岸田衿子(えりこ)・岸田今日子「ふたりの山小屋だより」(文春文庫、2001年)を読んだ。これも亡妹の遺品。
岸田衿子、今日子姉妹が、毎夏を過ごした北軽井沢での思い出をつづったエッセイと青春時代の日記、そして谷川俊太郎を交えた三人の鼎談を納めた本である。
岸田姉妹、父の戯曲家岸田國士(くにお)一家が住む別荘は「北軽井沢」の「法政大学村」にあるのだと思っていたが、冒頭の第 1章から「六里ヶ原の話」という題名で、「北軽井沢」など見出しには一切出てこない(文中では散見されるが)。岸田の山荘は、確かに最寄り駅は(といっても駅から徒歩3、40分もかかるらしい)草軽電鉄の「北軽井沢」駅だが、彼女らの主観ではあの土地は「六里ケ原」なのだった。ぼくにとって六里ケ原は、峰の茶屋から鬼押し出しに向かう有料道路の途中、浅間山の東側山麓のかつてはドライブインがあったあたりなのだが。
しかも彼女らの住居は「別荘」でも「山荘」でもなく「山小屋」だった。軽井沢の奢侈な「別荘」とは区別する意味であえて「山小屋」と称しているようだが、山小屋といっても、名のある建築家が設計した北欧の水車小屋を模したという立派な建物である(口絵ページ)。
本書刊行の2001年当時、衿子はこの岸田家の山小屋に住んでいたというから、名実ともに「別荘」ではない。
この本を読んでいて、一番懐かしく思ったのは草軽電車の思い出をつづった文章だった。ぼくの珍蔵書である「草軽電鐵五拾年誌」(浜本幸之、軽井沢書林、昭和48年、下の写真)を横に置きながら読んだ。
草軽電車は、新軽井沢(現在のJR軽井沢駅北口前にあった)から旧軽井沢、三笠、鶴溜、小瀬温泉、長日向、国境平(長野県と群馬県の国の境である)、二度上(勾配が急なため列車が二度行きつ戻りつをするのでこの名がついた)、栗平、北軽井沢、吾妻、嬬恋、上州三原、万座温泉口などを経由して草津温泉に至る軽便鉄道である。
パンタグラフがカブトムシの角に形が似ているのでカブトムシと呼ばれた電気機関車が 1、2両の客車を引っ張ってゆったりと走っていた(らしい)。「五拾年誌」を見ると新軽井沢から北軽井沢駅までが約 1時間半、草津温泉駅までは約 4時間かかったようだが(昭和34年現在、26頁)、本書では軽井沢から1時間以上走ると浅間牧場につづく国境平駅に着き、そこからさらに 1時間近く走ってやっと北軽井沢駅に着いたとある(20頁)。「五拾年誌」では国境平と北軽井沢間は30分弱だが、戦前、敗戦直後の時期にはそのくらいの時間がかかったのだろう。
著者たちは、草軽電車のスピードの遅さを「帽子を窓から飛ばされた人が、とび降りて帽子を拾ってまた乗っても間に合」ったと書き、線路わきで草花を摘んで戻ってくることもできたと書いている(19頁)。わが家では「尿意を催した乗客が飛び降りて線路端で用を足してからでも戻って乗り込むことができた」などと尾籠なエピソードが伝わっている。
草軽鉄道はクルマ社会の到来、国鉄長野原線の開通とともに昭和35年に廃線になってしまった。
岸田姉妹の山小屋は、その草軽電車の「地蔵川」駅から徒歩で3、40分の所にあった。地番は群馬県吾妻郡長野原町大字応桑字大屋原」とある(5頁)。
この六里ケ原の崖上に建つ岸田の山小屋の崖下を流れる川は「熊川」といって、クマが出没することからこの名前が付けられたと書いてある。その地域の地名は「熊ノ内」といったそうだ(19頁)。あの浅間山麓の六里ヶ原のどこにそんな崖があって川が流れているのだろうか、ぼくには想像がつかない。「六里」というくらいだから、あのドライブインの24キロかなたにはそんな場所があるのだろう。
掲載された写真を見ると川に降りる崖はかなり急な斜面で、ぼくが子どもだったころの(中軽井沢長倉の)獅子岩のせせらぎに降りる崖を思い出させた(163頁)。培風館山本山荘の山の下、獅子岩の地名の由来になった岩のあたりである。グリーン・ホテル下から獅子岩、星野温泉方面に向かって流れ、今は国営野鳥の森やハルニレテラス脇を流れて(おそらく)湯川に流れ込むあの川である。
最近の熊出没騒動とは隔世の感があるのどかな熊の話題が何度か登場する。軽井沢はクマと人間の生息地域を隔離することに成功した地域のように言われているが、最近の六里ケ原あたりはどうなのだろうか。ぼくの子ども時代には鶴溜にまでクマが出没したため、星野より向こうに遊びに行ってはいけないと親から言われていた。
北軽井沢の大学村の住人たちは「北軽井沢」を「軽井沢」と一緒くたにされることを嫌う人が多かったように思う。ところが、この六里ケ原にある草軽電車の駅名を「北軽井沢」に変更したのは野上弥生子の提案だったという(21頁)。かつてこの駅は「地蔵川駅」という名前だったが、いつも利用する駅名が「地蔵川」では暗いということから、軽井沢の北側にある避暑地なので「北軽井沢」に変えようと野上が提案して採用されたのだという(同頁)。
この周辺にはもともと法政大学学長の所有する広大な土地があり、彼が大学教授たちにその土地を分譲したため多くの学者や作家、音楽家らが住み、「法政大学村」という共同体を形成し、独自の文化的環境を形成した。亡父の師の一人である田辺元もここに永住した。衿子は「変り者の哲学者」と書いていたが頁は見つからなかった。田辺と野上との老いらくの恋の話題なども聞いたことがあるが、本書には載っていない(ただし鼎談の中に大学村では恋愛問題がたくさんあったという発言があり、何かをほのめかしている。257頁)。
※ 衿子の随筆の中に、田辺が生活時間に厳格で、起床、食事、午睡、入浴、就寝の時間を1分たがえずに守っていて、郵便配達が定時に遅れると機嫌が悪かったことを紹介している(216頁)。
しかし皇太子(現上皇)のご成婚で「軽井沢」が騒がれるようになったため、皮肉にも野上はこの地が「軽井沢」と混同されることを嫌ったという(22頁)。この地域を北軽井沢と呼ぶことには岸田姉妹も抵抗があるようで、山小屋の所在地を六里ヶ原と書き、軽井沢駅のことを K 駅とイニシャルで書いたりしている(60頁)。
野上がかつてこの地を「北軽井沢」と呼ぶことを提案したのは、(ぼくの推測では)室生犀星、堀辰雄、芥川龍之介、川端康成らが集った「軽井沢」というアイコンないしブランドへの憧憬があったからではないか。それから数十年が経過して「ミッチー・ブーム」に便乗して人気になった頃の軽井沢にはもはやかつてのようなブランド力はなくなっており、野上は「北軽井沢」などと名のった過去の自分に嫌気したのだろう。「北軽井沢」の「軽井沢」は高度成長期以降の(現在に至る)軽井沢ではないのである。「北軽井沢族」が「軽井沢」を嫌うのは、軽井沢周辺の地域が軽井沢を僭称することを「軽井沢族」が嫌うのと裏返しの感情だろう。
※ 鼎談の中に「大学村」の由来を語った個所があるが、それによると(大正末期か昭和初期の)当時の大学村の土地価格は坪 1円で 1区画が500坪、月10円の50回払いで買うことができ、2区画購入する人が多かったという(262頁)。岸田國士夫婦が沓掛駅で野上弥生子夫婦に出会い、「われわれ貧乏教師でも夏の別荘持ちになれるかもしれない」と誘われたことが岸田一家の北軽井沢生活が始まるきっかけだった(261頁)。他方で、購入する人(の職業?)を選び尾上菊五郎の購入希望を断ったと話している。
以下はエピソード風に、印象に残った話題だけを記す。
かつて岸田山小屋の近くの滝原村で殺人事件が起きた。結婚を反対された男が彼女の住む同地で老婆二人を殺害したという(51頁)。その滝原村には小さな滝が無数にあって「千ヶ滝」と呼ばれているという。北軽井沢には、あの中軽井沢の千ヶ滝とは違うもう一つの「千ヶ滝」があったのだ。
ぼくの記憶にある「軽井沢殺人事件」は、失恋した男(彼も確か北軽井沢に別荘をもっていた)が彼女(だったか)を殺した後に浅間山の火口に飛び降りて自殺したという事件だが(火口の中腹に横たわる遺体の写真が当時隆盛を極めていた写真週刊誌に載った)、別の事件だろう。
この本には、多くの著名人との交流が登場する。
谷川徹三の息子俊太郎は姉妹の友人であり(※衿子の元夫だった!知らなかった)、中勘助夫妻は衿子が偶然草軽電車の車内で乗り合わせたのだった。その時両者は言葉を交わさなかったのだが、後に「あの女性は岸田秋子さんの娘さんに違いない」と中が言っていたことを衿子は知ることになる。「秋子」は姉妹の亡母だが「ときこ」と読むことを知っている人は少ないので、衿子は驚いた。中勘助には追分を描いた「裾野」という随筆があるらしい(76頁)。読んでみたくなった。中勘助は野上の初恋の相手だったと何かで読んだが、本書では触れていない。
その他の多くは父國士と縁のある人たちである。
大学村では野上弥生子ら、文学座関係では北村和夫、小池朝雄、仲谷昇、杉村春子、中村伸郎ら、作家では三島由紀夫、大岡昇平、大江健三郎らが、文学座ではないが芥川比呂志、也寸志兄弟も登場した。彼らが早稲田のアイスホッケー部員の指導を受けてアイスホッケーチームを結成したなどという話もあった(56頁)。照月湖(姉妹は「お池」と呼んでいた)が凍ってスケートリンクになっていたらしい。※岸田山荘の近くには吉田健一の別荘もあり、作家たちはそこに集まったようである。
舞台に関心のないぼくにとって中村伸郎、杉村春子は「晩春」「東京物語」「秋刀魚の味」など小津安二郎の映画のほうが懐かしい。そう言えば岸田今日子も「秋刀魚の味」以外は見た記憶がない。ぼくが大学卒業後に務めた出版社は新宿区須賀町にあったが、よく飲みに行った外苑東通り沿いの「どじょうや」には、稽古場が近くにあったので文学座の俳優たちもよく来ていた。他の飲み客との交流はなかった。
今日子の戦後間もない頃の日記には1947年8月14日の浅間山噴火のことが出てくる(169頁)。気象庁HPによると、この噴火では登山客 9名が死亡したとある。今から振り返れば結構な大惨事だったのが、戦後ほどないこの時期にはそれほどの事件と考えられていなかった様子が日記の記述からは伺える。掲載された噴火の写真を見ると、ぼくが経験した昭和36年の噴火と同規模に見えるが、これでも「小規模」なのか(170頁)。
そのほか、この本にはクマだけでなく山小屋周辺に現われる動物、昆虫、草花の話題も多いのだが、花鳥風月に縁のないぼくには紹介する気力がないので、すべて省略する。あしながくも、かまどうまなど記憶を共有する話題もいくつかあるのだが、逆に、わが亡母が好んだ実生の鬼百合や羊歯のことは出てこなかった(ように思う)。
※ その後一言書いておきたくなった。足長ぐも(108頁)は懐かしい。きつつき(102頁)にはわが家も外壁に穴を開けられ雨漏りの被害を被ったことがある。 蛇(91頁)にも塩沢湖か恩賀高岩でキャンプをしたときに出くわしたことがあった。熊(87頁)、ねずみ(96頁)には幸い出くわしたことはないが、猿には家の玄関先で鉢合わせになって威嚇されたことがある。虻(あぶ、87頁)はかつて貸馬屋の馬が近所を歩いていた頃はけっこう悩まされたが今では見かけなくなった。一昨年だったか、孫たちがブヨにやられて借宿の診療所に駆け込んだことがあった。30何か所も刺されて赤く腫れていた。
・・・・などなど、いろいろな記憶をよみがえらせてくれる本だった。
2026年7月8日 記
※ 豆豆先生の読書室(旧豆豆先生の研究室)2009年4月7日付の「軽井沢高原バス廃線の旅/立教村」で、本書「ふたりの山小屋だより」を引用しながら岸田今日子は立教女学院の卒業だと書いたが、これは誤りだった。岸田今日子は自由学園高等科の出身で、岸田衿子が立教女学院(立教高等女学校)の出身だった。