囲の方に開放して、お風呂を提供しています。そして近所に住んでいる一人暮らしのお年寄りに、自宅でパンや食事を作り、余震の不安の中、配り歩いて毎日声かけしています。隣に住んでいる東北大学の教授と一緒に、海外から留学に来ている外国人に食事やお風呂を提供しています。先日、中国人の方の帰国ニュースが流れていましたが、遠く離れた国(インド)等から来ている人は帰国の目途もたたず、住まいもなくしたので、自宅で預かっているそうです。そこでも彼女は、強力粉を購入するのに、すさまじい買占めに合いました。

彼女からメールが届きました。「うちみ、皆、そんなに買占めしてるの?本当にやめてほしいよ(涙)。なかなか物が手に入らないの。価格も急騰してるし。もし周りの方に話す機会があれば、ぜひそのことを伝えてほしい!」と。彼女は、わずか1歳の男の子を抱えながら、今必死で戦っています。

恵まれている私達は、今、何をすべきでしょうか?

仙台へ向かう中、私が担当させて頂いているお客様に安否確認を行いました。

皆さん無事であることがわかり、ほっとしました。

その中で、K様という20代の独身男性の方がいます。彼は、父の仕事の知り合いで、食品関連の会社に勤めています。自宅は宮城県の気仙沼市の辺りです。もちろん自宅は流されました。ご両親やご兄弟は無事でした。彼は仕事で福島県のいわき市に住んでいたのですが、会社の同僚の方でまだ見つかっていない方もいらっしゃるそうです。ある同僚の方は、たまたま塩釜港にあったポール(棒)に、洋服の襟元がひっかかり、津波に流されずに済んだそうです。K様は、「内海さんも、ご両親も無事でよかった!」と電話口で話して下さいました。

自分の方が大変なのに・・。堪え切れない思いでいっぱいでした。

今、K様は、バイクで、自分の会社にあった食品を、老人ホームやお年寄りの多い地域に配り歩いています。

「福島原発が近いじゃないですか。動いたら危険ですよ!」と話すと、

「うん、確かにそうなんだよ・・・だけどね、うちの会社には加工した食べ物がある。

いつも配達していた施設のおじいちゃんやおばあちゃんから「何か食べ物ないですか?」って聞かれたら、ないとは言えないじゃないですが・・僕はまだ体も動くし、バイクはまだ動く。放射能は浴びてるかもしれないけど、内海さん、僕は大丈夫だから!それよりご両親大丈夫ですか?食べ物あります?運びますよ!」

彼の、強い強い使命感に、私はただただ感服するだけでした。私と両親が甲府へ避難することを話すと、「よかった!本当によかった!じゃあ、また元気で会いましょう!また連絡しあいましょうね!」と言って下さいました。

恵まれている私達は、今何をすべきでしょうか?

避難所や現地の映像は、毎日ニュースで流れています。でもだんだんと、テレビ番組も通常の番組を放送しており、まるで震災に遭われた方々が落ち着いたかのような錯覚を覚えます。でも、避難所も、津波にあった地域も、何一つ変わってません。

避難所も、同じところばかりが放映されます。私の両親がいた避難所は、一度も放送されていません。地区の名前も、一度文字がテロップで流れただけ・・テレビで流れる避難所では、温かい食事が支給されていました。避難所でもこんなに違いがあるのか・・と大変驚きました。そんな所が、山のようにあるのです。

避難所の衛生環境は、とても厳しい状態です。私が見た限りでは、仮設トイレはありますがもちろん水洗ではありません。手を洗う水がないので、除菌ジェルで手をこするだけです。常にそうです。避難所でも、インフルエンザや色々なウイルスが発生しだし、亡くなられた方のニュースも流れていました。まだまだ、そのような事が沢山起こってくると思います。

私は、この地震で、さまざまな思いを経験しています。

辛い思いがほとんどです。両親が生きていたことは嬉しいけど、親戚や友人を助けられない自分を責める気持ちも隠せません。

だけど、私はあと、できることをやるしかないと思っています。

私ができることは小さいことかもしれない。

だけど、今できることをやろう、そう思いました。

皆さんも、今できることを精一杯して下さい。

今だからこそ、保障の必要性を伝えて下さい。私の話を、伝えて下さい。

一人でも多くの人に、この現状と、だからこそ保障が必要なんだ、という事を、皆さんの手で、足で、口で、伝えて下さい。

そして、家族以外にも、自分の安否を気にかけてくれている人がいるというのは心強いものです。私は今回それも感じました。両親の保険は私が預かっているので、担当は私です。

でも、家族以外に、誰かがいる、というのは、それだけでも精神的に安心できると思いました。

つまり、皆さんはその役目を担うことができるのです。

皆さんが、そして私自身が、ふと終わってしまった一日は、被災者の方や、私の見つからない友人や、見つからない叔父叔母が「生きたかった一日」だと思うんです。

だからこそ、精一杯今できる事をしてください。

どうか、どうかお願いします。

最後になりましたが、沢山の方々からの激励メールや、お気づかい頂いたこと、その気持ちが勇気となって、力となって、なんとか無事に帰ることができました。

両親の命も守られました。

本当にどうもありがとうございました。

これから、一人でも多くの方が助かり、東北復興の日が一日でも早く訪れることを祈り行動しながら、生きていこうと思います。


                                                              以上


*実際、家族が被災された方のお話です*


震災後、被災者以外の方はどう過ごされていますか?

計画停電に悲観したり、電車が動かなくて小言をいったり、被災者のフリをして援助受けてみたり、、、、

自分のこと中心に物事を進めたりしていないでしょうか?

それが悪いというわけではないのですが、

いくらなんでも何もなかったかのように日々を過ごされてはいないでしょうか?

僕はそういった現状を何とかしたいと思っていても何もできない偽善者の一人です。

実際、私には被災に会った人はかわいそうだと思いますが、何もしてあげられないし、そんな余裕もありません。

なので、今を生きています。

普段通りに、、、

ただ気持では、何かをしてあげたいという思いでいっぱいです。

私の友達も、被災地にいますし、その両親も被災地にいます。

こういった状況になって、友達にすらなんにもやってあげられない。


それが現実なんです!!

いつかいつかと、先延ばしにしていると、いずれ、順番が回ってきてしまう。

僕の場合、今回の地震が三度目の正直でした。

たまたま、人より早く、両親ともに、高度障害になってしまいました。

今回の地震で、大切な人を失った方、大切な方が大きな障害を持ってしまった方、多くいるともいます。

今後の生活費は足りますか?

学費は?

障害を持ってしまったときの出費、施設代はどのくらいかかる?そもそも受け入れの施設はあるのか?

大切な人がいなくなってしまった悲しみは大きいもので、お金では解決できませんが、生きるためには、

必ずお金が必要です。

家族を守りたい!!

その強い思いこそ真の保証の形だと思います。

お金で済ませるなと、いうかもしれませんが、生活苦の人がボランティアをする余裕がないように、

お金がないと何もできません。

家族を養う、家族を持つとはそういうことだと思います。

私が死んでも、周りがなんて思う人ほど、必ず誰かに支えられて生きてきたはずです。

僕は、ようやく周りに目を向けれるようになってきました。

皆さんはどうですか?

いつものことを当たり前の環境だと思っていませんか?

どこの世界にも絶対はありません。

ただ、人である限り、死は必ず等しくやってきます。

そこまでの準備は?

日々後悔しないように生きてますか?

一度でいいのでお考えください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

この日記を見て、不快であればメッセージいただければ、日記を削除します。


今日は、皆さんに私が実際に経験してきたこと、見てきたこと、聞いてきたことを

お話していきたいと思います。

辛い話ではありますが、皆さん一人一人に、ぜひ聞いてもらいたい、そして命の尊さ、

生きるということについて真剣に考えて頂きたいと思いますので、敢えてこの場を借りてお話させて頂きます。

私自身、まだ日が浅いこともあり、お伝えする際に涙してしまうこともありますので、

今日はこの文章を読ませて頂きます。

今から遡ること約33年前の1978年6月12日、17時14分、宮城県に大きな地震が襲いました。「宮城県沖地震」です。

マグニチュード7.4、震度5の地震が、宮城県仙台市を中心に岩手県、福島県、山形県を襲いました。津波は仙台港で最大30センチ、死者28名、負傷者1万人余りの惨事でした。当時私は、2歳。母の実家である福島県相馬市に母と居たために地震の被害には合いませんでしたが、父が仙台で仕事をしており、命からがら、福島へ避難することができました。

そして、33年後、悲劇は襲いました。

「いつかまた大きな地震がくる」―これは宮城県民なら誰でもわかっていたことです。

宮城県では、6月12日は「県民防災の日」となっており、各地で防災訓練が行われます。

わかっていたこと、経験していたことなんです。

しかしながら、時が過ぎるにつれ、危機感は薄れていたのかもしれません。

2011年、3月11日、14時46分、皆さんも甲府で大きな揺れを経験されましたね。

「東北地方太平洋沖地震」です。暫定値マグニチュード9.0、最大震度7の大地震が日本を襲いました。そして最大7.3M以上の津波が各地沿岸を襲いました。

あの日、私は皆さんと会社で地震を経験しました。8階で大きな揺れを感じ、皆と階段でかけおりました。その間、変な予感がありました。これは関東の地震じゃない、宮城だ、と。でも、私の両親は仙台にいます。どうか違ってほしい、こんな勘は当たらないでほしい、そう願いながら階段をかけおりました。

しかし願い虚しく、震源地が東北であるという情報を耳にしました。

両親は大丈夫なのか?福島にいるおじいちゃんは?おばあちゃんは?友達は?家は?

いろんなことが頭を駆け巡りました。その後電話しても不通、公衆電話で電話しても繋がらない、メールの返信もこない・・体に震えがきました。

ある程度時間が経ってから、両親から「ダイジョウブ」というカタカナのメールが届きました。

そこで少し安心しました。でも、両親二人が一緒なのかわからない、どこにいるのか、家はどうなっているのか、何もわからない状態が続きました。

TVを付けた時に絶句しました。

私が慣れ親しんだ場所が、町が、とてつもない状況になっているのです。

ただただ泣くだけでした。涙が止まりませんでした。

でも何もできないのです。不安な気持ちのままTVを見ることしかできない。

メールも送れない。送れても返信は来ない。電話はつながらない。一体どうなっているのか?

ただただ、TVを見るだけでした。

そこからです。仙台に行こうと、両親を迎えにいこうと考え出したのは。

本来ならば、私の考えや行動は無謀なものだったのだと思います。福島の原発、放射能の危険性も出てきている最中、自分が行くことで、新たな被害を起こす可能性の方が高いのです。

当時、電車も不通、ガソリンも不足している、仙台に到着しても帰れないかもしれない、食べるものもないかもしれない、放射能も浴びるかもしれない、プラスよりもマイナスの事の方がはるかに多かったのです。でも、意思は変わりませんでした。

死んでも後悔はしない、そう思えました。だから行きました。ただ、それだけです。

翌日3月12日土曜日、大きなリュックに、水や乾電池、防寒具、薬、少しの食糧を購入して詰め込み、10キロくらいになったリュックを背負い、甲府を後にしました。電車は不通でしたので、高速バスで新宿へ向かいました。両親には、迎えに行くことは最後まで伝えませんでした。来るなと言われるのがわかっていたからです。だから言わずに行きました。ただ、その後メールで「小松島小学校に避難している」という連絡がきました。だからとにかく避難所に行こう、そこで探そうと思いました。

新宿に到着し、そこから知人と合流して、まずは作戦を練りました。車で向かってもガソリンは確実になくなる、どうするか?どのルートが最短距離なのか?道路の封鎖状況は?原発の様子は?TVからは悪いニュースばかりが入ってきます。「本当に行けるのか?」

そこまで考えました。でも「行きたい」という私の一言で、無謀にも東京を後にしました。その日は東京で一晩過ごしましたが、ほとんど眠れませんでした。

まだ計画停電も始まっていない最中でしたので、東京の街並みは、普段と変わりません。コンビニで軒並み品切れにはなっているものの、お酒を飲んで遊んでいる若者は、いつもと変わらず街中にいます。まるで地震が嘘のような、私は今どこにいるんだろう?日本にいるのかな?そんな錯覚と悲しみが、同時にこみあげました。

翌日、まずは電車が通っている宇都宮まで、在来線で行きました。そして宇都宮でレンタカーを手配し、乗ろうとしたのですが、車を貸してもらえないのです。ガソリンが不足していること、車が戻ってくるかわからない状況であること、そして車の台数も足りない・・・

でも諦めるわけにはいきませんでした。なんとか頼みこみ、車を借りることができました。

そのやりとりをしている最中、そのレンタカー屋さんで一人の男性が車を借りていました。「もしかして東北方面ですか?僕は福島まで行きます。よかったら一緒に乗りませんか?」

と声をかけてくれました。ありがたかったのですが、私の向かう仙台は福島の先です。福島で足が途絶える可能性もあるので、遠慮させて頂きました。「お互いに気をつけていきましょう。絶対大丈夫ですよ」と、励ましあいながら、あとにしました。

そこからまずはガソリンの調達です。宇都宮市内もほとんどの店がガソリン不足で閉店しています。1件、スタンドを見つけ、一時間以上並び、ガソリンを給油、そこから往復の事も考え、暖房も付けずにスタートしました。そして仙台ではATMも止まっている可能性もあるので、ある程度の現金も準備していきました。

そこからが長い道のりです。宇都宮から国道4号を通って、仙台を目指しました。

途中、多くの一般車両が同じ方向へ向かって走っていました。品川、さいたまナンバーなど、沢山の方が救援に向かっていました。仙台へ向かうにつれ、コンビニ等は閉店、「水道止まってます」「電気止まってます」の張り紙が目立ちました。コンビニに寄っても数個のおにぎりやお弁当しかありません。水も売り切れ。でも避難所に少しでも持っていければと、おにぎりとお弁当を購入しました。私は、緊張と張りつめた気持ちのせいか、おなかがすいても食事ができなく、お菓子と水で過ごしました。もっと言えば、両親のことを考えると、自分だけ食事をすることができなかったのです。

途中、土砂崩れの現場が見えたりと怖い経験もしましたが、だんだんと仙台に近づいていきました。宮城県に入った時点では夜中になっており、電気がまだ通ってない状況で、信号も街灯もなく、真っ暗な中、車の明かりを頼りに進みました。

そして、深夜12時近くだったでしょうか、避難所につきました。

避難所は仙台市青葉区にある、小松島小学校というところです。ここは市で指定されている避難所です。しかし辺りは真っ暗、皆が寝泊まりしている体育館内も、真っ暗でしーんとしており、時おり赤ちゃんの泣き声が聞こえ、とても寒い室内でした。外には発電機の明かりと、簡易トイレがありました。避難所について、両親がどこにいるのかわからないので「きたよ。どこ?」とメールをしました。すると、入口付近でメールを受信する音が聞こえ、暗闇の中で凝視していると母の姿があり、駆け寄りました。そこで両親と対面できました。両親は、私がいる意味が理解できなくて、きょとんとしてましたが、第一声が「なんでいるの?」でした。もう周囲は就寝していたので、少し外に出て、話をし、経緯を話しました。父は「お前・・・あぶないだろ」と一言。いつもなら怒る時には鬼のように怒る父も、気弱な声でした。母は泣いてました。

抱きあって、生きていることを、無事なことをやっと感じました。

「元の生活に戻るにも時間がかかる。だから甲府に行こう。あとは何も心配する必要はないから」そう話をしました。最初、父は悩んでいましたが、説得し、甲府へ避難することに決めました。

その日は、朝方まで私は車で過ごしました。ガソリンのことを考えると、暖房をつけることはできません。車の中ですら、白い息を吐くほどの寒さでしたので、一睡もできず、ただただ太陽が昇るのを待ちました。とてもとても、長く感じた夜でした。

翌日、朝になり、現状がわかってきました。

避難所は体育館です。学校に行っている皆さんはよくわかると思いますが、学校の体育館の床はとても冷たいです。広い体育館に達磨ストーブがわずか二つ。そこに、皆が毛布一枚と、銀色の防寒シートを敷いて、毛布をかけて寝ています。でも、寒さで寝れないのです。横になって、ウトウトしているだけなのです。食べ物は、初日にはクラッカーと水、翌日は小さなおにぎりを一人1つ、あとはリンゴやみかん、バナナ1本・・・・が、分けられて、一日に二度ほど配られるそうです。

毛布も支給されますが、全員分はありません。自宅が崩れて、毛布を持ち運べない人を優先に支給されます。小さな赤ちゃんもいます。泣いています。沢山の人たちが、身を寄り添って避難していました。

両親の左となりには、山形から就職活動でてきていた19歳の女の子がいました。周りに頼れる人もいなく、一人避難所にいました。私の両親は、少しでも励まそうと、その女の子と色々話しをしていたそうで、私もその子と話をしました。この近くで一人暮らしをしていてこの惨事に遭い、怖くて避難所へきたそうです。お父さんが千葉にいて、連絡が取れない状況でした。私は持ってきていた非常食や衣類、電池や携帯の充電器をあげ、「今、世界中から支援が来ているから大丈夫。絶対助かるよ」と話しをしていました。「そうなんですか?世界中から?」とびっくりしていました。そうなんです。情報が、全く入らないのです。情報源は新聞とラジオのみ。それ以外の情報は全くないので、今、日本全体がどんな状況かわからないのです。彼女は、炊き出しのお手伝いをしたそうです。1500個分のおにぎりを作るのを手伝ったそうです。「お手伝いしたんだ、えらいね」と話しをしていたら、「その方が手も温まるし・・」と一言。私は涙をこらえるので必死でした。

でもその1500個のおにぎりは、その日の晩に無くなり、私がいた際に配られたものは、バナナ1本とみかんひとつでした。「あー、もうおにぎりなくなったんだ・・でも、これすぐに食べれないんです。次、いつもらえるかわからないじゃないですか」

これが現実です。これが避難所の現実なんです。

私が持参して、母に渡したお弁当は、彼女の枕元にありました。母に聞いたら「食べたよ、おなかいっぱい」と言っていたのですが、母らしいなと思い、それ以上は何も言いませんでした。でも、ここでは皆が助け合いです。誰かが誰かを助ける、足りないものは皆で出し合う、皆状況は同じ、だからあとは頑張って生きるしかない、そういう気持ちでいるのです。

うちは自営業で飲食業をしています。お店と事務所が「仙台市青葉区小松島」というところにあり、地震の際には事務所にいたので、今回避難所に逃げることができました。

当分、仕事は休業になりますので、ある程度片づけをしなければとお店に向かいました。ここで一つ、奇跡がおきました。それは、お店と事務所の建物自体は無傷だったことです。中はぐちゃぐちゃでしたが、倒壊することはありませんでした。休業になるので、近所の人に無料で食べ物を配りました。そして「また元気で会おう!頑張ろうね!」この言葉を最後に青葉区を去りました。

「また元気で会おう!頑張ろうね!」これは道ですれ違う人、皆がまるで合言葉のようにお互い言い合う言葉になっているのです。

しかしこれは、私たちが普段使っている「またね!元気でね!」とは意味が違います。

「また、『生きて』元気で会おうね!皆、辛い状況だけど、一人じゃない。大丈夫!

お互いに頑張ろうね!」という意味が、この言葉にはあるのです。