映画「人生は長く静かな河」 (“La vie est long fleuve tranquille”)を見た。
テレビデオというのだったか、ブラウン管テレビの画面下に VHS ビデオの挿入口がある受像機?が残っていて(下の写真)、コンセントを入れてみたら動いたので、VHS版で見た(日本ビクター、1988年、字幕スーパー、本編87分)。
「リュック・ベッソン セレクション」というシリーズ名がついていたので、彼の監督作品かと思ったら、彼がこの作品を推薦する映像がついているだけで、監督は別人だった(エディエンヌ・シャティリエーズ監督とあった)。
テーマは産院(産婦人科開業医)における新生児の取り違えである。
裕福な会社員の家族のもとに生まれた男の子が貧しく教養もない白人家族に引き渡され、その貧しい家族のもとに生まれた女の子が裕福な家族に引き渡され、12、3歳まで育てられる。
普通の赤ちゃん取り違え事件が医療側の過失によるのものであるのに対して、この映画では、産科医師の愛人だった看護婦(助産婦?)が、自分を棄てた医者に対する逆恨みから故意に赤ちゃんを入れ替え、しかも10数年後にその事実を当該家族にばらしてしまうのである。
事実を知った裕福な家族は金銭を支払って自分たちの男の子を引き取り、それまで育ててきた相手方の子である女の子も今まで通りに育ててゆく。
引き取られた男の子は表面上は裕福な家族に溶け込み、中産階級の文化にも対処しているように見えたが、仮病で学校をさぼったり、家の銀食器を持ち出してかつてのワル仲間たちに奢ったり、未成年なのに酒を飲み、シンナーまでやる。さらに、両親が隠していた出生の秘密を女の子に話してしまう。女の子は血縁上の両親ときょうだいの現実を知って衝撃のあまり家出をする。
似たような事案は、かつて日本でテレビドラマ化された沖縄の赤ちゃん取り違え事件にもみられた(芸人のゴリが主演だった)。一方は普通のサラリーマン家庭、他方は経済的に困窮する家族だったが、沖縄の貧しい親は子を愛する気持ちが強かった。裕福な家族(とくに母親)は本心では二人とも引き取りたかったが、お互いに子どもを交換して血縁上の親に引き渡すことに合意した。貧しい家族に引き渡された子は、その後も(それまで)養ってくれた家に入り浸っていて、血縁上の母親を嘆かせた(と記憶する)。
それに比べると、この映画では貧しい家族をややステロタイプ(「貧しい家族」とはこんなものだ)に描きすぎている印象だった。この女の子の血縁上の家族が、無教養で、経済観念もなく、厚化粧のいかにも下品な家族として描かれていて、この家族が登場しては下品な言動に及ぶたびに不快感を禁じえなかった。
ただこの映画は、20世紀末のフランス社会の一面を知ることができる内容だった。
冒頭は、移民に反対するテロリストが移民(アラブ人)の車を爆破するシーンから始まる。貧しい家族の父親は、アルジェリア戦争で負傷したため働かずに家でぶらぶらしている。住んでいるのは「団地」(と字幕にあった)の一室である。大義なきアルジェリア戦争が旧植民地を侵略した側の人間に与えた傷跡が伺えるエピソードであった。そんなフランス人(白人)もいたのだろう。
これに対して、裕福な家族は、車寄せのついた広い前庭があり、玄関のドアは3メートル近い高さがある家に住み、子どもたちをカトリックの学校に通わせ教会の行事にも参加させる。夏のバカンスにはステーションワゴンでヨットをけん引して海辺の別荘に出かける。「裕福」と言っても電力会社の部長職である。フランスではそのくらいのサラリーマンがあのような家に住み、あのような生活を送っているのだ!
いずれにしても赤ちゃん取り違えは、とくに子どもが思春期になってから発覚した場合には取り返しのつかない悲劇を生む、あってはならない事件である。本映画の結末は、「えッ、これで終わるの?」という思いを否めなかった。エンドマークから話(人生?)は始まるという映画の典型だろう。
2026年5月8日 記























