1 “日本人の個人主義”という言葉で私の脳裏にあるのは、日本国憲法です。

 今から50年余り前、私が日本国憲法を学んだとき、日本国憲法には①国民主権②基本的人権尊重③平和主義という三本の柱があるが、その根本原理は個人主義にあること、そしてその根幹をなす個人の尊厳は「個人が生まれながらに有する人間としての尊厳」を意味すると習いました。

 「個人が生まれながらに有する人間としての尊厳」とは、何か分かったようで分からない言葉だと思いましたが、それが日本国憲法の根幹をなすというのなら、もっと掘り下げる必要があるのではないか、と心に残りました。

 その後、欧米のクリスチャンの人々は、人間の尊厳を絶対的な神とのつながりに求め、神が人間を神の似姿とし、人間以外のこの世の全てを支配するものとして創造したところに人間の尊厳を求める事が分かりました。

 しかし、私も含め日本人の99%はクリスチャンではなく、キリスト教の伝統も受け継いでいません。従って、人間の尊厳を絶対的な神とのつながりに求めるのは無理があります。

2 ではクリスチャンでない多くの日本人は、何に個人の尊厳を求めたら良いのでしょうか。

 しばらくして私は、個人の尊厳を、個人のいのちに求めたらどうかと考えるようになりました。

 その理由は、まず人のいのちの奇跡性にあります。

 人のいのちは一人一人別々のかけがえのないものでありながら、受精前の父母の精子・卵子の遺伝子・細胞を通して数限りない祖先とつながっており、そのつながりは、私たち人類が誕生したとされる20万年前にさかのぼり、更に地球上に生物が初めて誕生したと言われる38億ないし43億年前まで延々とさかのぼります。

 これを逆にみれば、38億ないし43億年前の地球上の生物の誕生から現在の自分まで、いのちは延々と生き続け、地球が巨大隕石との衝突により真っ赤に燃えたときは地下数キロメートルでやり過ごし、地球の表面全体がこおりついたときは火山の近くの温泉に避難し、いのちのリレーをくりかえし、姿形を変えながら、壮大なドラマを展開しつつ、いのちの炎は燃え続け、いのちのつながりを絶やしませんでした。だから自分がここにいるのです。

 自分のいのちは、自分がつくったものでないのはもちろん、両親がつくったものともいえず、人間の力をはるかに超えた奇跡的な存在ということができましょう。そこに個人の尊厳を個人のいのちに求める第一の理由があります。

3 個人の尊厳を個人のいのちに求める第二の理由は、私が幼い頃から「人間にとって一番大事なものは一人一人の人間のいのちだよ」と、親や世間から言われてきたことにあります。

 この考えを私は当たり前のことと思っていましたが、考えてみると第二次大戦後の日本人の考え方であって、戦前・戦中の日本人の考え方ではない、ということに気がつきました。

 戦前・戦中の日本人の考え方は、「お国のため天皇陛下のためにいのちを惜しむな」という全体主義的なものだったようです。

 では日本人の考え方が、「お国のため天皇陛下のためにいのちを惜しむな」という全体主義的な考え方から、「人間にとって一番大事なものは一人一人の人間のいのち」という個人主義的な考え方へと変わっていったのはどうしてでしょうか。

 私は大きく三つの原因があると思います。

 まず、第一の原因として、第二次大戦で日本の兵士・民間人あわせて約310万人の尊い命が失われたことがあります。兵士として戦地で銃弾に倒れた人、撃沈された戦艦と運命を共にした人、食料の補給がない中で戦地の密林・原野をさまよい餓死した人、特攻隊として自分の乗った航空機・魚雷ごと敵艦に激突した人、民間人で沖縄の地上戦で命を失った人、本土空襲で焼死した人、広島・長崎で原爆に曝された人など様々ですが、皆さん本当はもっと生きていたかったでしょうし、その親・子・兄弟・妻・恋人達の深い悲しみは、「お国のため天皇陛下のためにいのちを惜しむな」という世間の空気の中にあっても、少なからぬ日本人に一人一人の人間のいのちの大切さを痛感せしめたのではないでしょうか。

 次に、第二の原因として、昭和天皇陛下による終戦の玉音放送があります。放送前日の1945年8月14日、既に広島・長崎に原爆の投下があった時点でも、日本の軍部にあっては皇国日本・神国日本の誇りに殉じ徹底抗戦・一億玉砕すべしとの空気が強く、国民の多くもその覚悟を固めていたようです。

 これに対し、昭和天皇陛下は、国民のいのちを守ることを第一にお考えになり、日本の無条件降伏を内容とするポツダム宣言の受諾を決意され、御前会議での異例の御発言を経て、終戦の玉音放送に臨まれました(※1)。陸軍の一部にこの放送を阻止しようとする動きがあったようですが、それは失敗に終わり、終戦の玉音放送は全国に流されました。

 それまで日本国民は軍人も民間人も、一億玉砕のスローガンと「生きて虜囚の辱めを受ける事なかれ」という戦陣訓が脳裏に刻み込まれていたと思われますが、この昭和天皇陛下による終戦・降伏の玉音放送を聞いてその縛りは徐々にほどけ、国民の多くは、敗戦という厳しい事実をしっかり受け止めつつその困難を乗り越え、何とか生き抜いていこうという気持ちになっていったのではないでしょうか。

 これに反し、もし昭和天皇陛下の終戦の玉音放送が陸軍のクーデターにより阻止されていたならば、連合軍との本土決戦は避けられず、一億玉砕のスローガンのもと「生きて虜囚の辱めを受ける事なかれ」という戦陣訓を胸に、お国のため天皇陛下のため女性も子供も竹槍を手に近代兵器の連合軍と戦い、何千万ものいのちが失われ、他方、生き残った者も死に損なったという気持ちが強く、いのちの大切さを実感するのは難しかったのではないでしょうか。

 日本人の考え方が、「お国のため天皇陛下のためにいのちを惜しむな」という全体主義的な考え方から、「人間にとって一番大事なものは一人一人の人間のいのち」という個人主義的な考え方へと変わっていった三番目の原因として、1946年1月1日の詔書でなされた昭和天皇陛下の「人間宣言」をあげることができると思います。このなかで昭和天皇陛下は、天皇を現御神とするのは架空の観念であるとされ、自らの神性を否定されました(※2)。これにより天皇陛下も神様という特別の存在ではなく、我々一般国民と同じ一人の人間と考えられるようになりました。

4 以上、私は、人のいのちの奇跡性と、人間にとって一番大事なものは一人一人の人間のいのちとする第二次大戦後の日本人の考え方に照らし、日本国憲法の根幹をなす個人の尊厳は個人のいのちに求めたら良いと考えます。

 

(※1)日本の軍部を、皇国日本・神国日本の誇りに殉じ徹底抗戦・一億玉砕すべしとの空気が支配し、国民の多くもその覚悟を固めている中で、昭和天皇陛下が、国民のいのちを守ることを第一にお考えになり、日本の無条件降伏という捨て身の御決断・実行をなされたことの意義は、重大である。

 この御決断を考えるとき、少年時代の昭和天皇陛下(裕仁親王)の中高等教育のためにつくられた東宮御学問所の御用掛として倫理・帝王学を進講した杉浦重剛のエピソードが思い起こされる。

 杉浦は、「天皇にとって何より大事なのは仁愛…天皇ご自身が自らを犠牲にしてでも国民を大切に」ということを裕仁親王に伝えようとする。これに対し、御学問所の総裁・東郷平八郎(海軍軍人)は、天皇が臣民に仕えるような「仁愛」をもつなど言語道断として大いに反対した。しかし杉浦は、「覇道は武力による統治を意味するのに対し、王道は仁による統治を意味し、日本の天皇はこの王道をゆかねばならず、高徳の君主は王道の必須」として、自らの教育方針を変えなかった。このように東郷平八郎と杉浦重剛は教育方針で衝突したが、杉浦の進講が「検閲」されることはなかったようである。(ネット記事…『昭和天皇物語』は深読みすると止まらないマンガだった shinyama 2018年4月1日)

 

(※2)上記ネット記事によれば、東宮御学問所の御用掛として歴史学を進講した白鳥庫吉は、「神代(イザナミ・イザナギやアマテラス)の物語は神話である。歴史ではない」という進講をし、それでも白鳥が解雇されることはなかったという。

 

 

 

 

 

 

 

1  私は、今から50年ほど前の学生時代から、マルクスの搾取論には疑問を感じて

 いた。

   資本主義社会にあっては、労働者は労働して賃金を受け取り、資本家は資本を

 投下して利潤を取得する。

   マルクスは、この資本家が取得する利潤は本当は労働者が取得すべき労働の

 剰余価値で、資本家が利潤を取得するのは労働者から剰余価値を搾取する(掠め

 取る)ものだという。

   搾取する(掠め取る)という表現は、倫理的に悪いことを意味している。

   日本は私が生まれる前から資本主義社会であったし、私の学生時代も資本主義

 社会であった(今日もそうである)。 従って、マルクスによれば、資本家の人々

 が労働者の人々を搾取していたことになる。

  もしそれが事実ならば、労働者の人々は黙っていまい。マスコミや世間も厳しく

 糾弾したはずである。資本家の人々も良心の呵責に耐えかねたであろう。

  ところが、労働者もマスコミも世間も(マルクス信奉者を除いて)何も言わな

 い。資本家からも良心の呵責の声が聞こえてこない。

  ということは、資本家が利潤を取得することが労働者を搾取することだという

 マルクスの搾取論に問題があるのではないか。

 

2 さて、土地や工場・機械など生産手段の私的所有を認める資本主義社会にあって、

 資本家は、個人の自由として、自分の望む事業に資本を投下する。

  資本家は、事業に成功すれば利潤を得るが失敗すれば投下資本を失うリスクを

 負いつつ、自分の自由に考案する商品を世の中に提供し、労働者に雇用の場を

 提供する。

  具体的に、資本家は、世の中が求めていると思われる商品を提供する事業を

 構想し、自ら投下する資本により工場を建て、自分の考案する商品製造に必要な

 機械を設備し、労働者を雇い入れ、必要に応じて労働者を教育し、円滑な生産管

 理体制を構築し、良質で安価な原材料を仕入れ、労働者を指揮監督して商品を

 生産し、生産した商品を市場の需要に応じて適当な価格で売却し、得た代金から

 原材料費・機械の摩損費・労働者の賃金等を差し引いた残りを、利潤として取得

 する。

 

  これに対してマルクスは、商品の使用価値の形成における資本家の“役立ち”

 を商品の交換価値とは関係ないものするが(角川文庫 資本論〈一〉 第一部 第一

 分冊 長谷部文雄訳 297頁)、その理由の説明は無い。そして、商品の価値

 (交換価値)を形成するのは労働者の労働のみであるという考え方から、資本家

 が取得する利潤は、本来労働者が取得すべき労働者の労働の剰余価値に外な

 らず、従って資本家が利潤を取得することは、労働者を搾取することだという。

  商品の価値を形成するのは労働者の労働のみであるという考え方は、正しいで

 あろうか。

  確かに、資本家が事業を構想し、工場を建て、機械を設備し、原材料を仕入れ

 ても、労働者の労働がなければ商品は完成しない。しかし、労働者がいても、資本

 家の提供する原材料や機械設備等がなければ、労働者は労働力を発揮できず、

 やはり商品は完成しない。

  結局、商品の価値は、資本家の事業構想に基づく工場・機械設備・原材料の提

 供と、労働者の労働、更に資本家の市場の需要に応じた商品の売却があっては

 じめて形成されるというべきである(商品は製造されても売却に失敗すれば、その

 価値は使用価値も交換価値も実現されない。)

  換言すれば、商品の価値は、資本家と労働者の協同によって形成されるのであ

 り、資本家が取得する利潤は、商品価値の形成における資本家の役割に応じた

 ものと考えることが出来るのではないか。

  ここに、資本家の役割とは、投下資本喪失のリスクを負いつつ、事業を構想し、

 工場を建て、機械を設備し、労働者を雇い、生産管理体制を構築し、原材料を仕

 入れ、労働者を指揮監督して商品を生産し、生産した商品を市場の需要に応じて

 売却することだが、その全体にわたって、資本家には高い精神的能力を発揮する

 こと〔精神労働〕が求められよう。

 

  このようにみてくると、労働者の労働は、資本家のリスキーで総合的な精神労働

 と一体化した“複合労働”を成すと言えるのではないだろうか。

  この複合労働の一定時間分が労働者の賃金となり、残りの時間分が資本家の

 利潤となると考える。

 

    マルクスの考え方 労働者の具体的有用労働→商品の使用価値

             労働者の抽象的人間労働→商品の価値(交換価値)

     ※ 抽象的人間労働には、原材料・機械等に込められた過去の労働も含む

    私の考え方    労働者及び資本家の具体的複合有用労働

                        →商品の使用価値

             労働者及び資本家の抽象的複合人間労働

                        →商品の価値(交換価値)

     ○  事業者が単独で自ら商品を生産・売却する場合を考えると、上記労働者

      及び資本家の具体的複合有用労働は事業者の具体的有用労働に、上記

      労働者及び資本家の抽象的複合人間労働は事業者の抽象的人間労働と

      なろう。

 

3 マルクスのいうように、商品の価値を形成するのは労働者の労働のみで、資本家

 が取得する利潤は本来労働者が取得すべき剰余価値に外ならず、資本家が利潤

 を取得することは労働者を搾取することだとすれば、資本主義社会が高度化し、

 労働者の権利意識も高まれば、そのような資本家による労働者の搾取は容認され

 なくなり、資本主義社会は根底 から覆されるのが必然だという考え方も成り立と

 う。

 

  これに対し、私のように、商品の価値は資本家と労働者の協同によって形成さ

 れ、資本家が取得する利潤は、商品価値の形成における資本家の役割に応じた

 ものと考えれば、資本主義社会が高度化し、労働者の権利意識が高まったから

 といって、資本主義社会が根底から覆されるのが必然だとは言えまい。

 

4 では、資本家は労働者を搾取していないのだろうか。

  マルクスの『資本論』の対象となった19世紀半ばのイギリス資本主義社会にあ

 っては、子供が劣悪な労働環境のもと安価な賃金で1日19時間も働かされるこ

 とも、珍しくなかった様である。

  『搾取』を劣悪な労働条件(低賃金・長時間労働・不健康な労働環境)で労働者

 を酷使することと解すれば、上記の事態は明らかに資本家が労働者を『搾取』し

 ていたと言えよう。

  そこで、『搾取』の無い社会を目指し、労働者の労働条件改善の運動が展開さ

 れてきた。

  まず、労働者の賃金は、労働者の労働力の肉体的・精神的再生産費として、

 労働者が健康で文化的な生活を維持するに足りるものでなければなるまい。次に、

 労働時間は、労働者の健康で文化的な生活の持続を可能にする範囲内でなけれ

 ばならず、更に、労働環境は、労働者の健康を損なわないものでなければなるま

 い。

   しかし、資本主義社会にあって生産手段を持たない労働者は、資本家に雇われ

  て働かなければ生きていけないという弱い立場にあり、労働者と資本家の雇用契

  約は、低賃金・長時間労働・劣悪な労働環境といった労働者に不利な労働条件の

  内容になりがちである。

  そこで、労働者は団結して労働組合を結成し、資本家と対等な立場で、賃金の

 引き上げ・労働時間の短縮・良好な労働環境など労働条件改善の交渉に臨むよ

 うになり、やがて労働者保護立法としてその法制化を目指すようになった。

  更にその拡充として、失業者・病人・高齢者・子供等を保護すべく、所得再分配

 を内包する社会保障制度の充実も期されてきた。

  その結果、マルクスの死後140年を経過した今日、日本の資本主義社会は、

 『搾取』のない社会にだいぶ近づいたと言えるのではないかと考えるが、ソ連を

 初めとする社会主義社会の崩壊を契機に、非正規労働者の増大による格差社

 会の深刻化など、逆行する傾向を生じている。

 

  そうした中で、マルクスの資本論が再び脚光を浴びているが、マルクスのよう

 に生産手段の私的所有を否定することが、『搾取』のない理想社会に近づくこと

 になるとは必ずしもいえまい。そのことは、ソ連など革命により土地や工場・機

 械など生産手段を公有化した社会主義国家が、共産党幹部を中心とする経済

 的特権階級と、自由のない停滞した社会を現出したという歴史的事実を見れば

 明らかであろう(生産手段を国有化すれば、その使用・収益・処分は、公平・公

 正の要請により、法律・規則・先例に基づいて担当官僚が決することになるが、

 個人の創意は活かされにくく、また汚職を生みやすい)。

  最近、労働者自身が資本を出資する労働者協同組合が注目されているが、

 組合員の合意形成の迅速性等につき問題点が指摘されている。

 

  結局、今日『搾取』のない社会を目指すには、一方、生産手段の私的所有を

 認め、個人のリスキーな経済活動の自由を認めた上で、公有企業や労働者

 協同組合の特性を活かすべくこれを部分的に採り入れ、他方、労働者のつな

 がりを強化しつつ、国家による労働者保護政策・社会保障制度の更なる充実

 を期していくのが最善と考える。

  そして心構えとして、人間の根源的な価値の平等をふまえた、資本家の労

 働者に対する同じ人間としてのリスペクト、労働者の資本家に対する同じ人

 間としてのリスペクトが不可欠であろう。 

 

5 ところで、生産力、即ち物質的生産諸力は、特に近代において産業革命が

 波及して以降、化石燃料の利用等により飛躍的な発展を遂げ、人々に物質

 的豊かさをもたらしてきた。

  この「生産力の発展」は、マルクスの経済論の基底を成すものと考えるが、

 近年、地球環境問題など、「生産力の発展」が人類の存続すらも危機に陥れ

 るおそれのあることが指摘され、しかもその危機が現実味を帯びてきた。

  思うにこの「生産力の発展」は、人類の存続・繁栄に資するものであることが

 暗黙の前提になっていたと言えるのではないだろうか。

  ところが今日、その暗黙の前提が崩れつつある以上、「生産力の発展」をそ

 のまま経済論の基底とすることは出来ないと考える。「生産力の発展」より一

 段深いところに、暗黙の前提であった「人類の存続・繁栄に資すること」を経済

 論の新たな基底として据えるべきである。そしてそこから、例えば人類存続の

 基礎をなす地球環境を損なうことのないよう生産の目的物・方法や生産量等

 に再検討を加え、自国の環境改善に積極的に取り組むと同時に、地球全体の

 環境問題の現状や環境改善の具体的取組み等を世界中の人々に知らしめ、

 環境改善取組みの輪を地球規模に広げていくことが必要と考える。