以前は我が子に、
できることがたくさんある、って
知って欲しくて、
色々アプローチしてた。
その中に、ピアノもあった。
その中に、公文もあった。
小学校に行ったら、「これはできる」って
自信を持てるものを持ってて欲しくて。
「この子のために」。
それが目標だったから、
ピアノにはつきものの発表会などには、
本人も希望しなかったこともあり、
全く出ていなかった。
そして今小6の子どもは、
高学年になるにつれ、イヤイヤ度が増し、
ほんとに練習や宿題をしないようになった。
今年の春、「最後に経験として、発表会に出て欲しい。それでもう、やめてもいいから。」と頼んだ。
うまく弾こうとか、そういうのは関係ない、と。
そして発表会が迫ってきたある日、
先生から連絡が入った。
「出来上がって来ていたのに、崩れ始めました」
「せっかく出るのに、失敗させたくないんです」と。
本人は「経験」するだけだから、どうでもいいんでしょ、という顔をしている。
あの子じゃない、原因は私だ。
たくさん求めていたのだ。
「経験」と言い換えた「成功」を。
自分ができなかった「成功」を。
私は、子どもが練習している曲を聴きながら、
つっかえたり、音を間違えたりしているその音を聴きながら、ぽろぽろ涙が出てきた。
今まで、
私が求める出来栄えを、
一生懸命追いかけていてくれたんだ。
ピアノも公文も、
「この子のために」って思ってたけど、
そうじゃない。
私のためだった。
私が自分の劣等感や罪悪感を埋めるために
していたことだと。
「ほんとに今までありがとう。
もう、十分だよ。よく頑張ってきたね」って、
弾き終わった子どもを抱きしめた。
子どもも一緒にしばらくの間、泣いた。
吹っ切って楽しもう!と、
ピアノの発表会は、それなりの服も買い、
靴も買い、ちょっとメイクもした。
そしてしっかりとステージで弾いてくれた。
とても、堂々としていた。
ドキドキして、手に汗をかいていた小心者は
私だけだった。
それから少し、子どもは変わった。
公文から塾にかわると言い出し、
自分でやることを決めるようになった。
やめると言っていたピアノは、
自分で弾きたい曲を探すようになった。
親が握りしめているものなんて、
ほんのちっぽけな
自分のプライドや価値観、
そして思い込みだ。
「この子のために」なんてものは、
そもそも親のエゴでしかないんだと、
改めて思う。
でも、それがあるから、
私は成長してるんだね、今も。
子どもを通して、
私も育っております