実は今から4年前にも一度、こどもを授かったことがありました。だけど心拍が確認できず、稽留流産でした。

それから2年が過ぎ、みうを妊娠。
妊娠がわかった時は本当に嬉しかった。あの時の子が帰ってきてくれたんやって。
だけど、心拍が確認できるまではすごく不安で、無事に心拍が確認できると、今度は当時35歳だったわたしは高齢出産というくくりに入り、また不安になった。

妊婦健診に気持ちを弾ませて行ったことなんて一度もなくて、なんかいっつも不安が付きまとっていたし、妊娠したことをまわりに誰ひとりとも話そうとしなかったのは何か予感してたのか。妊娠26週のときに「脳室が拡大している。」と突然言われて、心のどっかでやっぱり。とか思ったりもして。

「ごめんな。」て、旦那に何回謝ったっけ。

旦那は、いっつも横になってるわたしのお腹に向かって、毎日「パパ仕事行ってくるからね!ママのことよろしくね!」という。
仕事から帰ってきたら「今日はママと何してたん?」そして時々「心配しなくていいんやで、大丈夫やからね。」
わたしはお腹の中にいるみうに、そんな風に話しかけてあげることができひんかったな。

みうちゃんの病気は個性やで。という旦那はあの頃自分にも言い聞かせてたんかなぁ。

紹介状をもって大学病院に行った。何人かの先生が囲んでエコーを診ていると、その中にいた男の先生が「この手の論文、書いたことあるわー。」と、わたしのとなりで呑気に話し出す。あげく「今の段階では状況がはっきりわからないので説明ができない、生まれてきてからでないと。」と言われるし、
看護師からは淡々と分娩の予約や母親教室なんかの説明をされた後「どうされますか?」
「は?どうされますか?どうされますかってどういうこと?わたし、この状況でもとの病院に戻って赤ちゃん産めるん?」
この病院には不快感しか持てなかった。

バースプランとか、母親教室。
あの時のわたしにはただ辛いだけやったな。

妊婦健診、なんで脊髄髄膜瘤のことが最後までわからんかったんやろう?少なくとも可能性として考えてなかったんやろうか?
ここにはもっと精密な機械があるので。そう紹介受けたのに、ここに通ってきたそれまで一体何やったんやろう?
不思議で仕方がなかった。

だからあの時の茶色の出血は後から思うと、みうからのサインやったんかなって思う。
もしかしたら、あのまま普通分娩で出産していたらみうは危なかったかもしれない。

いきなり入院になって、次の日朝からいろいろ検査して、何ひとつ気持ちの整理ができひんまま突然「府立に転院してもらいます。」と、救急車で運ばれた。
NICUの空きがないだとか、すぐに対応できる先生がいないだとか言うてはったかな?もうそこははっきり覚えてへんけど。

出産目前に脊髄髄膜瘤と告げられ、合併する症状を聞かされた旦那はさすがに目に涙を浮かべてた。その涙をわたしの前で流さんように必死でこらえてたのは知ってたよ。

府立医大に転院したその日の夜、先生の話を聞きにかけつけてくれた旦那のご両親。

「いっしょに育てていこな。」

その言葉に、ずっとひとりで荷物を背負ってたことに気付いて涙がとまりませんでした。

みうが生まれてからどうなるのかわからない先の見えない生活、生まれてきたら手術とか入院とか、その他のことで金銭面はどうなるかな。そんなことも誰にも言えんかったな。

みうの病気のこと、あの頃は誰にも知られたくなかった。

目に見えない不確かなものって誰もが不安になるものだと思います。
じゃ、今は何も不安はないのかって、そんなことはないけど、少なくともあの頃よりこの子と一緒にいろんなことを乗りこえていこうと思える。
たくさんの方々に、時には助けを借りて。


ここまで長くなってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。

心配しなくて大丈夫ですよ。
1年後のあなたはいろんな方に支えられて、愛しい我が子と笑えていますよニコ