7月14日の朝 9時半過ぎに東京を出発して軽井沢に行ってきた。

 この夏最初の軽井沢。家を開けて風を通し、寝具類を虫干しするのが主目的。今年の梅雨は雨が少なかったのか、意外と湿気っていなかった。

 

 関越道は渋滞、事故もなく順調に進む。平日のためややトラックが多いか。上里で小休憩をとって、上信自動車道に入る。ここも順調、工事の車線規制もそれほどの混雑ではなく、大泉から2時間少し、12時前に軽井沢インターを降りる。

 南軽井沢交差点を左折して、軽井沢バイパスに出る。路上の表示では気温は29℃。むかしの軽井沢だったら考えられない気温だが、昨今では珍しくなくなった。道路沿いに新設中のマンションだかペンションだかのすべての部屋の窓外にエアコンの室外機が並んでいた。軽井沢もエアコンが必要な気候になってしまったようだ。最近の軽井沢では「避暑地」という言葉も耳にしなくなった。

 

 

 まずは鳥井原東交差点を右折してツルヤによって、水と食糧を購入(ベトナム産のフランス・ビールというのが安くて美味しかった)。

 ツルヤから眺めた浅間山。雲がかかっていて全景を見ることはできなかった。バイパス上空から続いているこの雲は何雲というのだろうか?

 

 

 昼食は、浅間サンライン沿いの香りや(?)で食べることにして、国道をサンライン入口に向かう。スマホで調べていた家内が「香りやは火曜日休業だって!」 というので、急遽行き先を変更して追分の笹倉に向かう。ところが笹倉も火曜日休業。2時を過ぎていて心配だったが、中軽井沢駅前のかぎもとやに向かう。2時半に入店すると「3時閉店ですが、いいですか」と確認される。

 ふたりで天ざるを食す(荷風の真似)。以前は、蕎麦はかぎもとや、天ぷらは追分そば茶屋、と思っていたが、かぎもとやの天ぷらも美味しかった。

 

 

 食後、中軽井沢駅構内の沓掛テラスに立ち寄るが、図書館はあいにく休館日。

 下の写真は中軽井沢駅 2階改札口へ向かう通路から眺めた浅間山。冒頭の写真は中軽井沢駅北口前から眺めた離山。

 今回は3日滞在したけれど、浅間山はこの程度しか見えなかった。毎回思うのだが、中軽井沢駅の北側出口前と国道18号線道路の間は何とかもう少しスマートな景観にならないものか。

 

 中軽井沢駅から南方向の眺め。遠方に八ヶ岳を望むことができる。

 中軽駅南口側はずいぶん住宅が増えた印象。

 

 

 下の写真は夕方散歩で出かけた浅間台公園(正式な公園の名前は知らない)。背景に浅間山が見えるのだが、雲がかかっていて石尊山が何とか見えるだけだった。

 


 帰りはいつも通り、発地市場によって野菜を買う。9時半に到着したのだが、とうもろこしは売り切れていた。横川のサービスエリアでは2本で500円近い値がついていたが(!)、発地ではいくらだったのだろう。

 

 

 発地でも浅間山は姿を見せてくれなかったので、かわりに帰り道で立ち寄った横川SAから眺めた妙義山。

 

 2026年7月17日 記

 

 

 

 岸田衿子(えりこ)・岸田今日子「ふたりの山小屋だより」(文春文庫、2001年)を読んだ。これも亡妹の遺品。

 岸田衿子、今日子姉妹が、毎夏を過ごした北軽井沢での思い出をつづったエッセイと青春時代の日記、そして谷川俊太郎を交えた三人の鼎談を納めた本である。

 

 岸田姉妹、父の戯曲家岸田國士(くにお)一家が住む別荘は「北軽井沢」の「法政大学村」にあるのだと思っていたが、冒頭の第 1章から「六里ヶ原の話」という題名で、「北軽井沢」など見出しには一切出てこない(文中では散見されるが)。岸田の山荘は、確かに最寄り駅は(といっても駅から徒歩3、40分もかかるらしい)草軽電鉄の「北軽井沢」駅だが、彼女らの主観ではあの土地は「六里ケ原」なのだった。ぼくにとって六里ケ原は、峰の茶屋から鬼押し出しに向かう有料道路の途中、浅間山の東側山麓のかつてはドライブインがあったあたりなのだが。

 しかも彼女らの住居は「別荘」でも「山荘」でもなく「山小屋」だった。軽井沢の奢侈な「別荘」とは区別する意味であえて「山小屋」と称しているようだが、山小屋といっても、名のある建築家が設計した北欧の水車小屋を模したという立派な建物である(口絵ページ)。

 本書刊行の2001年当時、衿子はこの岸田家の山小屋に住んでいたというから、名実ともに「別荘」ではない。

 

 この本を読んでいて、一番懐かしく思ったのは草軽電車の思い出をつづった文章だった。ぼくの珍蔵書である「草軽電鐵五拾年誌」(浜本幸之、軽井沢書林、昭和48年、下の写真)を横に置きながら読んだ。

 草軽電車は、新軽井沢(現在のJR軽井沢駅北口前にあった)から旧軽井沢、三笠、鶴溜、小瀬温泉、長日向、国境平(長野県と群馬県の国の境である)、二度上(勾配が急なため列車が二度行きつ戻りつをするのでこの名がついた)、栗平、北軽井沢、吾妻、嬬恋、上州三原、万座温泉口などを経由して草津温泉に至る軽便鉄道である。

 パンタグラフがカブトムシの角に形が似ているのでカブトムシと呼ばれた電気機関車が 1、2両の客車を引っ張ってゆったりと走っていた(らしい)。「五拾年誌」を見ると新軽井沢から北軽井沢駅までが約 1時間半、草津温泉駅までは約 4時間かかったようだが(昭和34年現在、26頁)、本書では軽井沢から1時間以上走ると浅間牧場につづく国境平駅に着き、そこからさらに 1時間近く走ってやっと北軽井沢駅に着いたとある(20頁)。「五拾年誌」では国境平と北軽井沢間は30分弱だが、戦前、敗戦直後の時期にはそのくらいの時間がかかったのだろう。

 著者たちは、草軽電車のスピードの遅さを「帽子を窓から飛ばされた人が、とび降りて帽子を拾ってまた乗っても間に合」ったと書き、線路わきで草花を摘んで戻ってくることもできたと書いている(19頁)。わが家では「尿意を催した乗客が飛び降りて線路端で用を足してからでも戻って乗り込むことができた」などと尾籠なエピソードが伝わっている。

 草軽鉄道はクルマ社会の到来、国鉄長野原線の開通とともに昭和35年に廃線になってしまった。

 

 

 

 岸田姉妹の山小屋は、その草軽電車の「地蔵川」駅から徒歩で3、40分の所にあった。地番は群馬県吾妻郡長野原町大字応桑字大屋原」とある(5頁)。

 この六里ケ原の崖上に建つ岸田の山小屋の崖下を流れる川は「熊川」といって、クマが出没することからこの名前が付けられたと書いてある。その地域の地名は「熊ノ内」といったそうだ(19頁)。あの浅間山麓の六里ヶ原のどこにそんな崖があって川が流れているのだろうか、ぼくには想像がつかない。「六里」というくらいだから、あのドライブインの24キロかなたにはそんな場所があるのだろう。

 掲載された写真を見ると川に降りる崖はかなり急な斜面で、ぼくが子どもだったころの(中軽井沢長倉の)獅子岩のせせらぎに降りる崖を思い出させた(163頁)。培風館山本山荘の山の下、獅子岩の地名の由来になった岩のあたりである。グリーン・ホテル下から獅子岩、星野温泉方面に向かって流れ、今は国営野鳥の森やハルニレテラス脇を流れて(おそらく)湯川に流れ込むあの川である。

 最近の熊出没騒動とは隔世の感があるのどかな熊の話題が何度か登場する。軽井沢はクマと人間の生息地域を隔離することに成功した地域のように言われているが、最近の六里ケ原あたりはどうなのだろうか。ぼくの子ども時代には鶴溜にまでクマが出没したため、星野より向こうに遊びに行ってはいけないと親から言われていた。

  

 北軽井沢の大学村の住人たちは「北軽井沢」を「軽井沢」と一緒くたにされることを嫌う人が多かったように思う。ところが、この六里ケ原にある草軽電車の駅名を「北軽井沢」に変更したのは野上弥生子の提案だったという(21頁)。かつてこの駅は「地蔵川駅」という名前だったが、いつも利用する駅名が「地蔵川」では暗いということから、軽井沢の北側にある避暑地なので「北軽井沢」に変えようと野上が提案して採用されたのだという(同頁)。

 この周辺にはもともと法政大学学長の所有する広大な土地があり、彼が大学教授たちにその土地を分譲したため多くの学者や作家、音楽家らが住み、「法政大学村」という共同体を形成し、独自の文化的環境を形成した。亡父の師の一人である田辺元もここに永住した。衿子は「変り者の哲学者」と書いていたが頁は見つからなかった。田辺と野上との老いらくの恋の話題なども聞いたことがあるが、本書には載っていない(ただし鼎談の中に大学村では恋愛問題がたくさんあったという発言があり、何かをほのめかしている。257頁)。

 ※ 衿子の随筆の中に、田辺が生活時間に厳格で、起床、食事、午睡、入浴、就寝の時間を1分たがえずに守っていて、郵便配達が定時に遅れると機嫌が悪かったことを紹介している(216頁)。

 

 しかし皇太子(現上皇)のご成婚で「軽井沢」が騒がれるようになったため、皮肉にも野上はこの地が「軽井沢」と混同されることを嫌ったという(22頁)。この地域を北軽井沢と呼ぶことには岸田姉妹も抵抗があるようで、山小屋の所在地を六里ヶ原と書き、軽井沢駅のことを K 駅とイニシャルで書いたりしている(60頁)。

 野上がかつてこの地を「北軽井沢」と呼ぶことを提案したのは、(ぼくの推測では)室生犀星、堀辰雄、芥川龍之介、川端康成らが集った「軽井沢」というアイコンないしブランドへの憧憬があったからではないか。それから数十年が経過して「ミッチー・ブーム」に便乗して人気になった頃の軽井沢にはもはやかつてのようなブランド力はなくなっており、野上は「北軽井沢」などと名のった過去の自分に嫌気したのだろう。「北軽井沢」の「軽井沢」は高度成長期以降の(現在に至る)軽井沢ではないのである。「北軽井沢族」が「軽井沢」を嫌うのは、軽井沢周辺の地域が軽井沢を僭称することを「軽井沢族」が嫌うのと裏返しの感情だろう。

 ※ 鼎談の中に「大学村」の由来を語った個所があるが、それによると(大正末期か昭和初期の)当時の大学村の土地価格は坪 1円で 1区画が500坪、月10円の50回払いで買うことができ、2区画購入する人が多かったという(262頁)。岸田國士夫婦が沓掛駅で野上弥生子夫婦に出会い、「われわれ貧乏教師でも夏の別荘持ちになれるかもしれない」と誘われたことが岸田一家の北軽井沢生活が始まるきっかけだった(261頁)。他方で、購入する人(の職業?)を選び尾上菊五郎の購入希望を断ったと話している。

 

 以下はエピソード風に、印象に残った話題だけを記す。

 かつて岸田山小屋の近くの滝原村で殺人事件が起きた。結婚を反対された男が彼女の住む同地で老婆二人を殺害したという(51頁)。その滝原村には小さな滝が無数にあって「千ヶ滝」と呼ばれているという。北軽井沢には、あの中軽井沢の千ヶ滝とは違うもう一つの「千ヶ滝」があったのだ。

 ぼくの記憶にある「軽井沢殺人事件」は、失恋した男(彼も確か北軽井沢に別荘をもっていた)が彼女(だったか)を殺した後に浅間山の火口に飛び降りて自殺したという事件だが(火口の中腹に横たわる遺体の写真が当時隆盛を極めていた写真週刊誌に載った)、別の事件だろう。

 

 この本には、多くの著名人との交流が登場する。

 谷川徹三の息子俊太郎は姉妹の友人であり(※衿子の元夫だった!知らなかった)、中勘助夫妻は衿子が偶然草軽電車の車内で乗り合わせたのだった。その時両者は言葉を交わさなかったのだが、後に「あの女性は岸田秋子さんの娘さんに違いない」と中が言っていたことを衿子は知ることになる。「秋子」は姉妹の亡母だが「ときこ」と読むことを知っている人は少ないので、衿子は驚いた。中勘助には追分を描いた「裾野」という随筆があるらしい(76頁)。読んでみたくなった。中勘助は野上の初恋の相手だったと何かで読んだが、本書では触れていない。

 その他の多くは父國士と縁のある人たちである。

 大学村では野上弥生子ら、文学座関係では北村和夫、小池朝雄、仲谷昇、杉村春子、中村伸郎ら、作家では三島由紀夫、大岡昇平、大江健三郎らが、文学座ではないが芥川比呂志、也寸志兄弟も登場した。彼らが早稲田のアイスホッケー部員の指導を受けてアイスホッケーチームを結成したなどという話もあった(56頁)。照月湖(姉妹は「お池」と呼んでいた)が凍ってスケートリンクになっていたらしい。※岸田山荘の近くには吉田健一の別荘もあり、作家たちはそこに集まったようである。

 舞台に関心のないぼくにとって中村伸郎、杉村春子は「晩春」「東京物語」「秋刀魚の味」など小津安二郎の映画のほうが懐かしい。そう言えば岸田今日子も「秋刀魚の味」以外は見た記憶がない。ぼくが大学卒業後に務めた出版社は新宿区須賀町にあったが、よく飲みに行った外苑東通り沿いの「どじょうや」には、稽古場が近くにあったので文学座の俳優たちもよく来ていた。他の飲み客との交流はなかった。

 

 今日子の戦後間もない頃の日記には1947年8月14日の浅間山噴火のことが出てくる(169頁)。気象庁HPによると、この噴火では登山客 9名が死亡したとある。今から振り返れば結構な大惨事だったのが、戦後ほどないこの時期にはそれほどの事件と考えられていなかった様子が日記の記述からは伺える。掲載された噴火の写真を見ると、ぼくが経験した昭和36年の噴火と同規模に見えるが、これでも「小規模」なのか(170頁)。

 そのほか、この本にはクマだけでなく山小屋周辺に現われる動物、昆虫、草花の話題も多いのだが、花鳥風月に縁のないぼくには紹介する気力がないので、すべて省略する。あしながくも、かまどうまなど記憶を共有する話題もいくつかあるのだが、逆に、わが亡母が好んだ実生の鬼百合や羊歯のことは出てこなかった(ように思う)。

 ※ その後一言書いておきたくなった。足長ぐも(108頁)は懐かしい。きつつき(102頁)にはわが家も外壁に穴を開けられ雨漏りの被害を被ったことがある。 蛇(91頁)にも塩沢湖か恩賀高岩でキャンプをしたときに出くわしたことがあった。熊(87頁)、ねずみ(96頁)には幸い出くわしたことはないが、猿には家の玄関先で鉢合わせになって威嚇されたことがある。虻(あぶ、87頁)はかつて貸馬屋の馬が近所を歩いていた頃はけっこう悩まされたが今では見かけなくなった。一昨年だったか、孫たちがブヨにやられて借宿の診療所に駆け込んだことがあった。30何か所も刺されて赤く腫れていた。

 ・・・・などなど、いろいろな記憶をよみがえらせてくれる本だった。

 

 2026年7月8日 記

 

 ※ 豆豆先生の読書室(旧豆豆先生の研究室)2009年4月7日付の「軽井沢高原バス廃線の旅/立教村」で、本書「ふたりの山小屋だより」を引用しながら岸田今日子は立教女学院の卒業だと書いたが、これは誤りだった。岸田今日子は自由学園高等科の出身で、岸田衿子が立教女学院(立教高等女学校)の出身だった。 

 

 

 

 ぼくが子どもだった昭和35、6年頃、夏休みの終わり近くに浅間山が大爆発したことがあった。

 その日の午後、ぼくの家族は西武百貨店千ヶ滝店前のバス停留所で東京へ帰るバスを待っていた。

 すると鼓膜に響くような鳴動、地鳴りがあって、何事かと思っているとバス停近くの別荘から人々が出てきて、「窓ガラスが振動で割れた」とか「浅間山が爆発したみたいだ」などと口々に話していた。見上げると確かに浅間山の山頂からは真っ白な入道雲(そう見えた)が湧き上がり、中腹の数か所から白くて細い煙が立ち上っていた。

 入道雲のように見えた噴煙はスローモーション写真のようにゆっくりと、しかしかなりの上空まで登って行った。しばらくすると噴煙は次第に白から灰色、黒、真っ黒へと色を変え、左右に広がり始めた。それまで晴れていた夏空はにわかに曇り、やがて空は夜のように真っ暗になり、バス停の屋根にもパラパラと小さな噴石が落ちてくるようになった。この間何度も雷鳴が鳴り響いた。降りはじめた雨は豪雨となり、灰を含んだ真っ黒な雨が地面を打った。

 こんな状況でもバスは運行した。定刻を遅れてやって来た東京行きの西武バスにぼくらは乗り込んだ。バスのフロントガラスはワイパーを回してもすぐに真っ黒になって視界を遮った。信号で停車するたびに随所で沿道の人たちがバケツの水をフロントガラスにかけてくれた。ぼくは地元における西武(国土計画)の実力を実感したものだった。

 碓氷峠(まだ上信自動車道はなかった)を下り、安中か磯部、倉賀野あたりまで黒い雨が降っていたように記憶するが、やがて普通の夕立のような雨になり、雨は東京まで降りつづいた。

 

 これが昭和35、6年ころのぼくの浅間山大噴火の経験である。

 その後何年間か旧軽井沢の軽井沢物産館の壁にこの噴火後と思われる浅間山が噴煙をなびかせているA4版かB5版くらいのカラー写真が飾られていた(売られていた?)。絵はがきなどでもこの噴火を写したものがあった。しかしその後は見かけなくなってしまった。土屋写真館にはあったかもしれない。

 ところが、亡妹の遺品を整理しているうちに、亡き祖父が軽井沢から亡母に送った絵葉書が出てきた(上の写真)。消印は「軽井沢 38・8・4 前8‐12」となっている。切手は水色の 2羽のカモの 5円切手が貼ってあり、郵便番号欄はない。昭和38年(1963年)8月 4日の午前中に投函されたものだろう。宛名書きの面の下段に「浅間山大噴火の瞬間 鬼押出しより撮影」とある。撮影者名はない。

 気象庁のHPから浅間山の噴火という項目を調べると、戦後昭和期に浅間山は数度の(中規模以上の)噴火をしている。ぼくの記憶する大噴火にあたりそうなものとしては、1958年11月10日 小規模マグマ噴火、1959年1月~ 複数回、1965年5月23日 水素噴火などがあるが、いずれも時期が違う。

 該当するのは1961年(昭和36年)8月18日14:41の「小規模 マグマ噴火」だろう。気象庁の記事によると、噴火場所は釜山火口(どの火口だろう?)、かなりの範囲に噴石、降灰があり、行方不明者1名(あの噴火で行方不明になった人がいたとは!)、耕地、牧草等に被害、噴出総量は7×104立方とある。

 

 当時あの噴火、爆発を西武百貨店千ヶ滝店前で目撃、実体験したぼくとしては、あの噴火、爆発が「小規模」というのは納得できない。火山学の世界ではピナツボ火山やキラウェア火山、ポンペイの町を廃墟としたベスビオ火山などの噴火レベルを「大噴火」というのだろう。浅間山でも、降灰、日照時間の減少による不作の影響がヨーロッパにまで及んでフランス革命の遠因になったといわれる天明 3年(1783年)の浅間山噴火のレベルを「大噴火」というのだろうが、昭和36年の噴火も「中規模」くらいでもよいのではないか。

 昭和36年の噴火以降、浅間山ではあれほど大規模の噴火は起きていないが、ぼくの人生のうちに2度とあのような噴火が起きないことを願うばかりであるが、最近の日本列島および近海の地下活動は不気味である。

 

 さて、冒頭の絵葉書には撮影日時が書いてないが、ぼくとしてはあの昭和36年8月の噴火の写真だろうと思う。山肌の一部が白っぽく見えるのは雪ではなく、火山灰が降ったものだろう。手前の落葉松(?)の緑の葉が写っているから季節は冬ではないだろう。消印が昭和38年であり、撮影者(出版者)が「大噴火」と書いているところからも、昭和36年の浅間山大噴火の瞬間で間違いないと思う。

 何といっても、噴煙の写真自体がまさにぼくの記憶にぴったり合致しているのである。

 

 2026年 7月 6日 記

 

 

 

 

 山口猛彦さんは画家である。ネットで調べると彼の経歴は以下のようである。

 山口さんは、1903年(明治36年)1月 1日佐賀県伊万里の生まれ、旧制佐賀中学校を経て上京し、1923年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事し、28年卒業。旧制松本中学校教諭をつとめたが、30年再上京し制作活動に専念し、33年第14回帝展に「黒い風景」が初入選、光風会に出品し、40年に会員となる。43年から陸軍報道班員としてシンガポール、スマトラに従軍、46年帰国後は光風会、日展に発表。1979年 6月 6日都立府中病院で死去(享年76歳)。

 ※ 「山口猛彦」で検索すると数件のページが出てくるが、どの紹介もほとんど(まったく)同じ文章である。しかも逝去の記事から書きはじめているから、何かに掲載された彼の死亡記事からの引用なのだろう(「日本美術年鑑 昭和55年版」282~3頁が初出か)。それらの記事を少し要約して引用した。

 

 わが家には昔から山口猛彦さんの絵が一枚ある。“T. Yamaguchi” のサインの下に「ー会津ー」と書いてあるように読めるが、正確には判読できない。会津なら背景の山は磐梯山、手前に見える青い水面は猪苗代湖だろう。タテ24cm×ヨコ34cm(上の写真)。隣りに添えたもう 1枚は山口猛彦「ビルフランシュの秋」(第64回光風会展)という生写真である(亡妹の遺品の中にあったが入手経路は不明)。

 実は、山口さんはぼくの子ども時代の「お絵描き」教室の先生だった。「教室」といっても先生のアトリエの一画で、ただ一人の生徒であるぼくは小一時間くらい先生に言われるままに絵を描いて、その間先生はご自分の絵を描いていた。そして帰りがけには毎回必ずぼくが描いた稚拙な絵の裏側に赤鉛筆で大きな五重マルの花マルをつけてくれるのだった。その時にぼくが描いた絵は一枚も残っていない。風呂の焚きつけにでもされてしまったのだろう。残しておく価値もないような絵だったと思う。

 

 当時ぼくの家族は世田谷の玉電山下の近くに住んでいて、先生の家は隣り駅の玉電松原の近くにあった。電車賃は確か小人5円で、ぼくは母親から五円玉を往復用に 2枚渡されて一人で玉電に乗って通った。

 当時先生はまだ売れない画家だったのだろうか、子ども相手の絵画教室をしていたようだが、この絵は彼に頼まれて2万円で買ったと生前に母から聞いたことがあった。玉電の小人乗車賃が 5円、石川屋のコロッケが 1個 5円、少年サンデーの創刊号が30円の時代だから、2万円はけっこうな金額だったのではないか。コロッケ4000個分を現在の貨幣価値に換算すると、現在コロッケが 1個100円として40万円くらいになる計算である。

 ぼくが通ったのは昭和30年代の初頭、1955、6年ころだから、山口さんは52、3歳だったのだろう。はっきりとした記憶はないがもう少しお若いように思っていた。ただし、子どもの頃は20歳以上の男はみんな「オッサン」に見えたものだから、山口さんの年齢には何の関心もなかった。

 ぼくの両親は山下に引っ越す前は戦前から松原 3丁目に住んでいたから、山口さんとご近所だったのかもしれない。山口さんは佐賀県伊万里の出身で旧制佐賀中の卒業だが、ぼくの祖父も佐賀県嬉野(旧吉田)の生まれで旧制佐賀中を卒業しているから、同郷、同窓の縁もあって知り合ったのかもしれない。 

 

 ネットで見ると山口さんの絵にはなかなか魅力的な絵もあるが、わが家の絵はやや寂しい印象である。

 山口さんの絵の多くは佐賀県立美術館に収蔵されているようなので貰ってくれるなら寄贈したいが、当面は断捨離しないでぼくの思い出の絵としてわが家で保存しておくことにしよう。

 

 2026年7月2日 記

 

  

 

 三浦篤「名画に隠された『二重の謎』ーー印象派が『事件』だった時代」(小学館101ビジュアル新書、2012年)を読んだ。

 印象派の登場をミステリー仕立てで紹介する新書である。著者は東大教授の美術史家と著者紹介にあった(ただし昨日の朝日新聞に掲載された三浦氏の記事では肩書が「国学院大学教授」になっていた)。絵画鑑賞のプロの眼から、ぼくのような一般人では見落としてしまう細部をうがった目で見つめ紹介する。帯には「まなざしの達人」とある。

 

 表紙にもなったマネ「笛吹き」では、画面の右下に描かれた二つの署名の謎(マネの意図)を推測する。その答えは、印象派の絵画の遠近法ないし平面問題(同色の床と壁の関係)にあったようだ。

 以下、アングル「オダリスク」の女性の長すぎる腰や「三本腕の女」に見られる「極度に人工的な絵画世界」を指摘し、それがピカソにまで影響を及ぼしたことを述べる。

 クールベ「画家のアトリエ」にはプルードンまで描かれているという(プルードン/新明正道訳「財産とは何ぞや」新人會叢書第3編、聚英閣、1921)。ぼくは民衆画家クールベがプルードンと交流があり、彼を描いていたことに印象を受けた。クールベには「1853年のプルードン」という作品もあるくらいだから(59頁)、二人の親交は深かったようだが、著者はこの絵に登場する「二人の少年」に事件性を見る。

 

 ドガ「見捨てられた人形事件」では、ドガ「男とマネキン人形」の制作意図に迫る。著者によれば、西洋絵画で空間を重層化する手法には「画中画」「鏡」「開口部(窓やドア)」の三つがあるという(73頁)。この絵では画中画も描かれていて、床にうち捨てられたマネキン人形は脇役のように見えるが、著者によればこの絵はドガの精神的自画像だという(85頁)。明るい「浴槽の女」の女性とこの絵の人形との対照に印象を受けた。

 ボナール「鏡の間の裸婦」事件では、ボナールの一連の裸婦画に多用された鏡を解明する。「逆光の裸婦」の画面には 4枚もの鏡(1つは水面)が登場するが、壮年期に描かれた鏡よりも、長年モデルを務めた女が亡くなった後でかつては彼女を映し出していた鏡に映った自分を描いた晩年の自画像にぼくは強い印象を受けた(103頁)。

 「闇にむかって開かれた窓」事件では、マティス「コリウールのフランス窓」の真ん中を上下に貫く「黒」の意味を検討する。この「黒」に関してはこれまでも美術史界で議論されてきたというが(117頁)、著者はマティスのこの黒とマネの「バルコニー」の黒との類似性を指摘する。さすが「黒」には事件が潜んでいるのである。

 

 

  ▲安藤広重「大橋の夕立」(主婦之友ゑはがき。これも亡妹の遺品) 

 

 ジャポニズムのゴッホ「花咲く梅の木」では、画面の両脇に縦書きされた漢字(ふうの文字?)から、絵画における「右側と左側」事件を取りあげる。この絵は広重「亀戸梅屋敷」を模したものだが、文字の出どころは歌川芳盛「江戸町一丁目…」と作者不詳「新吉原江戸町…」と判明しているが、そのままを模したものではなく漢字がデフォルメされている。著者はゴッホはでたらめに模したのではなく、左右のバランスを考えて(文字としてではなく)絵の一部として描いたものと推測する(132頁~)。ゴッホ「雨中の橋」(広重「大橋の夕立」の模写。上の写真)との異同もユニークな分析である。

 シカゴ美術研究所(!)に飾られたスーラ「島の日曜日」では、その質素な白い額縁の謎が探求される。実はこの絵には絵それ自体の縁に額縁のような縁取りがされているという。よく見ると確かに黒っぽい縁取りがある。しかしそれ以上に、ぼくはこの絵の大きさに驚いた。むかし座右宝刊行会編「世界の美術・マネ/モネ/スーラ」(河出書房。マネとモネとスーラで 1冊とは!)で見たこの絵はもっと小ぶりなタブロー版くらいかと思っていたのだが、タテ207cm×ヨコ308cmもある大きな絵なのだった(147頁)。そこに繊細な点描で光を描きこんだスーラの根気に感嘆した。

 最終章は、セザンヌ「カード遊びをする人々」をネタにして「右側と左側」事件を再論する。この章では、わが(!)カイユボット「べジーグの勝負」という作品がセザンヌとの対比でチョコッと登場する。セザンヌの脇役(引き立て役)のような記述で、「風俗場面に近い」と評されている。純文学 vs 大衆文学(ないし風俗小説)の対立を思わせるが、俗人のぼくは19世紀パリの一面を描写した「風俗画家」カイユボットのほうに心惹かれるのである。カイユボットは、サタデー・イブニング・ポストの表紙絵を書きつづけたノーマン・ロックウェルのフランス版のような感じがする。

 セザンヌの風景画をぼくはあまり好きではないが、この「カード遊びをする人々」はセザンヌの中では悪くない。

 

 著者は「あとがき」で、最近面白いと思える美術書が少なくなり、読みたいと思う本がほとんどない状況に立ち至ってしまった、一般向きで美術に目を開かせてくれる刺激的な本を書きたいと思って本書を執筆したと書いている(188頁)。

 「名画の影に事件あり」という帯のキャッチ・コピーは大げさすぎるけれど、本書は、著者のこの目標を十分に達成しているとぼくは思った。

 ーー久しぶりに読書感想文を書いた。

 

 2026年7月1日 記

 

 

 

 平山周吉「天皇機関説タイフーン」(講談社、2025年)を図書館で借りてきた。

 以前、平山が小津安二郎について語っているNHKのテレビ番組を見て、山中貞夫との関係などなるほどと思わされたことが平山を知るきっかけだったが、この本は朝日新聞に載った書評を読んで興味をもったのだった(朝日2026年2月7日付)。

 この書評の冒頭は、「戦争を起こして日本をこんなにしたのは軍人ばかりが悪いのではなく、日本中の男という男がみんな卑怯だったからだからです。」という美濃部達吉夫人美濃部民子の言葉の引用から始まっている。

 美濃部夫人にそんな発言があったとは知らなかったが、まったく同感である。昨今のわが国の状況も天皇機関説がやり玉にあげられていた1930年代に近づいているような気がする。唯一違うのは美濃部夫人は「男という男」が卑怯だったからだと言ったが、今日では男だけでなく「女という女」も含まれるようになったことくらいか。いや1930年代だって女も共犯か従犯だったかもしれない。

  

 とまれ、平山「天皇機関説タイフーン」を読み始めたが、最初の数十ページで行き詰まってしまった。 

 蓑田胸喜に関する記述に耐えられないのである。たとえ新しい側面から光を当てなければ独自性が出ないからといって、美濃部と蓑田を対等に扱うような歴史観にはぼくはついて行けない。美濃部は性格的に頑固一徹、融通が利かない人間だったのに対して、蓑田は家庭人としては善人だった、「気の小さな、どっちかといえば臆病な善人」だったというのである(朝日の書評もこの引用で結ばれている)。しかし、こんな論法で行けば、ヒトラー、プーチン、ネタニヤフだって誰かにとっては「善人」であるかもしれない。民主主義の側で戦ったルーズベルト、チャーチルだって「頑固」だっただろう。

 

 もう一つ、読んでいてがっかりしたのだが、宮沢自身がそう自己評価し、著者もそう理解する「小さい」人物である宮沢俊義の著書「天皇機関説事件」からの引用があまりにも多いのである。あの資料集に何か“Something New” を付け加えるとなると、蓑田あたりを膨らませるしかなかったのか。宮沢は蓑田についてどう書いていたのだったか。

 国家という組織が一種の「法人」(法的な権能をもつ主体)であり、元首である国王なり大統領がその「法人」の代表機関であることは法学生なら容易に腑に落ちるところであるし、蓑田が出てきて攻撃するまでは、官僚も軍人も宮中も誰もそのことに異を唱えていなかったのである。美濃部が天皇に敬意を抱いていたことも疑いない。明治憲法の存続を主張して、敗戦後の憲法制定議会で新憲法制定に反対票を投じたのは確か美濃部ただ一人だったはずである。

 

 蓑田が慶應大学を辞職した経緯や、戦後の晩年について知ることができたのは本書を読んだメリットか(150頁までだが)。

 もっと先まで読めば何か興味深いことが書いてあるのかもしれないが(著者あとがきでも触れている昭和天皇への言及など気になるが)、ぼくは何とか152ページまで読んだが、その先まで読み進める気力を失ってしまった。

 結局、朝日新聞の書評の紹介で知った美濃部夫人の寸鉄人を刺す至言がブーメランのようにわが身に刺さったことをもって本書からの最大の収穫としておこう。蓑田胸喜という今日では顧みられることもない人物の背後に、彼に便乗し彼を利用した政治家、軍人、官僚らだけでなく、多くの一般人がいたのである。それは現在も同じことである。

 

 奥付の著者の肩書が「雑文家」となっていた。一時期の川本三郎も「雑文家」と称していたように記憶するが(「売文家」だったかも)、こういう肩書はどう理解すればよいのか。

 

 2026年6月23日 記

 

 

 断捨離の一環で、近所の古本屋に古本の買取りを依頼した。買い取りというより引き取りの依頼といった方が正確かもしれない。

 亡妹の遺品を整理しながら、いざという時に備えて自分自身の身の回りの物も身体が動く今のうちに片づけておかなければいけない、という気持ちになった。思い出がなくはないが、残された遺族にとってはただのゴミだろう。何十年も前に、がんを患った伊藤栄樹検事が「人間は死ねばゴミになる」と言い放ったことがあった(伊藤「人は死ねばゴミになる」新潮社、1988年)。最近東京都の火葬場不足が問題になっているが、確かに遺体は扱いが厄介ではある。遺体を廃棄するわけにはいかないが、身のまわりの物は本人が生前に整理しておくべきだろう。

 思い出に浸っているわけにはいかない。ということで、何年間も読んだこともない、手にしたことすらない本、聞いたこともないレコードは処分することにした。根元書房、ポラン書房と近所の古本屋はいずれも撤退してしまったし、神田、本郷の古本屋を煩わすような本ではない。そこでたまに行くことがある隣駅の古本屋に買取りを依頼した。

 

 

 

 今回手放すのは数十年間ほったらかしの文庫本、新書、単行本、それにLPレコード、ドーナツ盤などである。

 文庫本では、阿川弘之「雲の墓標」「山本五十六」「米内光政」「井上成美」、豊田穣「長良川」、結城昌治「軍旗はためく下に」、原口統三「二十歳のエチュード」、高橋和己「現代の青春」(旺文社文庫!)、マルタン・デュ・ガール「生成」、「オブローモフ」、「家族の肖像」その他、単行本では、井上靖「わだつみ」、山本周五郎「五辨の椿」ほか、デュ・ガール「チボー家の人々」(全5巻、白水社)などなど。

 レコードは、桜田淳子、高橋真梨子、竹内まりあ、プレスリー、ジョン・デンバー、ビリー・ジョエル、エディット・ピアフ、ノーランズ、ピンク・フロイドその他のアルバムが2、30枚と、ドーナツ版はダイアン・リネイ「ネイビー・ブルー」、ジリオラ・チンクエッティ「雨」、ボビー・ソロ「頬にかかる涙」、キングストン・トリオ「花はどこへ行った」、ピーター、ポール&マリー「500マイルも離れて」、ブラザース・フォー「七つの水仙」などなど。

 ジョーン・バエズ「ドンナ・ドンナ」は残しておく。中学3年の英語の授業の時に教師に促されて歌って大喝さいを浴びた思い出の歌である。

 

  

 

 

 

 何十年か前に、平凡パンチ、週刊PLAY BOY などを50冊近く古本屋に売ったことがあった。1冊20円で引き取ってくれた。1冊200円で売るのだろう。神田のその手の古本屋では1冊1000円、2000円などの値をつけていることもある。その時、法学セミナーも同時に売ろうとしたのだが、法セミなどは売れないので自分で廃棄して下さいと言われて、ガクッと来た。

 「GORO」「劇写」などの誌名には記憶があるが、「スコラ」「プレイガール」などは忘れていた。これらの雑誌に載っている五月みどり、岸恵子、池坊保子、デヴィ夫人らのグラビアに値がつくとも思えないが、関根恵子あたりはどうだろうか。最近に比べるとずいぶん穏やかな写真ばかりが並んでいる。

 売られた本は、古本屋の店頭でどんな読者と出会うのだろうか。今回も桜田淳子は残すことにした。

 

 

 

 平凡パンチその他と「チボー家の人々」とを並行して買って読んでいた当時が偲ばれる。パラパラとページをめくってみると、鄧小平によって失脚させられた華国鋒が復権をめざしているなどといった硬派の記事もけっこう載っている。そんな時代だったのだ。

 どちらかというと、平凡パンチよりは「チボー家の人々」を手放すことのほうが心が痛む。18歳の頃のぼくの心をとらえた本だったから。亡妹の遺品の中に白水社新書版の「チボー家の人々」があったので、読めなくなるわけではないが、やはり実際に読んだ本とは違う。

 買い取りに来た古本屋の青年が重い本の束を何度かに分けて小型車に積み込んだのだが、運転席に高齢の男性が座って待っていた。そのうちにその男性も車から下りてきて立ち話をした。何と、ぼくの出た小学校の 2年先輩ということだった。彼はどのような人生を経て古本屋を開業するに至ったのだろう。きっと本が好きだったのだと思う。

 

 2026年6月21日 記

 

 

 

 妹の遺品に中にあったフランスの我楽多、今回は旅行用の携帯時計。

 ※ちなみに「フランスの我楽多」第 5回は今年 4月10日付け「タンタンの冒険」。

 

 19世紀か20世紀初頭のような黒革に濃茶色のベルトのついた旅行鞄のミニチュアである。外寸は7㎝×9.5cm×4㎝ の小ささ。

 “Royal Hotel Sorrento”、“Edelweiss Train Pullman”、“Holiday Tours”などと読めるステッカーまで貼ってある。

 開けると、上蓋の裏側に“New YorkーParis Flight” と書かれた地図と飛行機を描いた絵が貼ってあり、トランクの本体部分が時計になっている。

 時計の隣りには、“Spirit of St.LouisーーTravel Alarm Clock Made for S.O.S.L Collection” と書かれた銀色の四角いプレートと、“SPIRIT OF ST.LOUIS” と書かれた飛行機のイラストのついた楕円形のプレートが貼ってあり、アラーム用とスヌーズ用のスイッチが付いている。

 文字盤を持ち上げると内部は配線がむき出しになっていて小さな電池も見えているのだが、残念ながら電池は切れているらしく時計は動かない。電池は日本では見かけないサイズで、単4よりも小さくて短い(Alimentation Electrique:1X1.5V AAA/UM-4 Battery とある)。取り出し方も分からない

 

 

 

 トランクの裏面には、“SPIRIT OF ST.LOUIS TRAVEL SERIES ALARM CLOCK” “PF Product”  と書かれたステッカーが貼ってあり、最後に“Made in China” とある。ちょっとがっかり。

 リンドバーグの大西洋横断飛行(パリーニューヨーク)にあやかったモデルなのだろう。黒革のトランクもその折にリンドバークが持参した愛用の物を真似たのかどうかは分からない。

 

 高校以来の友人で骨董マニアがいて、以前「骨董展」でリンドバーグが佐賀県に飛来したことを記念する展示をしていたことがあったので、彼に貰ってもらおうかと思う。捨てるのはもったいないし、どこかに欲しい人はいるのではないかと思うのだが。

 

 2026年6月8日 記

 

 

 

 妹の遺品から一つ。旧軽井沢にある草木屋の「草木染め」という染め物のコースター(だろうか)が出てきた。

 雪化粧した浅間山を背景に、これまた雪をかぶった落葉松の木立がグレイに染められている。

 裏面には、「浅間とからまつ 松煙」と手書きされて、「松煙」には「アイ」と振り仮名が振ってあり、右下に「草木屋」の朱印が押された裏紙が付いていた。

 栞が入っていて、「湿気を帯びると斑点ができることがあるので時々風にあててください。・・・ビニール袋のまま保存しないで下さい」と注意書きがある。

 しかし妹は使うこともなくビニール袋に入れたまま飾っていたが、幸い斑点は出ていなかった。

 

 いつごろ買ったものかは分からないが、栞には「草木屋 軽井沢夏期店 軽井沢町旧軽井沢27」とある。調べてみると、草木屋の軽井沢店は、昭和12年(1937年)に旧軽井沢本通り沿いに近藤長屋ができた時にこの長屋の一画で開業したとあるから、旧軽井沢27番地は近藤長屋の番地だろう。

 近藤長屋には土産物屋や雑貨屋などが入っていたが(蕎麦屋もあったか)、ぼくの記憶にあるのは峠の力餅を食べたお茶屋である。堀辰雄の旧軽を舞台にした小説(どれだったかは忘れた)に力餅屋の子どもが登場するものがあったが、あの力餅屋は近藤長屋の力餅屋だったのだろうか。

 

 近藤長屋は2004年(平成16年)に取り壊されたため、近藤長屋に入っていた草木屋夏期店も2003年秋をもって閉店し、70年の営業を閉じるとあった。

 したがってこの染め物のコースターも2003年以前に買ったものだろう。2003年からでも四半世紀近く経っているが、実物はもっと年季が入った印象だから、昭和の物かもしれない。ぼくは冬の軽井沢をほとんど知らないので、できれば初夏の緑の落葉松と浅間山の風景が描かれていたらよかったのだが。

 ネットで見ると、草木屋は現在では旧軽のテニスコート近くの通りで営業しているようだ。

 

 2026年6月7日 記

 

 

 

 妹の遺品のなかに、ヒチコックの「見知らぬ乗客」という映画のDVDがあった。「ヒチコック DVD コレクションーーオトコの休日(第2弾)」と銘うったシリーズの一巻らしい。“L・W・HARPER” の広告が入っていて「非売品」と表示がある。ウィスキーの販促グッズだったのか。

 列車に偶然乗り合わせた見知らぬ二人の男が、一方は妻を、他方は父を殺したいと思っていて、動機を隠しアリバイを作るために、それぞれ殺す相手を交換して殺害を試みる。ストーリー展開は平凡、サスペンスもなく、そもそもそんな見知らぬ相手との間で交換殺人の合意などできるだろうか、という疑問をぬぐえなかった。途中でやめた。

 

 

 

 同じく妹の遺品の中のモーパッサン「脂肪の塊」(新潮文庫、青柳瑞穂訳)を読み出したが、これも数ページでやめた。若き日の広津和郎がモーパッサンを訳していたので興味をもったのだが、冒頭がまどろっこしすぎて読み進める意欲を失った。さっさとヒロインの娼婦を登場させろよ!と誌面に向かって叫びたくなった(叫ばなかったけれど)。

 

 

 

 そして、サマセット・モームの「英国諜報員アシェンデン」(新潮文庫、金原瑞人訳)である。最近のわがトイレ文庫の愛読書だが、「裏切り者」を読み出したらやめられなくなり、トイレから持ち出して「その背後で」「コインの裏表」「シベリア鉄道」「愛とロシア文学」「ハリントンの洗濯」と読んだ。「英国大使」は先般読んだばかりなのでスルー。

 もう何回目の読書か分からないが、今回も面白かった。「シベリア鉄道」と「ハリントンの洗濯」はヒチコック「見知らぬ乗客」と同じ列車内で同席した見知らぬ乗客同士の物語だが、ヒチコックとは雲泥の差である。乗り合わせたアメリカ人乗客に向けられた冷ややかで透徹したモームの観察眼が鋭い。

 文芸評論家の世界での評価は知らないが、ぼくにはモーパッサンよりもモームのほうがはるかに好みに合っている。

 

 2026年5月28日 記