サロイヤン「人間喜劇」(小島信夫訳、晶文社 1977年、手元にあるのは1982年10刷。下の写真。もとは研究社1957年刊))の第18章、19章を読んだ。

 数年前に、「ライ麦畑で捕まえて」(野崎孝訳、白水社)以前のサリンジャーの初期短編にはまっていた頃、「サリンジャー選集(2) 若者たち」(刈田元司訳、荒地出版社)に収録された短編を読んでいるうちに、「これは大学時代の英語の授業で読んだサロイヤンだな!」と感じたことがあった。

 その短編は、「他人行儀」(原題は “The Stranger”)である(※豆豆先生の読書室「最後の休暇の最後の日」2021年11月16日付で紹介した。「よそ者」「一面識もない男」と訳す翻訳もある)。

 戦地から戻った主人公が、戦友の戦死を彼の元彼女に伝えに行く話だった。元彼氏の戦死を知らされる彼女と主人公は面識がなかったようなので “The stranger”は「一面識もない男」だが、戦死の伝え方がぎこちなくよそよそしい感じなので「他人行儀」と訳されたのだろう。“stand(act) like stranger” には「よそよそしく振舞う」という意味があるらしい。

 

 サリンジャー「他人行儀」を読んで、「これはサロイヤンだ!」と思ったのだが、実はサロイヤンの作品をまとまって読んだことはない。ただ大学 1年の時の英語の授業でテキストに指定された 1つがサロイヤンで、その 1作だけはなぜか大学で受けた授業の中でも鮮明な印象が今日まで残っている(※フランス語の訳読の授業で読んだメリメ「マテオ・ファルコネ」、ドーデ「星」も忘れられない)。

 第 2次大戦中のアメリカの片田舎で郵便配達のアルバイトをしている少年が、出征中の息子の戦死を伝える手紙を母親のもとに届けに行くという話だった。その手紙を届けるときの配達少年の気の重さが印象に残った。

 昨日ほかの本を探していたら、偶然このサロイヤンの小島訳「人間喜劇」を見つけた。近くから原書も出てきた。

 大学の授業で使ったテキストはサロイヤン作品を集めた抄録版だったが、今では手元にない。きのう出てきた William Saroyan “The  Human Comedy”(Dell Pub.,1943. 手元にあるのは1966年版、なんと定価は60セント! 冒頭の写真)を見ると、この短編集に収められた第19話 “Alan” がぼくの記憶にあるストーリーの内容だった。ただし第18話 “The Telegram”を読んでいないと第19話の意味は通じないから、授業では少なくとも第18話と19話は読んだのだと思う。

 

 

 

 改めて読むと、少年(ホーマー)が配達のアルバイトをしていたのは(実はアルバイトではなく正規の配達員だった!)電報局で、届けたのは戦死を知らせる電報だった。しかも折り悪しく戦死した兵隊の母親の誕生パーティーが開かれている場に届けに行くのだった。原書の章題 “Alan” は戦死した兵士の名前だが、小島訳では「愛するお母様に」となっている。戦地のアランがふるさとの母親に送った手紙の書き出しの言葉である。サロイヤンでは、この電報の渡し方は詳しく書かれていない。ただ、電報を受け取った母親が部屋の隅に行ってすすり泣き、娘が母親の肩に手をかけるだけである。

 「人間喜劇」の舞台のカリフォルニア州イサカ(Ithaca)というのは架空の町だそうだが(先住民由来の如何にもありそうな地名だが)、裏表紙のキャッチ・コピーには “Ithaca, California East, West ー Home is Best  Welcom Stranger” と書いてある。イサカが架空の町なら、すべての読者は “stranger” だろう。こんなところで “stranger” (サリンジャー「他人行儀」)との暗合を指摘するのは強引だろうか。

 巻末の解説で小島は、「最小の単位の町でありながら、死の訪れ方のはげしさ。・・・この小説は俄然、ある町の話ではなく、人生そのものの物語に転化されてしまう。永遠の話になる」と書いて解説を結んでいる。

 この本をテキストに指定して、こんな印象的なストーリーを数十年間ぼくの心に残してくれた英語の先生に感謝しなければなるまい。サリンジャー「他人行儀」を読んで、サロイヤン「人間喜劇」のこのエピソードを思い出した自分自身もほめておこう。

 

 ただ、今回翻訳書と原書が出てきたことで、また一つの謎が生じてしまった。

 ぼくは1969年(昭和44年)に大学に入学して、英語の授業でサロイヤンと出会ったと思っていたのだが、今回出てきた原書(Dell Books)の表紙扉には “March the 22nd 1967” と読み出した日付が書いてあったのである。1967年3月といえばぼくはまだ高校 2年生である。高校 2年のぼくはどうして洋書のサロイヤンなどを買ったのだろう。

 読んだ形跡があったのは最初の数章だけで(実は第2章まで)、第18、19章のはるか手前で挫折したようである。

 ぼくのサロイヤンの記憶は間違いなく第18章、第19章のエピソードだから、大学の授業で読んだことも(ちょっと自信がなくなくなってきたが、おそらく)間違いない。ということは、高校 2年のときに、誰かぼくにサロイヤンを薦めた先生か友人がいたのではないかと思うが、一体それは誰だったのか?

 久しぶりに読んでみると、深刻な話題も感傷を抑えた簡潔な文章で書かれていて、なかなか好い。76歳になった今度こそ最後まで読んでみようと思った。

 

 この原書にはサロイヤンの死を報じた死亡記事の切抜きが挟んであった。朝日新聞1981年 5月19日夕刊で、「カリフォルニア州フレスノで死去。72歳。アルメニア系移民の子で、米国のアルメニア人の生活をユーモアと感傷を織りまぜて表現した作家…」と紹介してある。ピューリツァー賞を受賞した際には芸術は金銭とは無縁だとして賞金を受け取ることを拒否したともある。芥川賞、直木賞やノーベル文学賞の受賞者で賞金を拒否した作家はいるのだろうか。山本周五郎のように直木賞自体を拒否した作家はいるが。ぼくなら受け取ってしまうだろう。

 

 2026年8月30日 記

 

 

 

 岸田衿子・今日子「ふたりの山小屋だより」(文春文庫)の中で、彼女たちが毎年の夏を過ごした北軽井沢の法政大学村の所在地を「北軽井沢」ではなく、「六里ヶ原」と表記していることに違和感を感じた。

 ぼくにとって「六里ヶ原」は、峰の茶屋から鬼押出し園に向かう有料道路の途中にあるドライブインのあたりの名称で(六里ヶ原休憩所というらしい。昨年通った時は閉鎖されていた)、北軽井沢とはまったく異なる地域というイメージがあった。でも長年同地に馴染んできた岸田姉妹が「六里ヶ原」というのだから、法政大学村は「六里ヶ原」にあった(ある)のだろう、「六里」というのだから法政大学村も六里ヶ原休憩所から六里(=約24㎞)の範囲内にあるのだろう、と納得することにした。

 

 さて、この夏軽井沢で古いパンフレットや地図類を整理していたら、「北軽おでかけMap」というハイキング案内の手書きのガイドマップが見つかった(ルオムの森製作、2012年)。「無断複製を禁じます」とあるので原物は載せられないから、このマップで知ることができた北軽井沢の名所や施設の位置関係を文字で紹介する。

 このマップは、峰の茶屋を南端にして、西側の浅間山、その裾野を北に向かう鬼押出しハイウエーに沿った六里ヶ原休憩所、その北東方向に浅間牧場(見晴台には「カルメン絶景」とある)、さらにその北方向に北軽井沢交差点、その少し東方に北軽井沢駅舎(跡だろう)がある。

 駅舎の向かいには「地蔵川温泉」という、岸田姉妹の本で知った「地蔵川」という地名も見られる。岸田の本によれば草軽電車の「北軽井沢」という駅名は野上彌生子の提案で、それまでは「地蔵川」だった。駅舎からさらに東に行ったところに「大学村」があり、その向かいに照月湖がある。

 駅から岸田たちの山小屋までは徒歩で2、30分かかったと書いてあったが、確かに少し距離がありそうである。この山小屋の所在地を岸田は「六所が原」と書いていたために、「六所ケ原」は鬼押出しハイウェイ沿いの休憩所しか知らなかったぼくの悩みが始まったのだった。「六所ケ原休憩所」と「法政大学村」との位置関係は納得できたが、法政大学村が「六所ケ原」にあるというのは、このマップでも確認することはできなかった。

 

 AI に「六里ヶ原とはどの範囲を指しますか?」と聞くと、「六里ヶ原」は群馬県西部、浅間山の北斜面、・・・群馬県吾妻郡嬬恋村から長野原町にまたがる広大な裾野一帯を指します」と答えが返ってきた。

 これくらいのファジーな定義なら、「北軽おでかけ Map」に出てくる一帯すべてを「六所ケ原」と呼んでもおかしくないが、できれば「広大」さと「六里」との関係などもっと詳しく知りたいところである。

 

 

 

 そこで、念のために「ぼくの軽井沢」(ないし「昔日の軽井沢」、「軽井沢の幻像」)のバイブルである「軽井沢 その周辺」(三笠書房、1964年)をめくってみた(冒頭の写真)。すると「浅間高原コース」という北軽井沢のガイドマップが載っているのを見つけた(93頁)。このマップは、まさに浅間山の北斜面側に「六所ケ原」と大きく書いてあって、その右下(南東側)にやや小さい文字で照月湖、法政大学村、北軽井沢とあるのが見える。これなら「法政大学村」が「六所ケ原」の一部であることは納得できる。

 ところがこのマップには、鬼押出しハイウェイや「六所ケ原休憩所」は書いてない。本書が刊行された1964年当時はハイウェイも休憩所もなかったのだから当然だが。現在の「六所ケ原休憩所」のあたりは、浅間山の北斜面というよりはかなり東側、真東といってもよいくらいの位置である。今度は休憩所が六所ケ原の一部なのかが疑問になるが、数年前まであった休憩所を地元の人が「六所ケ原休憩所」と命名したのだから、あの辺りも六所ケ原の一部なのだろう。

 休憩所の少し北側にある浅間牧場も六所ケ原である。浅間牧場には1960年代に何度か行ったことがあった。三笠書房版「軽井沢 その周辺」のマップでは、休憩所の辺りを通る道路の東側は「黒褐色の火山地帯」、西側は「カラマツ帯」となっていて、その先には「荒野の悪路」などという道路もある。わが家ではそんな地域にまでスバル360で出かけて行ったのだろうか。

 

 ぼくの「六所が原物語」はこの辺までで。

 

 2026年8月26日 記

 

 

 

 金井喜平次「ふるさとに学ぶ(金井喜平次論稿集)」(櫟(=いちい)、平成27年)を読んだ。今回も野上彌生子「鬼女山房記」のときと同様、表題に興味をもったものだけを読んだ。

 著者の金井さんとはどういう機縁で知り合ったのか記憶にないが、わが家を建てた大工さんが金井さんの親族だったように聞き及んでいたところ、本書の口絵写真でその大工さんが金井さんの奥さんと姉弟(兄妹だったかも)だったことを確認できた。おそらくそのご縁だったのではないか。金井さんが夏の間だけ追分の持ち家を貸別荘にしていて、亡妹が何年間かその貸別荘を借りていたこともあった。この本もその縁で妹が献呈を受けたのだと思う。

 

 金井さんは追分在住の郷土史家で、追分育ちのいわゆる「古老」の一人かと思っていたが、本書に付せられた著者経歴によると彼は昭和 5年東京本所向島の生まれで、昭和19年に長野県の埴科郡に疎開し、戦後の昭和37年になって(奥様の出身地西長倉に近い)追分に移住したようである。ぼくの家族が軽井沢に初めて行ったのが昭和31年夏だから、われわれのほうが少し先にこの地と縁ができていたようだ。

 その金井さんが地元の郷土史学会メンバーとして執筆した信濃追分を中心とする郷土史に関する論稿を集めたのが本書である。

 興味のあるものだけを斜め読みして済ませようと思ったが、結果的にかなりの分量を読むことになった。申し訳ないことだが、金井さんが一番精魂を傾けたと思われる追分諏訪神社の「大般若経」のことや、熊野皇大神社の「太太神楽」などは読み飛ばした。

 

 全体として印象的なことは、「軽井沢」への言及が少なかったことである。東長倉(現在の軽井沢)新田開発の雨宮敬次郎、アレクサンダー・ショー宣教師による避暑地としての軽井沢の発見、堤康次郎による千ヶ滝開発などについて書かれた文章もあったが、郷土史家としては、「沓掛」「古宿」「借宿」「追分」といった地名の来歴やそれらの地にまつわるエピソードのほうが重要だったようだ。昭和37年の追分移住だから、当然ながら堀辰雄や橋本福夫のことは出てこない。

 明治維新以降の中山道三宿(軽井沢、沓掛、追分)の衰退、信越線の開業による衰退の加速と新たな発展、追分の遊女たちの歴史(吉野太夫の作り話など)、草軽電鉄の苦難の歴史など、ぼくにもなじみの話題もあった。草軽電車が草津への湯治客や硫黄の輸送のために草津側から開業した話、軽井沢側の始発駅を軽井沢(新軽井沢)にするか沓掛(中軽井沢)にするかで意見が分かれ(当初は沓掛始発が有力だったらしい)、妥協案として新軽井沢始発の代わりに鶴溜に迂回する路線となったこと(当時の人は鶴溜から沓掛駅まで歩いた!)、マイカーの普及や国鉄長野原線の開業によって廃線に追い込まれたことなどを思い出した。

 かつては沓掛の街並みが信越線沓掛駅、現在の中軽井沢駅よりも南側にあったことなど、本書ではじめて知った。沓掛の街並みは当然駅舎の北側、現在かぎもとやや桐万薬局のある国道18号沿いにあったものと思っていた。当時の東山道は(現在の国道18号とは違って)東南(入山峠)から北西(追分)方向に向かって斜めに通っていたようだ。

 軽井沢も沓掛も追分も、かつての街並みから結構離れた場所に信越線の駅が作られている。ぼくが高校時代に学生村で滞在した岩村田も駅は市街地を外れた場所にあった。鉄道敷設当時は鉄道は周辺住民から嫌われる施設だったのだ。信越線は日露戦争の準備のための軍事目的で作られたと聞いているが、そのことには触れていなかった。

 

 特筆すべきは、金井さんがその後の軽井沢隆盛の礎として、浅間山(石尊山)の米軍演習場化反対運動およびその指導者であった田部井健次さんについて紹介していることである。

 石尊山演習場化反対運動については荒井輝允「軽井沢を青年が守った」(ウインかもがわ)に詳しいが、金井さんは反対運動の中心的存在だった田部井に焦点を当てて紹介する。早稲田大学教授で政治学者大山郁夫の弟子だった田部井は戦前には労農党の幹部を務め、戦後は総評の書記長を務めるなど政治経験が豊富だった。その後は政治活動から離れ画家として軽井沢に在住し千ヶ滝西区の区長を務めていた時に演習場計画が発覚して、田部井は反対運動の指導者にまつりあげられた。本書には彼の精悍そうな肖像写真が載っている(149頁)。田部井には「軽井沢を守った人々ーー浅間山米軍演習地反対運動の思い出」(軽井沢文化協会、1981年)という著書があるが、残念ながらぼくは持っていない。

 理論一辺倒の人ではなかったようで、米軍および日本の外務省が演習場化を断念した際には、反対運動に負けて断念したというのでは米軍の面子が立たないだろうからと、東大地震研究所の(基地によって振動の測定に影響が及ぶという)調査結果に従って演習場計画を断念したという表向きの口実を設けてやったという。

 その後昭和42年(1967年)に彼は軽井沢を去って葉山に移住したという。わが家が千ヶ滝に家を建てたのが1968年だから、残念ながら田部井さんとご近所だった時期はなかったようだ。当時の千ヶ滝西区には三岸節子、加藤大介や沢村貞子らが別荘を持っていると聞いたが、やがて皆さん軽井沢を去ったとも聞いた。

 

 田部井の丸善画廊での個展の発起人に名を連ねた人の中に、長谷川如是閑、武者小路実篤、川端康成、吉川英治らとともに「坂崎坦」(しずかと読むらしい)という名前が見られる。ネットで調べると美術史家のようである。私の亡父が毎夏軽井沢に滞在中に必ず訪ねた数少ない知人に旧軽井沢の神宮寺の宿坊(?)に滞在していた「さかざき」さんという方がいた。亡父はやまと絵(倭絵)にも関心があったし、坂崎さんと田部井の縁が軽井沢に由来するものならば、亡父が神宮寺に訪ねた「さかざき」さんがこの方でも不思議ではないだろう。昭和30~40年代に坂崎坦さんは神宮寺に滞在されたことがあっただろうか。

 その他、飯田事件に連座した桜井平吉が軽井沢(当時は東長倉村)の柳沢家の出身だったこと、星野温泉の星野嘉助(三代目)が岩村田の出身だったこと(当然星野温泉で生まれたものと思っていた)、など興味深く読ませてもらった。

 金井さんは本所の生まれだったが、東京大空襲によって役所の戸籍原簿が焼失したため、戦後になって自分が「無戸籍者」になっていることが判明し、戸籍の再編(就籍?)に苦労されたという。この無戸籍問題は中国残留孤児の帰国などに際しても問題になったが、同じ経験をした戦争被害者は少なくなかっただろう。金井さんは当時役所から送られてきた書類や役所あてに提出した書類の控えなどをすべて保存していて、本書にそのコピーが添付してある。

 

 今日では失われてしまった昔日の軽井沢の面影、懐かしい軽井沢の「肖像」(堀辰雄に言わせれば「幻像」=イマージュ)を思い出させてくれるエピソードに満ちた一書であった。

 

 2026年8月25日 記

 

 

 

 8月10日(月)、晴れ。この日この夏初めて浅間山が姿を現した。

 午前中、軽井沢バイパス沿いのツルハ(ドラッグストア)で買い物のあと、新幹線の高架下へ向かう道の真正面に浅間山を拝むことができた(上の写真)。空がもう少し青かったらもっと良かったのだが贅沢は言えない。

 中軽井沢駅すぐ西側、佐久農協販売所横の踏切で遮断機が下りていた。

 この日はしなの鉄道の踏切で 3回も信号待ちに引っかかった。1時間に 2本しか通らないはずなのだが。どうせなら六文銭電車か星空号(?)が通ってくれたらよかったが、普通のしなの鉄道の車両だった(下の写真)。

 

 

 

 どういう順番で移動したのか忘れてしまったが、写真のデータを見ると、踏切通過が12時15分、プリンス・ショッピングモールの芝生前の写真が13時05分となっているから。ツルハ、踏切、ショッピングモールと移動したようだ(下の写真)。正面の奥は離山。離山だけはいつもくっきりと姿を見せていた。その後ろにうっすらと姿が見えるのが石尊山。

 12日に軽井沢にやってくる孫たちを迎えるにあたって、当日の昼食をどこで取るか、どのくらい混んでいるかを事前にチェックするためにショッピングモールに下見に行ったのだった。小学1年生の孫はここの庭を「トンボ公園」と呼んでトンボ取りを楽しみにしている。ただしこの孫が一番たくさん捕まえることができたと語り草にしているのは、信濃追分駅北口前の直径 5メートルもない芝生のロータリーである。

 

 

 

 下の 2枚は翌日8月11日(火)の夕刻、散歩に出かけた借宿交差点のローソン駐車場前から撮った浅間山。石尊山はしっかりと全景を見せているが、浅間山の山頂には雲がかかっていた(下の写真)。

 ぼくは中学3年か高校1年の時に浅間山は頂上まで登ったが、石尊山は中学1、2年の頃に、中腹の赤滝だったか血の池だったかの低い方で断念した。旧中山道追分の浅間山登山道入口から歩きはじめたのだが、暑い日で石尊山の麓に到達するまでに 1時間以上かかったので、登り道になって程なくバテてしまい、赤滝(?)で引き返すことのなってしまった。「赤滝」とは名ばかりでちっとも赤くなっかった。

 

 

 

 同じ8月11日の夕刻、国道18号を挟んだ筋向い(下り側)のコンビニ、セブン・イレブンの駐車場から眺めた浅間山(下の写真)。もう少し日が傾くと雲が茜色に染まって「エデンの東」のサリナスの夕日を思い起こさせてくれるのだが・・・。

 

 

 

 8月12日~14日のことはまた改めて。

 

 2026年8月24日 記

 

 

 

 8月7日(金)から19日(水)まで、軽井沢に行ってきた。

 お盆前はまずまずの天候。われわれ夫婦は布団干しと洗濯に明け暮れる。

 孫たちがやってくるお盆期間中の天気予報は芳しくなかったが、実際には8月12日の深夜から明け方にかけては茨城県に上陸した台風の影響で激しい雨が降ったが、孫たちが到着した昼頃には雨も上がって曇り空になった。13日、14日も朝は曇っていたが、両日とも昼前から晴れて、この期間しか休みを取れない息子一家も青空のもとで思う存分遊ぶことができた。この話は日を改めて後ほど。

 

 8月7日、いつものように9時半ころに家を出発して、大泉インターから関越道にのり、上里で小休憩を経て藤岡から上信自動車道に入り(下の写真)、碓氷軽井沢インターで降りて、軽井沢に。

 前回 7月中旬に訪れたときほど気温は高くなかった。夏の青空に真っ白の入道雲が湧いていた(上の写真)。

 

 

 

 8月8日(土)は、お盆休みで混雑する前にツルヤに行って、BBQ用の肉、ハンバーグ、フランクフルト・ソーセージ、海老その他を買い込む。品薄になったり、お盆価格になる前に買いおいて冷凍しておく。

 天井の蛍光灯が 1本切れてしまったので、ヤマダ電機で買い替える。鳥井原東交差点は混雑しているので、散歩がてら歩いて行ったのだが、意外と交差点はそれほど混雑してなかった(下の写真)。

 

 

 

 その後、バイパス沿いのケーヨーD2 でBBQ用の木炭を購入。着火剤不要を謳い文句にしているが本当に点火できるだろうか?(結果的にできた)。

 ツルヤにはなかったBBQ用の大ぶりのマシュマロも購入。食料品売り場ではなく、BBQ用品売り場に置いてあった。

 

 

 

 そのケーヨーD2 から眺めた浅間山・・・と言いたいところだが、浅間山はこの日も雲に隠れて姿を見ることはできなかった。消防署の火の見やぐらの後方に浅間山、その左側に石尊山が見えるはずなのだが。

 

 2026年8月23日 記

 

  

 

 野上彌生子「随筆 鬼女山房記」(岩波書店、昭和39年)を斜め読みした。軽井沢の亡母の本箱に並んでいたもの。

 野上の小説は「真知子」しか読んだことがない。編集者時代に行きつけのバーのホステスさんが「真知子」という名前だった。アルバイトの女子大生ホステスで、労働運動をしていた父親が野上弥生子の「真知子」からとった名前だと言っていたので、興味をもって読んだのだった。

 しかし、その後雑誌などで見かけた野上の随筆は、「真知子」の著者とは思えない内容のものが多かった。息子の旧制中学か高校受験をめぐって教育ママぶりを発揮する姿だったり、夫豊一郎に学問的成果がないと嘆いたり、夫の語学力が息子より劣っていると不満をつづった随筆を読んだ記憶がある。どれもよい読後感は得られなかった。

 野上にはその程度の印象しかないのだが、手軽に読むことができる「軽井沢もの」として本書を手に取ってみた。

 師と仰ぐ(本来は夫豊一郎の師だが)夏目漱石の癇癪に関するもの、交流のあった芥川龍之介の死をめぐるもの、その他数編だけを読んだ。

 

 夏目は「神経衰弱が亢じると、著しく追跡症の傾向を示したことは紛れもない事実で・・・」(84頁)と書いている。永井荷風が「断腸亭日乗」で、漱石夫人夏目鏡子が「漱石の思い出」(ぼくが読んだのは角川文庫、昭和52年改版)のなかで漱石を「追従症」(「追従狂」だったかも)と書いたことを批判しているのを読んで以来気になっていたが、野上も夫人の側と同じように、漱石を聖人君子とは見ていない。

 「芥川さんに死を勧めた話」では、野上宅を訪れて心身の苦悩や生活苦を訴えた芥川龍之介に対して、野上は、生活苦は覚悟のはず、それが嫌だったら菊池寛のように勇敢にやるしかない、どうしてもお金が欲しいなら自殺すれば全集が売れて印税ががっぽり入る旨を提案したという(91頁)。その1年余の後に芥川は実際に自殺してしまった。野上と芥川がどのような関係だったかは知らないが、芥川にとって愉快な会話ではなかったのではないか。しかも掲載誌が「文芸春秋」(昭和6年3月号)とは。

 

 軽井沢で実体験した昭和36年10月7日の浅間山の大噴火のことも話題になっている。実際に見たのでなければ、浅間山を描いた画家たちもあの噴火の実相を描くことはできないだろうという(23頁)。前に書いたが、ぼくが実際に軽井沢で体験した浅間山の大噴火も昭和36年8月だったはずだが、同じ年に2回も大噴火があったのだろうか。

 「田邊先生の御講義」も軽井沢ものとして読んだ。北軽井沢の田邊元の山荘で、野上は哲学の個人講義を受けたという(93頁)。その「御講義」の内容は公刊されているのだろうか。ぼくの父は軽井沢から草軽電車に乗って北軽井沢に田邊を予約なしで訪ねたことがあったが、留守番(三浦一郎氏だったと亡父は言っていた)に門前払いされたと語っていた。日々の時間の使い方について 5分刻みのきわめて厳格な人だったというから、居留守をつかわれたのではないか。もし会ってくれていたら、野上相手の「御講義」よりは実りのある話ができたと思うが・・・。

 

 入江相政の「天皇さまの還暦」という本を昭和天皇の実生活を知ることができるとして褒めた一文があり(23、4頁)、皇太子ご成婚に関する随想では皇太子(現在の上皇)が一般人である正田美智子さんを選んだことを喜ぶ一文があった(182頁)。明治人の天皇観の一端を知ることができる。

 

 2026年8月20日 記

 

 

 

 川本三郎「陽だまりの昭和」(白水社、2025年)のつづき。同書に触発されたぼくの思い出話に近い。

 

 「下駄の鼻緒のすげかえ」には思い出がある(153頁)。

 中学生のころ、軽井沢千ヶ滝の文化村でのこと。夏の夕方、祖父愛用の下駄をつっかけて近所を従弟たちと散歩していた時、星野地区に向かう小径で下駄の鼻緒が切れてしまった。鼻緒を親指と人差指で挟んで引き擦りながら歩いていたところ、通り道に面した別荘から女子大生くらいのお嬢さん(当時はお姉さんに見えた)が出てきて、「サンダル貸してあげましょうか」と声をかけてくれた。ぼくは恥ずかしかったので「大丈夫です」と答えてしまった。結局叔父の別荘まで歩くことができず、西武百貨店千ヶ滝店に行ってサンダルを買うことにしたのだが、千ヶ滝店の店先でさっきの女性とばったり出会った。彼女は「やっぱりサンダル貸してあげればよかったわね」と笑った。ぼくは彼女に恋をした。

 小松さんという表札が立っていたと思うが、彼女が「小松」さんかどうかは分からない。ぼくより5、6歳くらい年上ではなかったか。昨年その道を通りかかったが、小松さんという表札の家はなかった。

 

 「風呂敷」は本好きの大学教授、作家の必需品とある(164頁)。亡父も風呂敷を愛用した。古本を買う時だけでなく、大学に行くときも風呂敷包みを抱えて行った。教室まで風呂敷だったと、亡父の講義を聞いた学生から聞いた。ぼくは1980年代から定年までリュックを背負いつづけた。

 「あずきアイス」なども登場する(168頁)。あの赤城乳業のあずきアイスだろうか。ぼくは数年前にコチコチに凍ったあずきアイスを前歯で齧って前歯を折ってしまった。少しでも見栄えをよくしたかったので自費診療にしたため、入れ歯に35万もかかった(泣)。

 「ラジオ番組」は川本が聞いた番組とはほとんどかぶらなかった(178頁)。ぼくは、NHKの夕方の「尋ね人の時間」、民放(TBSか?)の夕方の竹脇昌作DJの番組、NHK夕食時の「一丁目一番地」、高校野球では徳島商業板東英二と魚津商業村椿の投げ合い、柴田勲投手の法政二高の優勝などが記憶にある。中学以降は深夜放送、今はラジオ深夜便だが、最近の深夜便はマンネリであまり聞いていない。とくに午後11時から翌午前2時のトーク時間帯がつまらない。眠気を誘うのにちょうど良い番組になってしまった。

 「野球」の話題もかぶらなかった(183頁)。ぼくは野球漫画では寺田ヒロオの「背番号ゼロ物語」、テレビ番組では小柳徹の「ホームラン教室」が懐かしい。

 

 「夜店、縁日」(188頁)というと、ぼくは玉電山下と玉電松原の中間にあった六所(ろくしょ)神社のお祭りで見た映画「力道山物語」を思い出す。相撲取りだった力道山が二所ノ関部屋を逃げ出すシーンを覚えている(一緒に逃げたのは琴ケ浜だったか)。野外に垂れ下がった暗幕(スクリーン)が風に揺れていた。あたりが薄明かるくて、画面のコントラストも悪かった。

 ぼくの「デパート」(192頁)は渋谷の東横百貨店。向かい側の東急文化会館の壁面にプレスリーの「燃える平原児」の巨大な看板がかかっていたこと、ずっと後には「タワーリング・インフェルノ」の燃える高層ビルと消火のヘリコプターが飾られていたことなどが印象的。デパート屋上の思い出はとくにない。時おり昼食を食べた渋谷のジャーマン・ベーカリーは東急文化会館の中だったか。

 「紙芝居」の思い出もない(212頁)。米を持参すると圧搾機(?)でポップコーンのような豆粒にしてくれる「ばくだん」というのを売るおじいさんが家の近所に来たことがあった。圧縮の瞬間に爆音がするので「ばくだん」なのだろう。ぼくのそばにいた小さな男の子がそのおじいさんに向かって「お母さんが汚いから食べちゃダメって言った」と言ったことがあった。ぼくはおじいさんが気の毒になった。

 「川遊び」では「三太物語」の映画のことが出ていた(232頁)。ぼくはテレビ番組の「三太物語」は見た。ジュディ・オングががおてんば娘を演じていた。三太は市川好郎だったと思う。昨日NHKテレビの歌番組にジュディ・オングが出て「魅せられて」を歌っていた。彼女はぼくと同じ年だが、声の張り、伸びは年なりだった。

 小学生の頃に夏休みを過ごした母親の実家が仙台市花壇川前丁にあったので、家の真ん前の広瀬川に降りて遊んだが、泳げなかったので川には入らなかった。急カーブする琵琶首の手前で流れが急になっていて、溺死した子を祀るお地蔵さんが護岸の中腹に建っていた。

 川遊びは夏というが、ぼくは中学校の教科書に載っていた与謝野晶子の「絵日傘を彼方の岸の草に投げ わたる小川よ春の水ぬるき」と詠われた春の小川が好きだ。映画なら「帰らざる河」、歌では「イムジン河」あたりか。

  

 「修学旅行」では、壷井栄原作の映画「二十四の瞳」の修学旅行のこと、畔柳二美原作「姉妹」(あねいもうと)のことが出てきた。「姉妹」に映画があったとは知らなかった(218頁)。ぼくは岡崎友紀主演のNHKテレビ番組「姉妹」で彼女を好きになった。数か月前に笑福亭鶴光の「オールナイト・ニッポン」テレビ版に彼女が出ていた。変わってないと言えば変わってなかった。

 「オルガン」では木下恵介の映画「カルメン故郷に帰る」が出てきた(229頁)。佐野周二が盲目の音楽教師を演じて、黛敏郎作曲の不思議なメロディをオルガンで弾いていた。舞台は北軽井沢で、草軽電鉄の北軽井沢駅に凱旋した高峰秀子が浅間牧場で踊ったりしていたが、オルガンのシーンをロケをしたのはおそらく中軽井沢の軽井沢中学校の校庭だと思う。

 「アルマイトの弁当箱」(250頁)。ぼくの弁当箱がアルマイトだったかアルミニウムだったかは覚えていない。蓋にはゴムのパッキンが巡らせてあって、左右両端に留め具がついていたが、それでも時おりおかずの煮汁などがこぼれて教科書、ノートが汚れた。

 「かき氷」(260頁)の思い出もない。氷屋の水色と赤ののぼりは記憶にあるが。かき氷よりはアイスキャンディ売りのほうが思い出深い。自転車の後ろの荷台に木箱を積んで、鐘を鳴らしながら売り歩いていた。アイスキャンディも昭和30年ころは 1本 5円だったのではないか。なぜか「匙なめて 童(わらわ)たのしも 夏氷」という俳句を諳んじている。調べると山口誓子の1932年の句集に入っているらしい。

 「ハイボール」も懐かしい(268頁)。大学祭のときにクラスで屋台を出店することになり、水を炭酸水に変える器械を持っている級友がいて、その器械でハイボールを作って飲ませていた。当時ぼくたちのコンパではサントリー・レッドかニッカ・セレクト(どちらも500円だった)をコーラで割ったコークハイを飲んだ。飲みやすいので飲み過ぎてしょっちゅう悪酔いをした。

 

 ーーと、本書はいろいろなことを思い出させてくれた。

 松本清張「日本の黒い霧」や「昭和史発掘」など、暗い昭和のほうに関心が強いと思っていたが、けっこう「陽だまり」の昭和の思い出もあったのだった。

 

 2026年8月5日 記

 

 

 

 川本三郎「陽だまりの昭和」(白水社、2025年)を図書館から借りてきて読んだ。

 もともと、東急電車の駅で配布されていたフリーペーパーに連載されたものらしい。西武線にはそんな洒落たフリーペーパーはないなあ。

 テーマは、「暗い」昭和ではなく、「陽だまりの」昭和の懐かしい風物をめぐる思い出を映画や小説、随筆などに探るエッセイ集だが、どのテーマも一言つっこみ(?!)というか、ぼくの思い出も語りたくなるようなものばかり。以下は川本さんが本書で取り上げた昭和の思い出をめぐるぼくの一言。


 「捨て犬」。当時犬を飼うのは贅沢で、大岡昇平でさえ捨て犬を飼うことはできなかったらしい(17頁)。ぼくも豪徳寺のお不動さんの裏の林から捨て犬を拾ってきたことがあった。わが家ではしぶしぶ飼うことを許してくれたが、「キャリ」と名付けたその犬はぼくよりも妹に懐いていた。

 「お迎え」は、急な雨の際に母親が駅や学校に傘(時には長靴も)を持ってお迎えに来てくれたという話題。松本清張「張込み」の映画の話が出てきた(28頁他)。犯人の妻(愛人?)が雨に降られた犯人のために駅まで傘を持って迎えに行くシーンがあったらしい。張り込んでいた刑事は大木実。

 佐賀はわが父方の祖先の出身地である。ぼくは清張では「昭和史発掘」や「日本の黒い霧」など(本書とは正反対の)「暗い日本」を描いたノンフィクションのほうが好きで、清張の小説はあまり読んだことはないが、映画「張込み」に描かれた佐賀の風景はよかった。佐賀市内は水路が発達していて雨が似あう街並みだった。ただし原作の舞台は佐賀ではなかったような気がするが。

 ※ 川本三郎「東京は遠かったーー改めて読む松本清張」(毎日新聞出版、下の写真)も借りてきたが、読む時間はなさそうである。

 「郊外」は、昭和4年(1929年)の小田急線開業と、同時に開園した向ヶ丘遊園地のことから(9頁)。ぼくが現役だった頃すでに遊園地は閉園していて、やがてモノレールも廃止になり、レールも撤去されてしまった。

 小田急沿線では、わが「梅ケ丘」も何度か出てきた(31~34頁)。昭和30年代にぼくが乗り込んだタイムマシン(広瀬正「マイナス・ゼロ」)が立ち寄ったことで有名なあの根津山のある梅ヶ丘である。タイムマシンの話は出てこなかった。

 

 

 

 「バスの車掌さん」に寄せる淡い思いは先般亡くなった東海林さだおのエッセイにも出ていた。好きになったバスの車掌さんの名前を東海林が知っているという話だが、小津安二郎「秋刀魚の味」でも笠智衆の息子三上真一郎が「好きな女の子がいるんだ。しみずとみこ、っていうんだ。可愛いんだ」と言うシーンがあった(51頁)。

 「映画館」はわが近所にもあった(96頁)。「赤い風船」は虎ノ門ホールかどこかへ見に行ったが、「月光仮面」は経堂駅前の南風座(なんぷうざ)で見た。ドクロ仮面が怖くて出てくる場面では目をつむっていた。赤堤小学校から先生に引率されて「路傍の石」や「にあんちゃん」を下高井戸の映画館に歩いて見に行った。町の中で生き残った映画館のいくつかはピンク映画を上映するようになった。題名だけが扇情的で、パートカラーのあの映画は現在でもどこかで見ることができるのだろうか。

 一昨年父方の先祖が生まれた佐賀県嬉野の吉田地区(旧藤津郡吉田村)を訪ねた。嬉野町史によると、吉田のメインストリートだった皿屋通りには戦後になっても数十軒の商店が並び、映画館、演芸場、パチンコ屋などもあったと記してあった。

 映画「死刑台のエレベーター」(1958年日本公開)のなかに、電動鉛筆削り器が登場するという(81頁)。川本さんはずいぶん細かいところまで見ているのだ!と驚く。

 

 「こたつ」。高峰秀子の映画「浮雲」の中にこたつのシーンがあるという(24頁)。あったかもしれない。寅さんでも、寅さんが思いをよせる旅館の女将(新珠三千代)と男女四人で炬燵にあたりながら、ひそかに新珠の手を握るつもりで弟の河原崎健三の手を握ってしまうシーンがあったらしい(第3作「フーテンの寅」、24頁)。上映した映画館では観客が大笑いしたことだろう。

 「電蓄」、電気蓄音機は高級品だったらしいが、わが家には昭和30年代初めにはあった。チューナーが同調すると500円玉くらいの円形でグレーぽかった表示がきれいな黄緑色の円になった。 レコードをかける上蓋を上げると蓋の裏側に金色のビクターの犬(ニッパー?)のマークが首をかしげていた。

 昭和の映画に出てくる「キスシーン」もあった(119頁)。川本は「接吻」と言い、亡父は「口吸い」と呼んでいた。古典では「口吸い」と書いてあるらしい。その頃(平安時代?)からわが国でもキスは行われていたのだろう。

 「アルバイト」という言葉も昭和起源らしい(122頁)。まじめな研究者だった祖父が、出張から持ち帰った週刊誌のクロスワード・パズルの「アルバイト・サロンの略称」というヒントに答えて「アルサロ」と書き込んでいた。これを見つけた祖母と母(娘)が「お父さんはどうしてこんな言葉を知ってるのかしら?」と話していたことがあった。アルサロがどんな店だったのか、ぼくは知らない。

 

 ーーといった調子で、どのテーマ、どの品物にもぼくの懐かしい思い出が重なる。きりがないのでひとまずここまでにしておく。

 

 2026年8月5日 記

 

 

 

 川本三郎「荷風の昭和≪後篇≫ーー偏奇館焼亡から最期の日まで」(新潮選書、2025年)を読んだ。と言っても今日(8月1日)が返却日だったので、昨日と今日で斜め読みしただけだが。

 

 最低限の宿題だった日本国憲法施行の昭和22年5月3日の「断腸亭日乗」の「米人の作りし日本国憲法今日より施行の由。笑う可し」の真意だけはまず確認したかった。

 この点につき川本は、「必ずしも平和憲法を笑っているわけではない」としたうえで、磯田光一の「自らの力で立つことを戒律としていた荷風は、日本人がはたして自らの力で民主主義を確立したのか、と問うているのである」という論評を引用する(385頁)。荷風が「自立を戒律とした人」というのは、菅原明朗や大島五艘、小西茂也らへの依存を考えるとぼくには怪しい評価に思える(笑うべし)。

 荷風が、戦時中は軍国主義を支持して植民地侵略に「熱狂」しながら、戦争に負けるや豹変してマッカーサーの占領軍を歓迎してアメリカ兵に媚を売り、民主主義を唱える人々に対する違和感(反感だろう)を表明していることを考えると(246、255、257頁など。頻繁に磯田光一を援用する)、この論評にも一分の理はあるかもしれないが、「必ずしも平和憲法を笑っているわけではない」と断定する川本説の根拠は「日乗」のどこかに見出せるのだろうか。

 ぼくには、日本国憲法の「平和主義」だけでなく、民主主義や表現の自由などその内容を吟味することなく、アメリカ占領軍が草案を起草したというだけの理由で荷風は新憲法を「笑った」ように思えた。あえて荷風の真意を忖度すれば、戦争に負けた敗戦国日本が、戦勝国アメリカにとって二度と脅威にならないような国家へと体制転換(憲法改正)を要求されるのは当然のことで、そんな結果をもたらすような負け戦を遂行した旧日本軍や日本国民のことを荷風はあざ笑ったのかもしれない。

 

 もう一つの謎は、戦時中になぜ軍部は荷風の「腕くらべ」を買い上げて兵隊に配ったのか、ということだった。昭和19年9月に軍部からの要請で岩波書店が「腕くらべ」を5000冊増刷し、荷風に想定外の印税が入ったことの紹介がある(71頁)。出征兵士に送るのだという。軍部の意図は書いてなかったが、花柳界の営業を禁止しながら、「花柳小説」を兵士に送るとは「何等の滑稽ぞや」と荷風はあざ笑った(同頁)。思わぬ印税が入ったことに計算高い荷風はほくそ笑んだことだろう。

 軍部は荷風の花柳小説で兵隊たちのガス抜きでもしたかったのだろうか。

 

 あとはすべて印象に残った記述を羅列するだけ。

 1つ。ぼくの中学高校時代の通学路だった吉祥寺、西荻窪駅前の狭小な商店街は、鉄道の駅を守るため昭和18年に行われた駅前建物の強制疎開(取り壊し)でできた空き地に戦後になって小さな飲食店ができた名残りだという(65頁)。

 去年の秋に西荻窪駅前を歩いていた際に、南口の右手(吉祥寺駅寄り)の呑み屋の店先に置かれたベンチに座ってジョッキのビールを昼から飲んでいる老人がじっとぼくを見つめていた。後になって中学の同級生だったのではないかと思い至った。「神明中?」と声をかけてみればよかったと後悔した。

 2つ。わが編集者時代の大先輩だった畑中繁雄さんが登場した。陸軍に呼び出されて谷崎潤一郎の「細雪」の掲載中止を命じられた「中央公論」の編集長が畑中さんだった(193頁)。畑中さんは中央公論社が廃業に追い込まれた後に日本評論社に移ったのだろう。後に横浜事件に連座することになるが、1970年代に日本評論社で開かれた会合で横浜事件の再審請求についてお話を伺ったことがあった。

 敗戦直後に雨後の筍のごとく出た雑誌のうち「新生」の青山虎之助や、川端康成らの「鎌倉文庫」のことなど、本書≪後篇≫ではサイドストーリー的に紹介される出版界の話題も興味深いものが多かった。

 3つ。長谷川潔という画家のことが出てきた(213頁)。長谷川という画家をぼくは知らなかったが、亡くなった妹が収集していた絵葉書の中にフランスの風景を描いた彼の絵が何枚かあったので、名前だけは知るようになった。長年フランスに滞在した画家で、「問はずがたり」の情報提供者の 1人だったようだ。下の写真は長谷川潔「ヴェヌヴェルの丘上の古い農家」1942年の絵葉書)。

 

 

 

 4つ。荷風は、占領軍アメリカ兵の電車内での横暴に憤りつつ、同時に、「是曾て満州にて常に日本人が支那人に対して為せし処、因果応報、是非もなき次第なり」とも書いている(255頁)。

 同様の因果応報論は、加藤周一の「ある晴れた日に」(岩波現代文庫)の中にもあった。敗戦直後の信濃追分で、中国大陸から帰還した旧日本兵たちが、アメリカ兵が追分にやってくることを知ったときに抱いた恐怖(B・C級戦犯として逮捕されるのではないか)に対して、主人公(加藤?)が同様の「因果応報」の視線を向ける場面があった。

 5つ。「日乗」では荷風は新聞も雑誌も読まず、ラジオも聞かなかったことになっているが、実際には荷風は「巷の噂」で戦前・戦中の情勢を結構よく知っていた。その情勢の中には、慶應義塾の卒業生で二・二六事件で高橋是清暗殺の現場に居合わせた者から、昭和12年の南京虐殺事件の目撃談を聞いたことが「日乗」に書いてあるという(34、5頁)。荷風は事件直後に慶應人脈を通じて南京虐殺事件のことまで耳にしていたのである。

 喫茶店やカフェーで新聞を読んだり、出入りする編集者や知人、遊女らから情報を仕入れる記述が「日乗」にはけっこう出てくるから、新聞、雑誌を読まなかったと書いているのは一種の予防線だろう。

 6つ。荷風は独ソ戦で連合国側のソ連が勝利したことを喜んでいる(58頁)。「非国民」の面目躍如である。

 軍人たちが白い軍服姿のままで待合で騒いでいた事実などは、その手の街や店に出没した荷風ならではの観察だろう。阿川弘之「山本五十六」(新潮文庫)にも待合で遊ぶ軍人が出てきたか。荷風が「非国民」なら、これら軍人も十分に「非国民」と言うべきだろう。

 

 7つ。天皇に対する荷風の本当の気持ちは川本の本書を読んだ今も未解決のままだが、天皇がマッカーサーを訪問し、その写真が新聞に掲載されたことを哀れみ、周囲に真の忠臣のいないことを嘆いている(258頁)。「天皇に同情する一方で、軍人を批判してやまない」と川本は評するが(259頁)、藤原彰、吉田裕、山田朗らの「徹底検証 昭和天皇独白録」(大月書店)、粟屋憲太郎「東京裁判への道」(NHK出版、講談社メチエ選書)など近年の昭和天皇研究を読むと、昭和天皇の戦争責任は免れないと思う。

 それはともかくとして、荷風「日乗」の伏字、削除の箇所を復元する研究はないのだろうか。そのいくつかは(前後の文脈から推測して)おそらく天皇への言及があったと思う。川本の本の「前篇」のどこかに、フィクションだが「断腸亭日乗」の伏字復元を試みた本が紹介してあったように思うが、誰の、何という本だったか・・・。岩波文庫で刊行中の「断腸亭日乗」が昭和10年代中・後半に及び、この頃の伏字・削除に注釈がつくことを期待しておこう。

 

 8つ。「四畳半襖の下張」で時間が来てしまった。今から図書館に返却に行かなければならない。ーー家を出た途端に夕立が降りはじめた。

 「四畳半襖の下張」は大学時代に野坂昭如編の雑誌「面白半分」に載った時に買って読んだ(1972年だったらしい。雑誌自体は友人間で回覧しているうちに戻ってこなかった)。二見書房やフランス書院のロマン・ポルノを期待したのに、ちっとも面白くなかった。というより、文章の意味さえほとんど理解できなかった。川本も注釈本を読んでようやく意味を理解したと書いているくらいだから、ぼくが理解できなかったのも当然だろう。いずれにしても、「四畳半襖の下張」は荷風の執筆で間違いないようである。

 ぼくの荷風嫌いの原点は、この「四畳半襖の下張」の苦い原体験(?)にあるのかもしれない。

 ーーと言いつつ、ぼくにとって荷風が気になる作家であることは否定しようがない。

 

 2026年8月1日 記

 

 

 

 川本三郎「荷風の昭和≪前篇≫ーー関東大震災から日米開戦まで」(新潮選書、2025年)を図書館から借りてきて読んだ。

 先日のミニクラス会で高校時代の友人から強く薦められたもの。

 

 永井荷風「断腸亭日乗」を詳細に読み込んで執筆した川本三郎「荷風の東京ーー『断腸亭日乗』私注」(都市出版)は、以前に興味深く読んだのだが、荷風の買春行動にはどうしてもなじめなかった。その点では、広津和郎の荷風観に共感する。荷風は小説のネタにするために買った女からその素性を聞き出すなどするのだが、本人も自嘲していたがただの買春以上に質が悪い。

 さらに、荷風の前後に読んだ秋庭太郎「評伝永井荷風」(春秋社)、佐藤春夫「小説永井荷風伝」(岩波文庫)、半藤一利「荷風さんの昭和」(ちくま文庫)その他で、荷風の奇癖(家主夫婦の寝室を窃視する)、奇行(借家の座敷で書損じの原稿用紙を焼く)、弟子との不仲(佐藤春夫や平井呈一との確執)などを知って、いよいよ川本のようには荷風を好きになることはできなかった。

 高校以来の文学、映画好きの友人の強い薦めがなかったら手に取ることもなかった本だが、とにかく読み出した。

 

 冒頭から川本は、荷風は「好色作家」ではなく「女性のたおやかさ」を描いた作家であるという本書の基本スタンス(4頁)を表明するのだが、これには共感できない。しかし、幸徳秋水の大逆事件以後、荷風が世捨て人、江戸の戯作者、戦時中は非国民として生きて行こうと決意したと言い、新聞雑誌の類は一切読まずラジオも聞かなかったと言いつつ、けっこう日本の政治外交戦争情勢に詳しいことを訝しく思っていたので、本書によって荷風が昭和の状況をどのような経緯や手段で知り、どのような感想を抱いたのかを知ることができるのではないかという期待から読んでみることにした。とくに「断腸亭日乗」(ぼくが読んだのは磯田光一編「摘録・断腸亭日乗(上・下)」(岩波文庫)だが)で伏字にしたり、削除した部分に何が書いてあったのか、例えばかなり長文の伏字になっている二・二六事件における昭和天皇に対する記述などが復元されているのではないかと期待した(のだが残念ながら出てこなかった)。

 

 川本は大正12年の関東大震災から「昭和時代」が始まったと見ていて、上巻100頁を超えたあたりまでは関東大震災とその復興過程の東京が描かれていて、前著「荷風の東京」の焼き直しの感を否めなかった。ぼくは荷風の舞台になった東京の下町にまったく地理勘も知識もないため、読んでいても風景を想像することすらできない。「荒川放水路」など、なんで「放水路」などという人工的な名前で呼ばれる川(?)が有難いのか理解できない。かろうじて、小津安二郎の「東京物語」に出てくる山村聡の診療所の裏の土手の向こう側や、「一人息子」の笠智衆が信州の小学校教師を辞めて上京して始めた豚カツ屋の立地などを思い出しながら読んだ。

 「玉の井」が頻出するのにも閉口する。玉の井育ちの漫画家滝田ゆうの随筆を読んだので、「玉の井」という文字を見るたびに(子ども時代に山下界隈で嗅がされた)どぶ川の悪臭が文字から立ち上ってきてしまう。

 「日乗」に出てきた小物のなかでぼくが最も懐かしかったのは、前編の最後のほうに登場した「米穀通帳」である。米穀通帳は昭和15年だったかに登場したそうだが、戦後になってからも、ぼくが生まれた昭和25年(1950年)はもちろん、小学生になった昭和30年ころにもまだあった。仙花紙というのか粗末な紙質のざら紙に薄汚れた朱印がいくつも押されていた。

 ぼくは母親に言われて玉電山下(世田谷区豪徳寺)の商店街に買い物に行く際に「米穀通帳」を持って行ったことがある。まだ配給だった何かを買いに行かされたのだろう。昭和24年発行のぼくの母子手帳には米の増配だけでなく、炭だのマッチだの晒布だのの配給券がついていた。

 ※ と書いたものの、戦後10年以上経った昭和30年代に本当に「米穀通帳」を持って買い物に行ったことがあっただろうか、記憶の捏造ではないかと心配になって、ネット上で「米穀通帳」を検索してみた。すると、配給米を管理する「米穀通帳」は昭和30年代(1955年~)どころか、1980年代まで存続していたとあるではないか! 自主流通米の普及によって実質的には利用されなくなっていたが、形式的には1981年に正式に廃止されるまで存続したという。それならぼくが昭和30年代初頭に玉電山下商店街に配給米を買いに行く際に「米穀通帳」を持たされたこともあっただろう。

 その玉電(たまでん、現在の東急世田谷線)が登場するのもうれしい(232、6頁)。玉電の車両はぼくが小学生の頃にクリーム色と黄緑色のツートンカラーの流線型の2両編成になったが(イモムシと呼ばれていた)、荷風が乗ったのはもちろんそれ以前の真四角型の車両だっただろう。この旧車両もぼくの記憶に残っている(真っ赤に塗られた「赤電」などという車両もあった)。

 

 川本は、本書の「昭和」は「大文字の昭和」ではなく、「小文字の昭和」だという。

 「大文字の昭和」は政治家や軍人が主人公の歴史であるのに対して、「小文字の昭和」は庶民(という言葉を川本は使っていないが)、小市民(小津映画の世界に登場する人々)の昭和である(217頁)。荷風「日乗」に登場する荷風や娼婦らの世界も「小文字の昭和」の世界である。どこかで今和次郎が引用してあったが、本書は川本が荷風の「日乗」その他の作品から読み解いた一種の昭和生活風俗史ないし昭和世相史(やや性風俗史に偏っているが)と言うこともできるだろう。

 川本が意図したかどうかは知らないが、「小文字の昭和」と「大文字の昭和」とは地続きであったことがよく分かる。昭和戦前期は、決して軍人が暴走して軍国主義化して無謀な戦争に突入したのではなく、その背後に軍部の行動を熱狂で迎える「国民」がいたことが「日乗」の些細な記事からもよく分かる。

 「大文字の昭和」と「小文字の昭和」は、截然と二分できるようなものではなくつながっていた。そして両者の間に、国民の熱狂を利用するポピュリスト政治家(典型が近衛文麿)、熱狂をあおる新聞などの存在があった。「断腸亭日乗」には屡々「号外売り」が登場するが、川本は朝日新聞の「変節」を指摘している(307頁)。戦争を支持する大阪毎日新聞が売れて、批判的な朝日新聞が(在郷軍人会などの不買運動によって)売上げを落としたため、朝日は軍縮・協調外交支持から戦争支持に変節したという!

 

 惜しむらくは、「大文字の昭和」の概観がもっぱら筒井清忠の記述に寄りかかっていて、戦前期の「大文字の昭和」を客観的に眺める視点が一面的すぎる印象がある。軍部暴走の背後に「国民の熱狂」(安田武「昭和東京私史」の援用もあった。265頁)があったことは事実だろうが、あの敗戦に至る戦争に至った責任は、天皇、軍人、政治家、財界人、官僚、新聞マスコミなどと、(たとえ「熱狂」したとしても)一般国民との間で軽重の差があって然るべきだとぼくは思う。 

 同様に、「小文字の昭和」については荷風を補強するのが安岡章太郎らの身辺雑記に依拠しすぎている感があった。ただし、安岡が書いているとおり、シナ事変と大東亜戦争(安岡の用語に従う)は一体のものだが、その時代を生きた者の実感としては昭和6年の満州事変と昭和11年のシナ事変との間には「平和なインターヴァルがあって、それを戦争とは呼べない」、「この二つの事変は日本にとって儲かる戦争であったというのが、国民全般の実感だったろう」という指摘(304頁)は、恐らくそうだったのだろうと思う。

 

 荷風の対中国観(父は保険会社の上海支店長だった)、対朝鮮観(大震災後の朝鮮人虐殺に多少触れていた)は、荷風で「昭和」を語るためには欠かすことができないと思うが、強く印象に残る記述はなかった。

 ※ 荷風はフランスには憧れるが、アジアに対してはどういう思いを持っていたのだろうか。最後のほうに朝鮮出身の舞踏家崔承喜の踊りを川端康成、林芙美子らが絶賛したことを紹介していた(559頁)。

 荷風は自らを「非国民」と自認していたくらいだから、「大文字の昭和」側がいう「国民」であることを誇りには思っていなかった。むしろ、「政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり」と喝破し、そのような国民性は今後も変わることはないだろうと絶望している(439頁)。

 愛国婦人会が「パーマはやめましょう」と言ってパーマ姿の女性にビラを押し付けて髪型を強制していた時代に、パーマを貫いた娼婦を称賛し(530頁)、日米開戦前の時点で敵国アメリカの勝利を願っている(558、565頁)。

 荷風嫌いのぼくも、荷風が自らをあえて「非国民」と自覚する姿勢には強く共感した。

 

 ーー読むかどうか迷いつつ、結局「荷風の昭和(前編)」550頁を通読することになった。川本の筆力のなせる業だろう。

 「後篇」はどうしようか。返却期限は月末に迫っている。日本国憲法施行の日に、アメリカの勝利を祈念していた荷風がなぜ「米人の作りし新憲法施行、笑うべし」と書いたのか、これについて川本が何と言っているか気になるので、そこだけでも読んでみるか。

 

 2026年7月28日 記

 

 ※ 銀座の「若松」が2023年12月末で閉店したことを知った(222頁)。明治27年日清戦争開戦の年に創業し、130年の歴史を誇る甘味処で、「あんみつ」は「若松」のオリジナル商品だという(同社のHPによる)。ぼくは銀座にはほとんど縁がないのだが、亡くなった妹が「若松」の娘さんと中学高校が同級だったので、「若松」のことが話題に出ることがあった。亡母も戦時中に食べに行ったことがあったような話だった。

 もう一つ、亡父が銀座の天婦羅「天金」の池田弥三郎さんと旧東京市立一中(後の九段高校)で同級だったのだが、胃弱の父は天婦羅は食しなかった。本書のどこかに池田さんの話題もあったがページ数はメモするのを忘れた。生粋の江戸っ子の代表のように言われる池田さんだが、ご本人は「江戸っ子」と呼ばれることを嫌ったと何かに書いてあった。