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安易な単純化というのはなぜしてしまうのか。

それは私が思う主な要因としては、大半を理解した気になれる、つまり賢くなった様な錯覚を得れるからである。


物事の全体を縮小させたり、理解できない範囲を排除してしまえば大半になるのは当たり前である。

人間関係にも言える事だが、自身を否定する者を排除し、肯定してくれる人間だけに揃えれば常に自身が正しいと錯覚できる。


さて、今回は『①安易な一般化、先入観』についてである。


本来、全ての物事を毎回、労を惜しまず仕分けていれば一般化や先入観を必要としない。

その労を端折り、効率化する為に一般化や先入観が用いられるのである。


それらが濫用されれば時に差別や偏見となる。


少し広げて例えてみよう。

裁判において詳細を調べ聴き取り、量刑を行うのも個別に仕分ける為である。

この過程を経ずに処断すれば、それはやはり「一般化、先入観」といった性質の暴走と言えよう。

これは匿名性の中で起こりやすく、SNS等で個人、もしくは声の大きい集団が独善的に処断するのをよく目にする。

いわゆる「炎上」である。

炎上の意義、無意義については議論の余地があるが、これも一つの単純化とも言える。


匿名性の中では無責任ゆえに独断や偏見が横行しやすいが、昨今はその性質に気付き、それを危惧している人達も多い。

そして、その人達が常に警鐘を鳴らしてくれているので助かっているのだろう。


先にも書いたが、一般化や先入観というのは、労を厭わなければ必要としない。

労を惜しんだ結果、それを用いてるのである。

私の持論ではあるが、ならばそこに多少の「後ろめたさ」位は持つべきであろう。


例えば罪を犯し償った者を、自己防衛の為に避けるのは正当性があるものの、多少の後ろめたさは持つべきで「何か事情があるのかもしれない」といった想像の余地は残しておくべきである。

避けるだけならまだしも、処断するのならばより慎重さと、その者に対する理解が必要となるだろう。

それを怠るのはやはり行き過ぎた単純化である。


次回は②について考えてみよう。