今回の記事は、大野くんを好きになる前の私が
L'Arc~en~Cielを通しての経験を書いています。



かなり前に、
ここで「L'Arc~en~CielのWOWOW放送久々に見たい❗️」と叫んでいたら、お友達が送ってくれた。
忘れていたが、彼らはいつの間にか25周年を過ぎて、来年は30周年を迎えるという。
何度も解散の危機を迎えた彼らは、ハッキリと来年も応援してください。
と、言い切った。
私が最後に見たコンサートは、20周年の国立だった。
吹奏楽やチアリーダーたちに、先導されながら、オープンカーに乗って華々しい登場に、ジャニーズ野球大会を思い出して、ちょっと笑えた。
HYDEが歌うL'Arc~en~Cielの世界が、素敵過ぎて、もう一生この人を越える人は出てこない❗️と思ったのに、その3年後あっさりと嵐の大野くんに塗り替えられた。。

もちろん、大野智のダンスに惹かれたのだけど、それ以前にもう、ラルクの曲に着いていけなくなった自分がいた。
2006年頃から、米国だけでなく、アジアやヨーロッパも視野に入れ活動した。。
当時の彼らは、30代半ばである。
それでも勢いに乗った彼らは、世界を相手に夢中だった。

L'Arc~en~Cielと言えば、ケンちゃんがつま弾くギターは音色が特徴
パンツ一丁で作るアナログな曲が好きだった。
それに、歌詞を載せるのがリーダー。
初期の頃の彼の出で立ちは、まるでメーテルそのものだった。
しかし、外見に反して彼はジャニーズが大好き
とうとう、我慢が出来ずに
1995~1996年には、TOKIOのLove you onlyをカバーするだけのバンド「KIOTO」を作り出し、城島茂公認のもと、自らvocalを担当した。
全員が、楽器をできるので、
ドラムやベースも入れ換えて、名前もDark~en~Cielとか、Punk~en~Ciel等、面白い試みをしては、自分たちもファンも楽しんでいた。
私がはまったのは、まさにこのお遊びラルクの時期である。

しかし、先に言ったように、パソコンを支配するメンバーがシンセサイザーで作る曲が英語ばかりで、GLAYを越えられないと言われたL'Arc~en~Cielは、2004年米国から招待される。
チケットはFCで売るけれど、米国会場までは、勝手に来い❗️のようなぞんざいな扱い。

活動休止のインタビューも、日本のインタビューと答えが違う今の嵐を見ていると、
何だか当時のラルクと重なる

何度新曲を配信されようと
あの頃の私には戻れない
どうも、日本のファンよりも世界に認められたいという、思いしか伝わらない。
正直、嵐は日本では売れていても、世界では無名のアーチスト。
もし、世界を相手にするならば、実力のある人を大切にしなければならない。
世界は、実力で戦っている。

ラルクが渋滞に巻き込まれ、米国会場に遅れそうになったとき、パトカーが来て
「vocalは誰だ?」と聞いた
パトカーは「兎に角、vocalだけでも送らなければ、コンサートにならないだろう。」とHYDEだけパトカーで会場まで送られた。
そんな経緯があるほど、vocalは大切な存在なのだ。
しかし、彼らはこれまでに、何度も活動休止を繰り返しながら、活動を再開してからは、日本を基盤とした。


そんな彼らに思いを馳せながら、どうせ、知らない曲ばかりだろう。と期待半分にDVDを見ると、デビュー当時の曲が満載だった。
嵐で一番好きな曲が「Truth」だけど
Lラルクの一番好きな曲も「Lies and truth」というのも、運命を感じてしまう。
メーテルだったリーダーは、時を経て爽やかなキムタクのようになっていた。
会場には無数のラルクの風船が飛び交う。
銀テープにL'Arc~en~Cielの文字を入れたのも、ラルクが先
嵐のコンサート「One」のガラスの地球儀ステージは、L'Arc~en~Cielが依頼したものを使った。そして二つのグループには「WISH」という曲もある。

暫く聞いたことがない、大好きな曲が次々と歌われていく。
会場に降りてファンサービス
「僕らは、長年ずっと一緒に応援してくれた(ファンの)皆さんに感謝しています。これからも、皆さんにに寄り添って30周年を迎えたい」みたいなことを言ってました。

同じことを、翌日のWOWOW「X」で、YOSHIKIも言っていた。
そして、「X JAPAN」と言いそうになって、初期の「X」と言い直す
大喧嘩して別れたToshIとも、仲良く笑顔を交わしていた。

彼らはあの頃の曲を歌うことで、、初心に戻って日本のファンの希望に、もう一度耳を傾けることが出来る。
だけど、今年が最後の嵐は、デジタル配信の英語の曲で締めくくるのか?
嵐の足跡を辿るコンサートは、お目にかかれそうもない。
彼らが、海外に向けて必死になればなるほど、日本のファンは、潮が引くように引いていく。
それは、ロックバンドよりずっと早いテンポで。

何度も何度も書いてきたこと
「ファンには、迎合しないけど、(ファンの)声を聞くことは出来る。」
ソロコンをもう一度やって欲しい。
それ以前にコロナの影響で、何も出来ない現実のなかで
事務所から、新作の依頼があったという。
一人だけ、嵐の休止の原因とされ、まるで戦犯のような批難にも耐え、自分の作品を生み出し、それを事務所に差し出すことで、リーダーとしての嵐の活動を立派に努めている。
テレビに出演するだけが、仕事ではない。
「休みがちな体質」と言われながらも、絵を描く作業を進めていたんだ。

彼に新作を依頼をした4月と言えば、国立コンサートが中止になる。ならないで、事務所が苦悩した時期である。

デビューの時、「10年20年と続けていく。」
とは言ったけれど、その先の30年に向かうことなど、誰も約束していない。
そんな先の事まで、考えていなかった。
と言った方が合っている。


ずっと
その突然の休止会見から、ファンのことを気にかけてくれたと思う。
3回目の個展は、色々なメッセージが込められていて、意味のあるもの。
確かに、ソロコンが希望
彼の歌やダンスを見たいのはあたりまえだけど、奈良さんの言葉を借りるなら、
「芸術は作者が亡くなっても、作品は残る。」そして、
その作品たちは、私たちやずっと後の時代も、見る人たちによって、生かされていく。
私たちは作品を通して彼を知ることができる。

京都では「気持ちが悪い」と、敬遠された彼の作品たちは、時代に合ってなかったのかも知れない。
彼の作品には、嵐より長い未来がある。
せっかくいただいた、彼の大切な作品を、軽んじて紛失したり人にあげたりしたメンバーは、後悔するに決まっている。

大野くんの作品が、CDのジャケットを飾ること
美術学校出身のHYDEも、いつかラルクのジャケットを自分の絵で飾りたい。と言っていた。
ジャケットになった作品は、立派な掛け軸風になっていた。
とても素敵な作品だった。
彼の未来も、こんな明るい絵の具で描かれたら素敵だろうな。