映画「人生は長く静かな河」 (“La vie est long fleuve tranquille”)を見た。

 テレビデオというのだったか、ブラウン管テレビの画面下に VHS ビデオの挿入口がある受像機?が残っていて(下の写真)、コンセントを入れてみたら動いたので、VHS版で見た(日本ビクター、1988年、字幕スーパー、本編87分)。

 「リュック・ベッソン セレクション」というシリーズ名がついていたので、彼の監督作品かと思ったら、彼がこの作品を推薦する映像がついているだけで、監督は別人だった(エディエンヌ・シャティリエーズ監督とあった)。

 

 

 

 テーマは産院(産婦人科開業医)における新生児の取り違えである。

 裕福な会社員の家族のもとに生まれた男の子が貧しく教養もない白人家族に引き渡され、その貧しい家族のもとに生まれた女の子が裕福な家族に引き渡され、12、3歳まで育てられる。

 普通の赤ちゃん取り違え事件が医療側の過失によるのものであるのに対して、この映画では、産科医師の愛人だった看護婦(助産婦?)が、自分を棄てた医者に対する逆恨みから故意に赤ちゃんを入れ替え、しかも10数年後にその事実を当該家族にばらしてしまうのである。

 事実を知った裕福な家族は金銭を支払って自分たちの男の子を引き取り、それまで育ててきた相手方の子である女の子も今まで通りに育ててゆく。

 引き取られた男の子は表面上は裕福な家族に溶け込み、中産階級の文化にも対処しているように見えたが、仮病で学校をさぼったり、家の銀食器を持ち出してかつてのワル仲間たちに奢ったり、未成年なのに酒を飲み、シンナーまでやる。さらに、両親が隠していた出生の秘密を女の子に話してしまう。女の子は血縁上の両親ときょうだいの現実を知って衝撃のあまり家出をする。

 

 

 似たような事案は、かつて日本でテレビドラマ化された沖縄の赤ちゃん取り違え事件にもみられた(芸人のゴリが主演だった)。一方は普通のサラリーマン家庭、他方は経済的に困窮する家族だったが、沖縄の貧しい親は子を愛する気持ちが強かった。裕福な家族(とくに母親)は本心では二人とも引き取りたかったが、お互いに子どもを交換して血縁上の親に引き渡すことに合意した。貧しい家族に引き渡された子は、その後も(それまで)養ってくれた家に入り浸っていて、血縁上の母親を嘆かせた(と記憶する)。

 それに比べると、この映画では貧しい家族をややステロタイプ(「貧しい家族」とはこんなものだ)に描きすぎている印象だった。この女の子の血縁上の家族が、無教養で、経済観念もなく、厚化粧のいかにも下品な家族として描かれていて、この家族が登場しては下品な言動に及ぶたびに不快感を禁じえなかった。

 

 ただこの映画は、20世紀末のフランス社会の一面を知ることができる内容だった。

 冒頭は、移民に反対するテロリストが移民(アラブ人)の車を爆破するシーンから始まる。貧しい家族の父親は、アルジェリア戦争で負傷したため働かずに家でぶらぶらしている。住んでいるのは「団地」(と字幕にあった)の一室である。大義なきアルジェリア戦争が旧植民地を侵略した側の人間に与えた傷跡が伺えるエピソードであった。そんなフランス人(白人)もいたのだろう。 

 これに対して、裕福な家族は、車寄せのついた広い前庭があり、玄関のドアは3メートル近い高さがある家に住み、子どもたちをカトリックの学校に通わせ教会の行事にも参加させる。夏のバカンスにはステーションワゴンでヨットをけん引して海辺の別荘に出かける。「裕福」と言っても電力会社の部長職である。フランスではそのくらいのサラリーマンがあのような家に住み、あのような生活を送っているのだ!

 

 いずれにしても赤ちゃん取り違えは、とくに子どもが思春期になってから発覚した場合には取り返しのつかない悲劇を生む、あってはならない事件である。本映画の結末は、「えッ、これで終わるの?」という思いを否めなかった。エンドマークから話(人生?)は始まるという映画の典型だろう。

 

 2026年5月8日 記

 

 

 

 河出書房から出ていた(今も出ている?)「文芸」が4冊残っていた。

 上の写真は1965年8月号。4巻 4号とあるから「文芸」は4年前の1962年4月が創刊号だったのだろう。新しい文芸誌だったのだ。

 1965年にぼくは中学3年生である。父親のもとには月刊誌が何誌も毎号送られてきたが、その中でも「文芸」は独特のサイズが印象に残っている。新書版より一回り大きいが、「中央公論」や「群像」などよりは一回り小さい。先日買ったW. S. Maugham “Of Human Bondage” などとほぼ同じサイズか。軽装版、無線綴じで約 300頁、何判というのか分からいが、まさにポケットに入りそうなサイズである。そう言えば学習研究社の「中 3コース」も無線綴じをウリにしていた。

 

 懐かしいので、そのうちの2冊を取っておくことにしたが(断捨離ルール違反!)、その 1冊が1965年8月号である(上の写真)。表紙は井上光晴。2、3日前のNHKテレビで瀬戸内晴美の生前のドキュメントを放映していたが、その中に井上の墓が写っていた。

 丹羽文雄が表紙のもう 1冊はまた改めて。

 

 この号を残すことにした理由は(大したことはないが)永井龍男の「蝶という短編が載っていたこと。

 目次についていた「日々の暮らしの中でほのかに通い合う老夫婦の心理」というキャッチコピーにつられたのと、以前に読んだ川本三郎の「荷風」ものの何かに、次は永井龍男を書こうと思っているといった趣旨の一文があり、永井というのはどんな作家なのか気になっていたこともある。

 永井の書いたものは、「回想の芥川賞(・直木賞も?)」(文春文庫)しか読んだことがなかった。作家になりたいと思っていた大昔のことである。

 

 「蝶」は鎌倉に住んでいる老作家夫婦(著者本人だろう)の梅雨前の何日かを描いているが、それほどの興趣はわかなかった。わずかに、最後の一文、「主人がこの世を去った後も、こういう一日がありそうであった。」というのに呻った。

 どちらか一方がいなくなってもこんな日常がつづくのだろう。

 

 2026年5月7日 記

 

 

 

 連休の初日。

 ニュースによると関越道は嵐山で26キロの渋滞とか。午後5頃には上りが45キロの渋滞などと恐ろしい予想をしていた。

 

 今朝は 4チャンネル(NTV、日テレ)のニュースで、現在の浅間山が写っていた。画面で見ると 7時38分だったらしい。

 数日前に朝のNHKニュースで見た浅間山よりも雪が増えていた。昨日は東京も寒い雨だったから、浅間山では雪が降ったのだろう。数年前の5月の連休明けに軽井沢に行った時も、中部小学校の桜並木の向こう側に見えていた浅間山に今日くらいの雪が残っていた。

 中部小学校沿いの桜は、今年はどうなっているのだろうか。

 

 以前は軽井沢スケートセンターの職員が開設していたHPで毎日の浅間山を眺めることができたが、その後そのページはなくなってしまった(と思う)。その後どうなっているのだろうか。その代わりNHKのニュース天気予報でしばしば浅間山が映される。

 軽井沢スケートセンターも、大規模な変容を遂げるらしい。ボート池越しの浅間山なども見られなくなってしまうだろう。ボート池の西南側の国旗掲揚台の付近にあった世界スピードスケート選手権開催を記念したアスリート像などは今でも残っているのだろうか。

 改修前にぜひ一般開放してほしいものである。

 

 2026年5月2日 記

 

 

 

  妹の蔵書だった「モネ」(高階秀爾監修、創元社、2010年、第10刷)の中に、大原美術館の卓上カレンダー(何年のものかは分からない)の 5、7、8、10月の 4枚だけが挟んであった。印象派つながりだろう。

 

 


 描かれた年代順に並べると、5月のコロー「ラ・フェルテ・ミロンの風景」(1855‐65)、8月のピサロ「ポントワースのロンデスト家の中庭」(1880年)、10月のモネ「積み藁」(1885年)、そして7月のセガンティーニ「アルプスの真昼」(1892年)である。

 それぞれ裏面に、学芸員(柳沢秀行氏)の解説がある。素人にも分かりやすい。

 例えばピサロは、8回開催された印象派展のすべてに出品した唯一の画家で、ルノワール、ドガらよりも年長だった彼は、温厚な性格もあってグループの兄貴分のような存在だったとある。

 コローは18世紀(1796年)に裕福なパリの商人の家に生まれたが家業を継がずに20歳のころから本格的に画業に専念したとのこと。去年の夏に小諸懐古園で見た小山敬三を思い出す。彼も上田だか小諸の裕福な商人の家の生まれだった。

 そして、モネ。光をとらえる彼の技法は「筆触分割」と「網膜混合」というそうだ。この絵は大原美術館に収蔵されているモネの絵の中でこれらの技法がもっともよく分かる絵だとある。「筆触分割」「網膜混合」はぼくには分からないが、この絵は「風景としての人物」というモネの特徴がよく実感される。

 最後はセガンティーニ。この名前をぼくは知らなかった。「もっと知りたいモネ」(東京美術、2010年)の「モネの交友関係図」にも登場しない。解説によれば彼(ジョバンニとあるから彼だろう)は北イタリア出身の新印象派で、この絵はスイスの農場風景を描いたものだという。

 

 いずれもヨーロッパののどかな田園風景を描いて、それぞれ特徴的な絵である。

 妹も12枚のカレンダーの中からこの 4枚が気に入って、モネの画集に挟んだのだろう。

 

 2026年5月1日 記

 

 

 

 「軽井沢ーー緑のおたより」(令和8年4月15日)は軽井沢町が発行している広報誌(上の写真)。

 

 浅間山の頂上付近はまだ雪をかぶっているものの、麓のほうには桜の花が咲きほこっている。桜にしては花の色が少し鮮やかすぎる印象なので、違う花かもしれない。

 それよりも、こんな景色を撮影した場所は軽井沢のどこだろうと考えているうちに、この写真は合成ではないかと思い至った。浅間山は町役場あたりからの山景だが、桜(?)はどこだろう? PR誌には撮影場所の記載はなかったような・・・。

 

 何年か前の桜の季節に軽井沢に行ったことがあったが、中部小学校の道路沿いの桜がちょうど満開で、校舎の遠く向こうには山肌に雪が残っている浅間山がくっきりとみえていて、その浅間山を背景に桜の花が美しく映えていた。

 ぼくが見た最も美しい桜の景色の一つだった。

 

 先日のNHKテレビ朝のニュースに写っていた浅間山はもっと雪も少なくなっていた。

 そろそろ軽井沢に行きたいが、連休中は混んでいるだろうし、この連休は身辺多忙でなかなか時間を見つけられない。

 

 2026年4月30日 記

 

 

 

 旧軽井沢本通りの、今はなき軽井沢物産館で買った絵葉書。

 「立子」とサインが入っているが、作者の名前は記載がない。

 

 物産館ではバラ売りの絵葉書をこういう和紙の包装紙(カバー)に包んでくれたのだった。

 物産館と言えば、軽井沢の浅間山や白樺林を描いた水彩画の絵葉書を思い出す。使わずに大事にとっておいた絵葉書がもう 1、2枚探せば出てくると思う。

 鳩の形をした赤く塗られた砂糖壷もいくつか買った。最後の頃は店頭で神津牧場の牛乳を飲むだけだった。そう言えば入口に大きな牛の置物が置いてあったか。

 昭和37年だったかの(最後の)大噴火の後の、青空を背景に白煙をたなびかせて秋の浅間高原にゆったりと裾野を伸ばした浅間山を撮った Ā 4 判くらいのカラー写真が店内に飾ってあった。売り物だったように思う。あの大噴火も知らない人のほうが多くなっただろう。物産館すら知らない人が増えただろうから。

 

 昭和30年代にティーン・エイジャーだったぼくは、堀辰雄や室生犀星の(昭和戦前期の)軽井沢を遠い過去のように思っていたが、たかだか 2、30年前のことだったのだ。今年は昭和100年とか言っているから、あの頃から60年以上も経ったのだ! ぼくにはついこの前のことのように思えるのだから、歴史の遠近法というのは不思議なものである。

 笠智衆のせりふの通り(「カルメン故郷に帰る」)、変わらないのは浅間山だけである。

 

 2026年4月30日 記

 

 

 

 

 旧軽にあった軽井沢物産館で買った絵葉書が見つかった。表面(宛名書きの面)に「落葉松の秋・軽井沢・さとうきよし木版」とあり、郵便番号は 5桁になっている。郵便番号が 5桁というのはいつ頃だったのか。

 一緒に出てきた官製はがきもアップしておく。物産館の向かいにある軽井沢郵便局で買ったご当地発行の葉書である。「浅間山 冬 碓氷バイパス料金所附近 軽井沢郵趣会」とある。碓氷バイパス料金所というのはどの辺りだろうか。こちらの郵便番号欄も5桁で、葉書の郵便料金は40円ある。 (2026年5月1日 追記)

 

 

 

 「巴里映画」配給の洋画(フランス映画?)、その 2回目。

 「バンカー・パレス・ホテル」(原題 “Bunker Palace Hotel”)と “Hotel du Paradis” という2本の映画の宣伝用絵葉書セットが見つかった。

 今回のセットも、スチール写真2、3枚と水彩のイラスト画が1、2枚入っていた。

 「バンカー・パレス・ホテル」には珍しく邦題が入っていただけでなく、「近未来サイコウのおもてなし」というキャッチフレーズまで入っていた。どんな映画か知らないが、スチールやイラストからは不気味な映画の雰囲気が漂っていた。

 もう1本の “Hotel du Paradis” のほうは題名通り、内容的にも「楽園のホテル 」だといいのだが。

 

 2026年4月29日 記

 

 4月9日付のこのコラム「人生は長く静かな河」で、「巴里映画」はその後廃業してしまったと聞いたと書いたが、ネット上では現在でも「巴里映画」に関する書き込みが見られるから、現在でも営業しているようだ。私が話を聞いた妹の友人もフランス滞在歴が長く、創業者とも交流があった人なので間違いはないと思うが、巴里映画の創業者が配給事業から撤退してしまったということで、「巴里映画」が会社として廃業したのではなかったのかもしれない。聞き間違えだったとしたら、お詫びして訂正します。

(2026年5月6日 追記)

 

 

 

 中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)を読んだ。手元にあったのは1970年の第14刷。その頃に読んだのだろう。

 中島は文芸評論家で、当時のぼくの印象ではリベラル側の人間だった。ただし1970年代当時中島の著作を読んだことはなく、おそらく新聞や雑誌に載った随筆か文芸評論をいくつか読んだだけだった。

 しかし、現在ではあまり素直な気持ちで中島を読むことはできない。なぜなら、ぼくは60歳を過ぎてから山本周五郎「小説の効用」(新潮社、山本周五郎全集30巻、1984年に収録)で、中島の「大衆文学」批判の発言を知って愕然とさせられたからである。山本の引用が正確なら、中島は(青野季吉らとの)座談会の中で、「大衆文学は捕物帖で代表される・・・まげ物といっちまえばいいんだ」、「日本大衆小説にはヒューマニズムがない」、「ただ封建的だけだよ」、「いってみりゃ大衆小説とはパチンコみたいなもんだろう」、「今の新作大衆小説は読むに堪えないね、ろくなのはないよ」などと発言したらしい(「中島健蔵氏に問う」20頁)。

 おそらく「大衆文学」の中にはそんな調子のものもなくはなかっただろう。しかし少なくとも山本の作品はそのようなものではなかった。山本周五郎を「ニッポンのドーデ(だったかメリメ)」と評価した評論家もいた(ぼくも同感)。中島の発言を読んだ山本の憤りはいかばかりだっただろう。山本は自らの小説を「娯楽小説」と称していたが、読者の読書欲に応えるのに、「大衆小説」も「純文学」もないだろう。高校生の作文程度の愚にもつかない「純文学」は山ほどある。モーム(だったか)が言ったように、シェークスピアやディケンズだって発表当時は大衆作家だった。

 

 この山本の文章を読んで以来、ぼくは中島健蔵という人をあまり好意的に見ることができなくなってしまった。

 ぼく自身典型的な「昭和」世代の人間だと思っているので、今回は岩波新書を断捨離するに際して、「昭和」という時代を振り返るよすがにしたいという思いから中島「昭和時代」を読み直すことにした。そして中島が戦前には東京帝国大学文学部仏文科の講師だったことを知った。理由が書いてあったかどうか忘れたが、戦後になって東大をやめて文芸評論家に転身したようである。

 少年時代に目撃した関東大震災における朝鮮人虐殺にショックを受け、日中戦争に向かう当時の「国民感情」に強い違和感を感じ、美濃部達吉「天皇機関説」に対する右翼側の攻撃あたりを転機として言論統制に向かう社会を憂うるのであるが、積極的に自由主義を擁護する活動を展開するわけでもない。ナチスが国民の支持を得たのは社会民主党の失敗のせいであるという文章もあった(134頁)。

 これらの指摘に関しては、ぼくは中島の回顧に強く共感した。ぼくは昨今の「国民感情」に対して強烈な違和感を感じている。そしてその背景にあった(おそらく社会党から)民主党、立憲民主党に至る戦後野党の失敗を思わずにいられない。関東大震災後の排外主義の風潮、財界と癒着した政党の腐敗、経済的不況と軍国主義の台頭などと、1930年代が忍び寄っているようにぼくには思われる。

 

 結局「昭和時代」の中島は象牙の塔の人だった。上記の「大衆文学」批判もおそらくフランス文学を専攻した彼の本心から自然に出た言葉だったのだろう。戦時中に時局に迎合して戦意高揚小説を書いた「大衆小説」家も多かっただろう。山本周五郎が戦時中にどのような小説を書いていたのかは知らないが、山本がそのような小説を書いたとも思えない。しかし時局便乗の作家は「純文学」の側にもいくらでもいた。火野葦平のような責任の取り方をした作家もいたが、多くは何事もなかったかのように戦後社会に生き延びた。その点では「大衆文学」も「純文学」もなかっただろう。

 中島「昭和時代」からは、彼が昭和27年ころに考えた昭和時代の中間報告を聞くことができたが、もし彼が現存するとしたら、「令和時代」をどのように書くだろうか。

 

 2026年4月25日 記

 

 

 

 東京駅八重洲口のアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)でモネ展「クロード・モネーー風景への問いかけ」を見てきた。今年はモネの没後100年にあたるそうだ(1840~1926年)。

 ウィーク・デーの午前中にもかかわらず、かなりの人出だった。高齢者ばかりでなく若い人もけっこう来ていた。いまだにモネは人気があるのだ。

 

 

 

 

 妹の旧蔵書の中に何冊かモネの画集や、以前のモネ展のパンフがあったので、事前に予習してから出かけた。

 一番読んだのはシルヴィ・パタン著/高階秀爾監修「モネーー印象派の誕生」(創元社、1997年)で、安井裕雄「もっと知りたいモネーー生涯と作品」(東京美術、2010年)にも目を通した。フランス語の本もあるのだが、残念ながら挿入された写真を眺めただけ。

 かつての「モネ展」(ブリヂストン美術館、チケットに 2月11日~4月7日とあるが年号は記載なし)、「モネ名作展ーーフランス印象主義100年記念」(東急百貨店本店、10月2日~10月21日、第1回印象派展覧会から100年なら1974年か)の絵葉書も数枚あった(下の写真)。

  

 

 

 

 ぼくが参考にした「モネ」(創元社)の表紙は「日傘の女」の左向き版だったが、今回のモネ展のチケットは「日傘の女」の右向き版。会場入口わきに下がった垂れ幕スクリーンも、会場を入ってすぐの案内板もこの絵で統一されていた。

 事前に読んだ本は 2冊ともモネの生涯に従ってほぼ年代順に作品が並べられていたが、今回の展覧会は「風景画と近代生活」「四季の循環と動きのある風景」などといったテーマに従って作品を配列していた。事前に予習をしていったらヤマが外れた試験問題に出会った感じだが、配列に従って眺めながら順路を歩いていくことにする。

 ※帰宅してからパンフを見直すと、テーマ別と言いながら、1860年代から始まって1870、80、90年代、そして1900年代のジヴェルニー時代と、一応年代に従っていたことに気づいた。所々にモネ以外の画家の作品が飾ってあったが、「ジャポニズム時代」などは広重の浮世絵は並んでいながら、モネのあの有名な真っ赤な着物をガウンのように羽織った女性の絵はなかった。

 

 まずは初期のモネに影響を与えた画家たち(ブーダンら)の作品から始まって、モネの初期1860年代の作品が飾ってある。

 その中にコローの「ヴィル・ダヴレイ」という風景画があった。ヴィル・ダヴレイは映画「シベールの日曜日」の舞台だろう。原題は「ヴィル・ダブレイの日曜日のシベール」(“Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray”)だった。映画で見たヴィル・ダブレイよりも鬱そうとした森の絵である(下の写真)。

 モネは10代から絵の才能を発揮しており、授業中の落書きやデッサンも残っているようだが(「モネ」創元社、18~19頁)、それらの習作はなかった。むかし読んだオルダス・ハックスレーの「辞書の落書き」というエッセイに、高校時代のロートレックが余白に様々な落書き(デッサン)をしたラテン語辞書が古書店に出ていたというエピソードを紹介していたのを思い出す(朱牟田夏雄「英文をいかに読むか」文建書房に収録)。「栴檀は双葉より芳し」である。 

 

 

 

 原則として撮影自由となっていたが、混雑していたので落ち着いて写真を撮ることはできなかった。

 以下は気に入った絵というよりは、比較的人混みが少なく撮影するゆとりがあった絵をアットランダムにアップしておく。 

 モネは2000作品のうち、1800作品が風景画だということで、今回の展覧会もモネの風景画が中心だった。

 彼は水、海、雪、田園風景を好んで描いたが、その中から雪景色を2作。上の絵は「オンフルールの雪道」。遠近法を拒否したことを印象派の特徴の一つとして指摘する記述を見かけたが、この絵は(一点消失の)遠近法で描かれている。下の絵は「カササギ」と題されていて、農家の柵にカササギがとまっている。中国北京の郊外やソウルの市内でもカササギの巣を見たが、日本にもいるのだろうか。

 

 

 

 

 意外なことにモネはイギリスも旅して、ロンドンの風景を何点か描いている。

 ノルマンディで生まれ、ジヴェルニーで亡くなるまで、パリにはほとんど住むことなく、パリを描くこともほとんどなかったという、そのモネが描くとロンドンも田園地帯のようである。下の絵は「チャリング・クロス橋」で、背景にうっすらと見えるのはビッグベン(国会議事堂)である。ぼくが読んだ参考書によると、モネは風景に映り込む工場などの近代建築物を意図的に排除して描いたというが、イギリスの議事堂は「近代」建築ではないのかも。

 ※ イギリスの国会議事堂は1859年の完成だった。なお、参考書の中にモネはターナーの影響を受けたと書いたものがあった(漱石「坊ちゃん」の「ターナーですな」)。そう言われてみればこの霧(スモッグ?)に煙ったチャリング・クロス橋もターナーを思わせる。

 その次は、数少ないパリを描いたモネの作品、「モントルクイユ通り」。参考書によれば、モネは旗が好きでこの絵は旗を描いた絵だそうだ。

 

 

 

 

 最後は、今回の展覧会の最大の目玉である「日傘をさす女」。

 この絵には女性の顔の右向き版と左向き版がある。若くして亡くなった最初の妻を追憶した作品だが、モデルは亡き妻の妹か姪だったので、顔は描かれてない。ぼくは同じ構図で生前の妻と子どもが一緒に描かれた絵のほうが好きだが、今回は展示されていなかった。モネは「風景としての人物」を描くことを目ざしたというが、この絵の女性は風景と風と一体となっている。

 

 

 

 最後に、友人のルノワールが描いたモネの肖像画。

 「モネ」(東京美術)の表紙裏にはモネの家族や友人らの相関関係図が載っていて、画家仲間としてはピサロ、ルノワール、シスレーらが並んでいて、その次にカイユボット、セザンヌ、ゴーギャン、スーラらが「印象派展の仲間」として並んでいる。参考書にはマネが描いたモネ像も載っていた。

 

 

 

 晩年のジヴェルニー時代の「睡蓮」は暗くてモネらしくない。晩年の彼が患った白内障のことを知っているので、その暗さの中に痛々しい印象すら受ける。

 

  2026年4月22日 記

 

 

 

 現役の教師時代には、家族に関する雑誌(ひと頃は「ムック」と呼ばれていたが最近では見かけなくなった)を手当たり次第に買っては、パラパラと眺めた。

 家族法の講義の際に、導入の話題や息抜きの余談に使うネタを仕入れるためだった。ぼくに対する授業評価の中で、「先生の話はどこまでが余談で、どこからが本題なのかが分からない」というのがあった。余談から本題に戻るとき、本題から余談に移るときにはその旨をはっきりと言ってやればよかったと反省するが、ぼくの「余談」はけっして無駄話ではなく、受講生の関心をかき立てるための「一口ばなし」「箸休め」のつもりだったので、上のような授業評価はぼくにとっては嬉しい評価でもあった。

 

 これらの雑誌(ムック)も断捨離することにした。

 捨てる前に斜め読みすると、長谷川浩一「許されざるカップル」(現代のエスプリ234号、至文堂、1987年)など、興味深い記事も載っていた。阿闇世(あじゃせ)コンプレックス論などもう一度何かを読んでみたいという思いがわいてきた。小此木啓吾の本があったような気がするが、捨ててしまったかも・・・。

 「結婚の情景」(現代のエスプリ234号)の編者依田明さんの教育心理学を大学時代の教職科目で受講した。依田さんの授業は大学で受けた授業の中で一二を争うくらい面白かった。彼の「母性本能はあるのか」(「家族内の断絶」現代のエスプリ別冊、至文堂、1977年)なども面白そうである。同誌に載った羽仁進「父親は親なのか」も面白そうである。

 「離婚」(現代のエスプリ81号、1974年)は湯沢雍彦先生の編集だけあって一番法学的である。筆者も石井良助、穂積重遠から上野雅和、三木妙子、松浦千誉氏らまで、どれも興味をひかれる内容である。1冊で離婚制度の変遷を知りたいという人におすすめである。取っておくかな・・・。

 

 河出書房の「人生読本」シリーズも面白いものがいくつかあった。

 阿川弘之の「娘教育」(「父親」所収)など何が書いてあるのだろうか?

 「人生読本」シリーズには「受験」だか「試験」という号もあった。ぼくは受験に何度も失敗したので、「落第」という本を作りたかった。編集者時代のぼくの周辺には、大学受験や高校受験に失敗したものの有名な研究者や裁判官になった方が何人かおられた。こういう人たちが自分たちの落第について書いてくれたら、志望校の受験に失敗した落第生たちへのエールになるのではないかと思った。でも書いてくれる人は少なかっただろう。  

 いずれにしろ、もう「仕事」も「父親」も「落第」も、みんな卒業してしまった。次に来る「挫折」は本当の「骨折」だろう。

 

 2026年4月18日 記