今日、近所のスーパーに買い物に行ったところ、トイレットペーパーとティッシュペーパーの棚が完全に空っぽでした。
生理用品やおむつの棚も、辛うじて残っているものの、ほとんど空っぽ。
あーあ…と思いながら帰宅したのち、幡野さんのこの連続ツイートを読んでいて、その後で首相の会見を観て、…新型コロナの脅威が世界を覆い始めた頃から、ずーっと私の心の中で可視化されはじめ、モヤモヤしていたものを、ようやく、言語化することができました。
幡野 広志@hatanohiroshiトイレットペーパーがなくなるということが、デマであるとすぐにネットやテレビで拡散されて、店頭でポスターにも書かれているのになんで慌てて買っているんだろ。情報が正しいとか間違ってるとかそんなことはどうでもよくて、なにかをしたことで不安を解消したいんだろうな。
2020年02月29日 12:02
安心とは、娯楽である。
本当は、私たちが一番求めているのは、「安全」であるはずです。
でも、完全なる「安全」は決して手に入れることができません。安全を阻害する危険を取り除いても、その先には必ず、別の危険があるからです。
だから、私たちはしばしば、意識的にせよ無意識にせよ、完全なる「安心」を求めようとする。「完全なる安心」を目指して、何かをしようとする。
何か良くないことが起こっているとき、「安全」のためと称して、何か特別なことをしなければならない、と、つい考えてしまう。「安心」するために。
これって、がん治療と称したエセ医療に走ってしまう人の心理にも通じます。
…と、さも他人事のように書いてしまいましたが、これは私自身を省みても、程度の差はあれど、このような心理状態に陥っていたことは、過去に何度もあったように思います。がん疑惑~確定診断~化学療法中は特にそうでした。ひょっとして、今もそうなのかもしれません。
私たちは、人生のあらゆる局面で、社会の中のあらゆる場面で「何かをしなければならない」という圧力を受け続けます。何かをするための訓練を受け続け、義務を持ち続けます。
でも、「何もしない」方法は誰も教えてくれません。
これは西洋人的なのんびりと過ごすバカンスとは全く違います。あれはのんびりと有意義に過ごすという無言の圧がありますから。そうではなく本当になんの義務も負わない、特別な努力をしてもしなくても構わない、気負っても気負わなくてもよい時間を過ごす方法は、どうやって学べば良いのだろうか。
「何かをしなければならないんだ!」と思い込んでいる人に、「あなたはいま、何もしなくていいのだ」と、わかってもらうには、どうしたら良いのだろうか。
「何かをしなければならないんだ!」と思い込んでしまった自分自身に、「わたしはいま、何もしなくていいんだ」と、自分の中で「わかってもらう」ためには、どうしたら良いのだろうか。
不安と戦うのではなく、受け入れるには、どうしたら良いのだろうか?