2003年02月06日(木)

 

 昨日は北習志野で4時間を過ごす・・・

話術が凄いのか、知識の豊富さか、人間としての幅か、はたまた聞く側である自分の単純さのなせる業か、立て板の如き、自然に機知に充ちた言葉が続き決して長さを感じない、正直に気持ちの良い時間を過ごせた。

 

  「気付き」の心、真理は一つ、、内面の認識、どれもウムムと考えさせられる話であった。確かに日頃の何気ない生活の中で、見落としているものは数え切れない。

 

  朝起きた時から夜寝るまでの間の数知れぬ物音、手に触れるもの、足で感じるもの、肌で感じるもの、臭うもの、舌で味わうもの、すべてを無意識のうちに、当たり前のようにやり過ごしている。

 

  どの場面でも必要なのに、無いとおかしい筈なのに、あることを勝手に自然だと思い込んでやり過ごしている。

宗教が何たるかの問題ではなくて、とにかく行き着くところの真理は一つであるということ。

 

  信じようが信じるまいが、そんなことは過程の問題であって、どう遠回りしようと近道で行こうと行き着くところは同じであるということ。

 

  求めて生きているのではなく、必然なのだから・・・上手くまとまらないが、こうして考えるということも何かの必然であるということかもしれぬ。

 

  真偽の問題、白か黒かというものとも違う・・・真偽で考えるなら、まぁ大半が「偽」であろうけど・・四時間に亘って聴いたことをサクッとまとめることができる程自分の頭は冴え渡ってはいない・・・

 

  しかし、いつぞや・・・と言ってもかなり昔になるが、機構出向時代、中野坂上の機構本社に出向き、決算か何かの説明を受けた時、元々面白かろう筈もない内容の話にも拘らず、聞き耳を立てざるを得ない程話にのめり込ませられたことがあった。

  まさしく話術の妙ということだったのだろう。

                                                                                         (船橋ドトール)
(隔世の感ある船橋駅前)