マリナ・フェレッティ/武藤剛史訳「印象派[新版]」(白水社、文庫クセジュ、2008年)を読んだ。

 

 日本人は印象派が好きだと言われているらしい。ぼくもご多分に漏れず印象派が好きだ。・・・などと偉そうな口を利くほど美術鑑賞しているわけではないのだが、なぜかぼくが中学生か高校生だった頃にわが家では座右宝刊行会編の「世界の美術」(?シリーズ名は不確か。河出書房刊)を取っていた。B5 版の長辺を寸詰まりにしたような正方形をした変型判で、ビニールケースに入っていて、背表紙が金色だった。

 そのなかで、ぼくが気に入った画家がゴッホ、モネ、ルノアール、ロートレックなどなどだった。同シリーズの第 1回配本がルノアールで、第 2回配本がゴッホだったから、ごく平均的な日本人の好みを共有していたのだろう。

 

 ところで、ぼくはこれらの画家を、いつの間にか「印象派」と思ってきたが、実は「印象派」とは何なのか、誰が「印象派」の画家なのかは知らないままでいた。今回も妹の書棚に並んでいた本の中から「印象派」という書名に目がとまり、「印象派」とは何なのかを知っておきたいと思って読んでみることにした。

 結論的には「印象派」といわれる画家の画風に共通する特徴があるわけではなかったらしい。あえて言えば、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、モリゾという5人の画家の個人的活動の集積を「印象主義の運動」と呼ぶようだ(9頁)。著者は、彼らの特徴を、外光のもとで制作し、光とその効果に注意を払い、もっぱら明色を用い、色のコントラストによって陰影を作り出しながらすばやく仕上げる方法を取り入れると要約する(同頁)。

 彼らにドガやマネらも交えて初めて集まったのが1859年で、当時の登竜門だったサロン展覧会に落選した画家たちが集まってグループ展を開催したのが1863、73年で、1874年の第1回印象派展で彼らはブレークしたのだった(17~61頁)。著者は「印象主義の革命」とよんでいる。 

 余談として、彼らの裸体画が当時物議をかもしたことが紹介されているが(37頁)、中学、高校生だったぼくが座右宝刊行会「世界の美術」に惹かれた一因もこの辺りにあったのかもしれない。

 

 本書で取り上げる画家は、先にあげた 5人のほか、マネ、ドガ、ゴーガン、ゴッホ、セザンヌ、ロートレック、さらには我がカイユボットらに及び、ゴーガンとゴッホとの軋轢から、やがてグループを抜けタヒチに赴いたゴーガンで終わっている。

 彼らの画法や作品の評価、美術史的な位置づけなどを十分に理解できたわけではないが、曖昧模糊としていた「印象派」にそれなりの理解を得ることができた(ように思う)。

 モネの亡くなった妻を追悼する草原の風景画がぼくは好きだが、暖かくなったら見に行く予定の「クロード・モネ展」もより深く見ることができるだろう。

 今朝の東京は雪が降っている。

 

 2026年 3月10日 記

 

 

 

 妹の書棚を片づけながら眺めると、印象派の画家が彼女のお気に入りだったことが分かる。

 中でもパリを描いた印象派の作品が好きだったようだ。

 アテネ・フランセ以来の友人で、一時期パリ時代を一緒に過ごした女性は、何年かパリで過ごした人は魂をパリに残してくるのよ、と言っていた。

 妹も、写真やイラストや風景画が満載のパリ地図(「パリ名所図会」風)や写真集を何冊も残していた。

 

 

 

 

 

 

 

 その中でも、ギュスターブ・カイユボットがとくにお気に入りだったようで、何冊もカイユボット関係の本が残っていた。

 ぼくはゴッホとモネくらいしか知らなかったが、カイユボットの絵も気に入ったので、そのうちの何冊かを記念にもらってきた。

 本は断捨離しなければならないのだが・・・。

 

 

 

 最後の本(上の写真)は、カイユボットの生涯を描いた(と思われる)コミック本(?)。堂々たるハードカバーの大型本である。この本の中に登場するカイユボットの絵はいずれも実際の彼の作品の雰囲気がある。

 フランス語の吹き出しがほぼ読めないのが残念である。

 

 2026年 3月 7日 記

 

 
 
 【豆豆先生の研究室】の再録(加筆修正版)です。

 

 12月31日(日)、2023年最後の日。
 今朝も午前5時すぎに、NHKラジオの「放送開始100周年」記念番組で目が覚めた。この時間になると自然に目が覚めるようになった。
 ぞんざいなしゃべり方をする老人だったが、そのうち話の内容から、みのもんただと分かった。
 彼も、文化放送セイ・ヤングの初期の頃に聞いたことがあった。ぼくの記憶にあるのは、彼の番組の内容ではなく、深夜放送ファンの集いか何かで、セイ・ヤングや他局のパーソナリティーが集合する中で笑っている彼の写真である。雑誌「深夜放送ファン」か何かに載ったものだろう。当時は御法川(みのりかわ)何某だったか何か、本名を名のっていた。そしてセイ・ヤングの田名網ディレクターというのは、「日本史の傾向と対策」(旺文社)でお馴染みだった田名網宏先生の息子だと落合恵子が言っていた。
 みのは番組の中でいろいろ失敗があって、番組を下ろされ営業に回されたため、文化放送に自分の居場所はないと辞職したと言っていた。名古屋の水道業者の倅だと当時から聞いていたが、そこに戻ったらしい。みのの番組内の発言に抗議する人たちが四谷2丁目の文化放送に押しかけたこともあったと言っていた。あの四谷の文化放送の前で、ぼくはデビュー間もないアグネス・チャンを見かけたことがあった。
 みのは同期(だったか)の久米宏を「しゃべりの天才」と言っていた。そういえば、久米の「土曜ワイド・ラジオ東京」(TBS)という番組もよく聞いた。土曜の朝 8時ころから夕方の 4時か 5時までの放送だった。「東京の街、ここはどこでしょう?」というコーナーがあって、久米が現地の風景を現地から中継し、視聴者にそれがどこかを当てさせるという趣向だった。
 ある回では、朝の番組開始とともに久米が(おそらく上野駅から)東北線に乗って旅を始め、途中下車しながらその地を紹介するという企画もあった。最後の下車駅が青森の八戸で、海岸が(砂浜でなく)草地になっている海岸からの中継で番組が終わった。草浜の海岸線、一度行ってみたい。種差(たねさし)海岸というところだったらしい。
 みのは喋ることが「天職」だったと言っていたが、今朝はどこか寂しそうな喋り方だった。

 2人目は浜村淳だった。彼の番組はまったく聞いたことがないので、興味もないままに聞いていたら、彼の番組に出演した忘れられないゲストとして、ソフィア・ローレン(!)とアラン・ドロンをあげていた。ビックリしたが、2人とも映画の宣伝で来日した折に出演したという。
 わが憧れだったソフィア・ローレンに会ったことがあるとは羨ましい限りだが、そのソフィア・ローレンにきつねうどんを食べさせる企画だったという。
 彼女は胸元のVゾーンが深く切れこんだドレスだったので、隣りに座っていた彼の視線は思わずその胸元にいってしまい、しかも「彼女のバストは96センチです」と放送してしまったそうである。そうしたら、彼女が怖い顔になって「立ちなさい!」と言ったので浜村が直立不動になると、彼女は「上から見たほうがよく見えるでしょ!」と笑ったという。


 ソフィア・ローレン関連のグッズはあまり持っていないが、芳賀書店の写真集のほかに、ホンダの原付自転車ロードパルの広告パンフが残っていた(冒頭の写真)。
 表面には、「まず、私が乗ってみました」というソフィア・ローレンのセリフがある(本当だろうか?)。下の白いスペースに「ホンダ専門店 宮原商会 新宿区須賀町14番地」というスタンプが押してある。何と、ぼくが勤めていた出版社と同じ番地ではないか! あの頃は複数の建物に同じ番地がついていたのだ。大日本茶道学会のあたりだろうか、そんな店があったような気もするが・・・(下の写真)。


 

 3人目は中村メイコだった。
 彼女に関するぼくの記憶は、何といってもNHKラジオの夕方の番組「1丁目1番地」である。家族で夕食を食べながら聞いた。中村が一人で3役も4役もやっていた。ぼくが子どもだったこともあるけれど、数人でやっていると思い込んでいた。…というのは間違いで、中村メイコは「1丁目 1番地」には出ていなかった。彼女が一人で数役をこなしていた番組名は分からなかった。

 「ペスよ、尾をふれ」という番組も中村メイコだっただろうか(松島トモ子だったかも)。悲しい内容の回に、聞いていた妹が号泣したため、隣りの部屋から母親が飛び出してきて、「何で妹をいじめるの!」と濡れ衣で叱られたことがあった。
 中村は、徳川夢声を師匠のように語っていたが、ぼくは徳川をうまいとは思わなかった。昭和30年代当時、すでに時代遅れの感じがしていた。ぼくが一番うまいと思ったのは森繁久弥である。NHKの朗読番組で、どう聞いても女声が一人はいるだろう、加藤治子(だったか、加藤道子)と2人でやっているのだろうと思って聞いていたら、最後にアナウンサーのナレーションで「出演は森繁久弥でした」というので、一人芝居(?)だったと知ってびっくりしたことがある。
 中村はマイクに向かうと仕事モードになったと言っていた。
 ぼくも授業の始まりにマイクのスイッチを入れると、気持ちにもスイッチが入った。マイクのスイッチが入っていることを確認するため、フッ!とマイクに息を吹きかけていたが、ある時、授業評価の自由記載欄に「授業の最初にマイクに息をかけるな、耳障りだ!」と書き込みがあった。授業評価の意見に対してはリアクションをせよとのお達しだったので、次の授業の初めに、「マイクに息を吹きかけるなと叱られたから、今後は息を吸うことにする」と言ってマイクに向かって深呼吸をしたら、学生たちが笑った。
 中村といえば、旦那の神津善行は群馬県の神津牧場と関係があったはずである。子どもの頃、叔母のクルマで軽井沢から荒船高原、神津牧場に出かけたことがあった。川端康成の「高原」にも、神津牧場から軽井沢への旅行記が載っていた。川端によると、神津牧場は明治明治乳業が所有する牧場だったらしい。

 2023年12月31日 記

 中村メイコは、この録音が放送されたまさに(2023年)12月31日に亡くなったそうだ。
なお、「一丁目一番地」が彼女の一人芝居というのは間違いだった。でもあの頃そういう(彼女の一人数役という)ラジオ番組があったことは間違いない。(2024年 1月 8日 追記)

 その後、みのもんたも2025年3月に亡くなってしまった。(2026年 2月28日 追記)

 さらに、久米宏も今年(2026年)1月 1日に亡くなった。(2026年 3月 3日 追記)

 

 
 
 【豆豆研究室】の再録(加筆訂正版)です。

 

 2023年12月30日(土)午前5時15分ころ。
 今朝もNHKラジオの「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」で目が覚めた。
 ラジオから聞こえてきた声は最初は小島一慶かと思ったが、吉田照美だった。吉田照美は深夜放送をやっていただろうか? ぼくには記憶がない。昼間の番組では聞いたことがあった。

 2人目は荒川強啓だった。彼はもともと山形放送のアナウンサーだったという。
 彼も午後というか夕方の番組の記憶しかない。山形放送時代に、山形弁で喋ったら、山形弁をバカにするな!と投書されたことがあったとか。その後彼は徹底的に山形弁を勉強してマスターしたと語っていた。山形弁には置賜(おきたま)弁など全部で4種類あるそうだ。
 むかし井上ひさしの「下駄の上の卵」(ではなく「吉里吉里人」だった)を買ったものの、あの置賜弁で書かれた文章に辟易して十数ページで投げ出したことを思い出した。

 3人目は宇田川清江という、ぼくの知らない人だった。
 NHKの元アナウンサーで、「ラジオ深夜便」の第1期のアナウンサーだったという。
 「深夜便」の番組開始時に指示されたことは3つだけ、1つは、民放のアナウンサーと違ってNHKアナウンサーのゆっくりした喋りをすること、2つは、リクエストは募集しないこと、3つは番組でかける曲は必ず最初から最後まで掛けること、この3つだけだったという。かつて深夜放送を聞いていたころ、好きな曲を途中でカットされたり、曲が始まっているのにDJ が喋りをやめないのでイライラしたものだった。確かにラジオ深夜便の午前2時、3時のコーナーでは、今でも曲の始まりから終わりまできちんと流している。
 リクエストは募集しなかったが、淡屋のり子の「別れのブルース」をかけたところ、視聴者から、このレコードを残して戦地に散った彼の思い出をつづった投書が来たことがあったという。番組で紹介したところ、その彼のイトコだと思うという方から返信があり、何とその彼は戦地から生還したが、結婚することなく独身のまま数年前に亡くなったと聞かされたというエピソードを紹介していた。
 50年前に吉祥寺駅北口の改札口で出会った武蔵野女子学院の女子高生の思い出話どころの思い出ではない。

 

 ラジオ番組で思い出したことをいくつか。
 1つ、「桂三枝の深夜営業」という深夜放送もよく聞いていた。そのうち何回かはテープに録音してある。桂三枝もラジオに出るようになった最初の頃は面白かった。
 2つ、土井まさるの「真夜中のリクエスト・コーナー」ではなく、夜の8時から10時ころの番組もよく聞いていた。ディレクターの金子さんという人が、ヨーロッパ旅行で見つけてきた当時イタリアで流行していたロス・マルチェロスの「アンジェリータ」という局を番組で紹介して、その放送がきっかけで日本でも流行した。
 ※「アンジェリータ」のレコードはいまだに見つからないのだが、このコラム用の画像ファイルの中にジャケットがあったので冒頭に載せておいた。ついでに同じ頃に人気があったジリオラ・チンクェッティのレコードジャケットもアップしておく(上の写真)。
 3つ、深夜放送がはやる以前の洋楽を紹介するラジオ番組には、「ユア・ヒットパレード」とか「S盤アワー」とか「9500万人のリクエスト」なんていうのがあった。確か「ユア・ヒットパレード」の、「あのシーンをもう一度」というコーナーでは、「鉄道員」や「第三の男」などのクライマックス・シーンの音声が流れて、それに続いてサントラ盤でテーマ音楽がかかった。「東京田辺」(製薬)の提供だった。

 「ユア・ヒットパレード」はネット上で、全放送期間中の毎週のベストテン(ベスト20だったかも)の曲名を知ることができる。「エデンの東」が1年間1位をつづけ、3年間10位以内にランクインしつづけたという伝説も「ユア・ヒットパレード」だったのではなかったか? 「9500万人の・・・」の当時は、日本の人口が9500万人だったのだろう。「S盤」というのは何の略称だったのだろう?
 4つ、深夜ではないが、「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」という夜10時ころから始まる30分番組や、土曜か日曜の午前中に「キューピー・バックグラウンド・ミュージック」なんて番組もあった。今でもやっているのだろうか。パーシー・フェイス、フランク・チャックスフィールド、ビリー・ボーンなどがよくかかった番組である。
 5つ、そういえば FM 東京の「ジェット・ストリーム」もよく聞いた。城達也の時代である。エンディングの「ミスター・ロンリー」を聞いてからラジオを消して眠りにつく夜も少なくなかった。小野田英一にかわってからもしばらく聞いていたが、大沢たかお、福山雅治になってからは、城達也の頃とは DJ の喋りもかかる曲もあまりにもイメージがそれまでとは変わってしまったので、ここ十年はほとんど聞くことがなくなってしまった。

 2023年12月30日 記
 


 
 【豆豆先生の研究室】の再録です。

 2024年12月29日(金)午前5時すぎ、村上里和さんのNHK ラジオ深夜便が終わってウトウトしていたら、突然ラジオから大沢悠里の声が流れてきた。
 たしかNHKラジオを聴いていたはずなのに、何でTBSが聞こえるのだろうと思って聞いていると、何と、NHKラジオの放送開始100周年記念「ラジオ放送100年 100人へのインタビュー」(題名は不確かだが、2025年が放送開始から100周年らしい)という番組で、その第1回(?)が大沢悠里だったのだ。
 ラジオ放送に興味をもったきっかけは?とか、ラジオ放送で泣いたことはあるか?とか、ラジオ放送の未来は?とか、全員が共通のインタビュー項目に答える形式のようだった。大沢悠里は子どもの頃からアナウンサー志望で、NHKの宮田輝や高橋圭三の物まねをしていたと言っていた。
 大沢は戦前の生まれだったが、昭和25年生まれのぼくにとって、子どもの頃に一番印象に残っているラジオは竹脇昌作の夕方の番組だった。日本信販の提供で “にっぽん しんぱんの クーポン ♪♪” というコマーシャル・ソングととともに、竹脇のあの独特の抑揚のない話し声がスピーカーから流れていた世田谷の玉電山下商店街の光景が浮かんでくる。“君知るや 君知るや~ オリエンタル・カレー ♪♪” というCMソングも懐かしいけど、オリエンタル・カレーは今でもあるのだろうか(調べたら今もあった。がんばって!)。

 20分ほどで大沢悠里が終わると、第2回は何とニッポン放送の亀淵昭信だった。
 亀淵はもともとディレクターとして入社したのが、後に深夜放送を担当するようになったという。一度休職してサンフランシスコの大学に留学したそうだ。それまで日本のラジオでは喋るのは「アナウンサー」だったが、彼の地では「パーソナリティー」と呼ばれていて、彼が、日本で「パーソナリティー」という呼び方を定着させたと言う。
 キャリア最大の危機は、社長になってからのライブドアによる買収への対応だったという。ぼくの記憶では、たしか組織の上ではニッポン放送のほうがフジテレビの親会社で、ライブドアはフジテレビの乗っ取りを画策していたと記憶する。

 さらに20分ほどで、今度は3番手で同じニッポン放送の斉藤安弘が登場した。
 彼は記憶に残るリスナーとして「たかぎ・ひとみ」さんという視聴者の名前をあげていた。ぜんそくで若くして亡くなったその子の遺品の中にアンコ―さん宛てのリクエスト葉書が残っていて、お父さんが投函したのを読んで以来、そのお父さんと亡くなるまで交流がつづいたと言っていた。
 アンコーさんは、ラジオの深夜放送の元祖は文化放送の土井まさるの「真夜中のリクエストコーナー」だと言っていた。ぼくもそう思う。ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」は、1972年までは局アナでやっていたが、その後タレントを使うようになったと言っていた。
 ぼくが深夜放送を聞いていたのは、土井まさる(文化放送)、野沢那智・白石冬美(TBS)、カメ&アンコー、今仁哲夫の頃で、歌手・タレントのパーソナリティーでは南こうせつ(&山田パンダ)、谷村新司(あの「天才、秀才、バカ」のころの谷村で、「昴」の谷村とは別人のような時代である)くらいまでである。
 斎藤は、ビアフラで子供たちが飢え死にしているのに、日本ではコメが余っているという新聞記事を見て、自分の番組に投書などしなくていいから、ビアフラに米を送るように外務省に投書してくれと呼びかけたところ、外務省に投書が殺到し、結局5000トンの米が贈られることになったというエピソードを紹介していた。そんなこともあったのだ。
 斎藤は、かつてどこかのラジオ会社の経営者が「ラジオはやがて消滅する媒体である」と言っていたが、決してそんなことはないと否定していた。ぼくも消滅するとしたら、ラジオよりもテレビのほうが先のような気がする。先日あるテレビ番組で羽鳥慎一が(生前の)小倉智昭に、「最近のテレビをどう思いますか」と質問したら、小倉が「つまらないね」「忖度しすぎている」と答えていた。まったく同感である。テレビ関係者たちは自分たちが作っているテレビ番組がつまらないことを自覚していないのだろうか。
 年末のテレビから垂れ流される録画番組を見るにつけ、その感を強くする。ただし、ドキュメンタリーだけはテレビがいい。年末のNHK-BSでみた、「映像の世紀 ビートルズとロックンロール」で紹介された東欧(ポーランドだったか)での「ヘイ・ジュード」のエピソードなど、ぼくはまったく知らなかった。若い頃から日本テレビ深夜の「NNNドキュメント 19xx」(だったか)はお気に入りだった。当時は「ドキュメントの日テレ」と言われていた。

 ぼくは大学の教師をしていたが、教師という職業は研究論文の審査によって採用されるが、仕事の主要部分は学生に対する講義である。少なくとも文系科目では、研究者は「物書き」だが、教師は「話し家」(「咄家」ではない!)である。「物書き」としての能力で採用された教師の中には、「話し家」としての才能がゼロに近いのもいる。500頁以上の教科書を一人で書きながら、授業では教壇の椅子に座ったまま90分間その教科書を時おり端折りながらただ棒読みするだけという教師もいた。
 現役教師時代のぼくは学生による授業評価の点数が髙いほうだったが、「物書き」としての能力はともかく「話し家」としては及第点だったと自負している。子どもの頃、日曜日の昼すぎに放映されていたテレビ番組「サンデー志ん朝」という古今亭志ん朝のトーク番組や、ラジオ深夜放送のパーソナリティーたちから「喋り」を学んでいたのだと今にして思う。

 早朝からこんな番組を聞いていたので、二度寝して目が覚めたら9時半だった。今朝は今年最後の資源ゴミを出す日だったので、慌てて起床してゴミを出した。
 写真は現在ぼくが聴いているラジオ。オーム社製、スーパーバリューで1980円で買った。チューニングが難しくて、NHK第1すらなかなか同調しないうえに、FENより上の周波数はほとんど入らない。まさに「壊れかけのラジオ」である。

 2023年12月29日 記

 

 追記 2026年3月までが100周年なので、一部書き換えたものを再掲載した。新規書下ろし(!?)の記事もないので旧稿でご容赦を。(2026年2月26日 追記)

 

 

 

 中村邦生「はじめての文学講義ーー読む・書く・味わう」(岩波ジュニア新書、2015年)を読んだ。

 

 通称「渋渋」と呼ばれている渋谷教育学園渋谷中学校における著者の講演「文学を楽しむーーなぜ富士には月見草が似合うのか」に加筆訂正を加えた本である。渋谷中学校のHPを見た際に、このような講演会があって後に書籍化されたという紹介があったので、図書館から借りてきて読んだ。

 著者紹介によると、著者は大東文化大学教授で比較文学、英文学、文章制作法を教えているが、かつて「文學界」新人賞を受賞したり、芥川賞候補になった小説も書いている。

 

 題材として最初に取り上げたのは太宰治の「富嶽百景」である。

 「富嶽百景」は高校時代の現代国語の教科書(筑摩書房版だった)に載っていて、ぼくも好きな作品だった。ただし、ぼくが気に入ったのは、太宰が井伏鱒二と富士山に登った際に、その途中の峠で「井伏先生は放屁された」という一文の新鮮さだった。「富嶽百景」以外に放屁(おなら)の情景を描写して歴史に残った小説はあるのだろうか。ぼくの乏しい読書体験の中では「富嶽百景」以外に読んだことはない。

 ぼくは小説家になりたいと思っていたころ、テーマも何もともあれ、必ず作品中に「放屁」の場面を描こうと決めていた。実は具体的状況も決めていた。結局そんな場面を書くはるか手前で挫折してしまった。ぼくにとっては、「なぜ富士山には月見草が似合うのか」よりは「なぜ富士山には放屁が似合うのか」のほうが重要だった。富士山と太宰と井伏先生の放屁とが、高校生の時に読んでから60年以上たった今でも鮮明な記憶になって残っているのはなぜか。「放屁」のなかに、井伏のおおらかな性格とそんな井伏に対する太宰の尊敬が伺える好い場面だったのだろう。

 

 著者の解説は、ジャンニ・ロダーリというイタリア人作家が「ファンタジーの文法」という本で提示した「ファンタジーの二項式」という視点に従っている。そのほかにも「小説の文法」式の著作がいくつか挙げられていて、だんだんと「文学講義」らしくなってくる。ぼくは、中学生にどのように小説の読み方、書き方を指南するのかと期待して手に取ったのだが、「はじめての文学評論」とでも言うべき内容だった。

 そもそもぼくは、「文学」というのが苦手なのだった。「小説」と「文学」の違いも分からない。例えば、広津和郎「年月のあしおと」は「小説」なのか「文学」なのか、広津「松川裁判」はどうか? 二葉亭四迷「浮雲」や「平凡」は「文学」なのか「小説」なのか。作者の二葉亭自身は「文学」とは考えていなかったと思うのだが。

 

 ナボコフの「細部を可愛がるんだよ、・・・」という言葉、ナボコフの小説にあふれる「観察から得てきた恐ろしいほどに稠密な細部」というアップダイクの指摘を引用しながら、著者が言う「私もまた魅力的な細部に欠けた小説は読むに値しないと思っている」という言葉(74~5頁)に強く賛同する。

 最近読んだ広津和郎の「神経病時代」や「師崎行」から「年月のあしおと」における登場人物の性格や情景、気象の描写、二葉亭四迷の「其面影」における不仲の夫婦の会話や刺々しい言葉を吐く妻の描写など、堀辰雄「風立ちぬ」だったかにおける恋人の肺結核の末期症状の描写など、よくぞこんなに子細に観察していたものだと驚嘆した。

 細部が不出来、紋切り型でいかにも作り物くさい描写の小説に出会った瞬間に、ぼくは読む意欲が失せる。「ファンタジーの二項式」も分からなくはないが(ぼくが渋谷中学校の生徒だったら、二項式の例として「富士山と放屁」と答えただろう)、小説における細部の決定的な重要性を指摘している一点で著者に共感した。

 

 第2部は著者が、「文学は何の役に立つのか」「古典や名作は読まなければならないか」などという中学生たちの質問に答えたもので、こちらの方が中学生に向けた文学入門としてふさわしい内容になっているように思った。

 

 2026年2月19日 記

 

 

 

 二葉亭四迷「其面影」(岩波文庫、1987年改版)を読んだ。

 これがまた、「浮雲」の内海文三を思わせるような優柔不断な男が主人公だが、今回の主人公は「浮雲」の文三のような青年ではなく、37歳だったかで結婚もしている中年男である。この男が妻の妹に思いを寄せるが、妻との離婚も決断できない優柔不断さのあまり最後はヒロインが去ってゆくという物語。

 「其面影」というが、誰の面影だったのか。主人公小野哲也か、ヒロイン小夜子のいずれだろうが、「其」は必要だったのか。「浮雲」「平凡」と並んで「面影」で二葉亭の長編三部作は平仄が合いそうだが。

 

 主人公は小野哲也といい、神田の某法律学校の講師を務め経済原論と貨幣学を教えている。本務校の給料だけでは生活が苦しいため、哲也はほかにも 2、3校で「掛け持ち」(今でいう非常勤講師)をしている。

 哲也の勤める学校は、神田にある赤煉瓦の校門の法律学校となっているが、モデルはどの学校だろうか。当時神田にあった法律学校といえば、明治か英吉利法律学校(中央大学)か日本か専修かのどれかだが、専修、日本は夜学だったから明治か中央だろう。A I で「明治時代の神田にあった法律学校で、赤煉瓦の門があったのはどの法律学校ですか?」と質問すると、当時の中央が赤煉瓦の校舎だったという返答はあったが、赤煉瓦の門があったかは不明だった。現在の姿になる前の中央大学の校舎は中庭の周囲を3~4階建ての「ロ」の字型校舎で囲まれたイギリスのカレッジ風の建物だった。当時の建物が赤煉瓦だったら、アーチ形の入口玄関のことを「赤煉瓦の門」と書いてもおかしくはないだろう。

 哲也は高校時代に父親を亡くして学業の継続が難しくなっていたところを親戚に養子として迎えられ、学費を支援してもらって高校、大学を卒業することができた。学費の総額は2、3000円にのぼる。その後養家の長女時子と結婚して8年目になる。いわゆる「婿養子」である。養父は亡くなったが、養母と家付き娘の妻時子は哲也が薄給の学校教師になったことを不満に思っており、哲也は妻や姑に頭が上がらない。妻の腹違いの妹小夜子は、いったんは嫁いだものの夫に先立たれて今は実家に戻ってこれまた肩身の狭い思いをしている。時子はうだつの上がらない夫が不満で常に冷たい態度をとるが、小夜子は義兄の哲也に優しく接する。

 

 哲也には同郷で中学までを一緒に学んだ葉村幸三郎という友人がある。高商卒の実業家で、「金儲けの第一は人情を棄てるにあり」と嘯くようなやり手で裕福な生活をしている。葉村は、哲也のように理想だの主義だのに膠着する人間を「古本の精」と呼んで軽侮する。「其面影」は、この二人が並んで九段坂を喋りながら上ってゆく場面から始まる。始まりが九段坂というのがまず嬉しい。

 葉村は、哲也に対して義妹の小夜子を金満家の渋谷という老人の家に家庭教師として住まわせることを提案する。当時の「家庭教師」というのがどんな仕事内容だったのか分からないが、給金をもらったうえに学校に通うこともできたようである。哲也は、渋谷が小間使いに手を出し妊娠させては手切れ金を渡して追い出すような噂の男であるため躊躇する。哲也は認めないが、小夜子に対して恋愛感情を抱いていたためもあろう。

 ストーリーは、この哲也と小夜子の恋の行方をたどって展開することになる。 

 あれこれの行きがかりを経て、二人は相次いで家を出て淡路町の金物屋の二階で半同棲生活を送ったりするのだが、最終的に小夜子は哲也のもとを去り行方知れずとなり、哲也は(中国)大陸に新設された学校の教師となるのだが(二葉亭も外国語学校教授を辞任した後に中国にわたって、北京に新設された警察学校の教師になっている)、そこも半年足らずで辞めてしまい、アル中となってあちらこちらを彷徨い、最後は天津に仕事でやって来た葉村を訪ねて20円だかの金を恵んでもらって、天津の居留地の路地に消えてゆく。・・・そんな筋であった。

 

 今回も主人公哲也の優柔不断さに苛立たせられながらの読書だったが、もともとは新聞の連載小説だけあってストーリー展開が小気味よく、会話も明治時代の家族同士の会話というのはこんな感じだったのだろうと思わせる対話となっていた。明治生まれのぼくのお祖母ちゃんが喋っているような印象だった。婿養子の養家における肩身の狭さ、その心理状態が具体的に描かれているのだが、二葉亭自身のうまく行かなかった結婚の実体験を背景にした描写なのではないか。

 日露戦争前後の明治の家庭生活を描いた家庭小説として面白く読むことができた。恋愛小説としては特別印象に残るような場面というか状況が見られるわけではなかったが、妻の妹を愛してしまった夫は得てして哲也のような優柔不断な態度しかとることができないのが普通ではないかと思う。

 四迷の筆は妻時子の心情にも理解を示していて、けっして哲也と小夜子の関係を近松的な純愛として美化するようなものではない。解説によると、二葉亭は「哲也のようなのはイヤだ、葉村のような活々としたのが好いね」と語っていたそうだが(233頁)、「文学は男子一生の事業に非ず」と啖呵を切って一度は文壇から去った二葉亭本人の実人生からしてもうなずける言葉である。ただその割には実業家の葉村がそれほど好人物に描かれていたように思えなかったのは、二葉亭が嫌う学校教師として生きてきたぼくの僻目だろうか。

 

 「其面影」の、特に哲也が大陸に渡るあたりは小津安二郎の映画が思い浮かんだ。

 哲也と時子の不仲夫婦は「お茶漬の味」の佐分利信と小暮実千代夫婦を、大陸に渡るのは「戸田家の兄妹」における佐分利信の大陸行きを思わせた。哲也が大陸に渡るために神戸に向けて新橋停車場から出発する場面の見送りの人々の喧騒は「東京暮色」の上野駅のラストシーンを思わせる(状況は違うが)。「戸田家の兄妹」で佐分利が向かった先も天津だったが、「其面影」のラストで哲也が消えて行ったのも天津の居留地の路地であった。

 小津安二郎が二葉亭の影響を受けたということはないのだろうか。小津に対する広津和郎の影響とともに、「帝国の残影」(NTT出版)の著者与那覇潤さんに聞いてみたい。

 

 蛇足ながら、十川信介の本書「解説」によると、本書執筆に際して二葉亭は、「現行民法(明治民法)はこの(哲也と小夜子の)婚姻を許すや否や?」というメモを残していたという(235頁)。

 結論から言えば、二人の婚姻は明治民法上は可能である。明治民法771条は「養子・・・と養親または其の直系尊属との間においては(離縁等による親族関係終了後も)婚姻を為すことを得ず」と規定していた。いったん養親子(法的な親子)となった以上は離縁後も婚姻することは認めないのである。しかし哲也と小夜子は直系ではなく(義兄妹は傍系)、尊属関係にもない(兄妹は尊属でも卑属でもない)。したがって、哲也と時子の離婚が成立すれば、その後に小夜子と結婚することは可能である。

 ただし、もし小夜子が姦通罪で訴えられて有罪判決があった場合には、小夜子と哲也は結婚することができない。明治民法768条は相姦者(姦通の当事者)同士の結婚を認めないのである。はっきりとは書いてなかったが、哲也と小夜子は淡路町の貸間で関係を持ったようであるから、小夜子は姦通罪(妻ある男との性関係)に該当する。明治刑法の姦通罪は男女不平等で、男は他人の妻と関係をもった場合にしか姦通罪に問われないところ、小夜子の夫はすでに亡くなっているから哲也の行為は姦通とならない。小夜子は妻のある哲也と関係を持ったので姦通罪に該当することになる。もっとも、相姦者同士は結婚できないと言っても、「法的な」結婚ができないというだけで、二人が事実婚として同棲することは法も禁止していない(禁止できない)。

 いずれにしても、明治民法のもとでも婚姻が成立するためには両当事者の合意が必要だが、小夜子が哲也との婚姻に合意することはないだろう。

 

 2026年2月16日 記

 

 

 

 亡くなった妹の本棚にあったギュスターブ・カイユボット(Gustave Caillebotte)の画集の中のこの絵に見覚えがあった。どこで見たのかは思い出せなかったのだが、Amazon で本を探していたところ、偶然この絵を表紙カバーにした本を見つけた。

 エミール・ガボリオ/太田浩一訳「ルルージュ事件」(国書刊行会、2008年)の表紙カバーが、まさにカイユボットのこの絵だった(同書カバーでは縦長にトリミングされているが)。

 

 「ルルージュ事件」は世界最初の長編ミステリー小説だそうで(Emile Gaboriau,“L' Affaire Lerouge”,1866)、著者のガボリオは「名探偵ルコック」の生みの親である。ぼくが中学生だった1962、3年頃、確か NHK の夕方のラジオ番組で「名探偵ルコック」を放送していた。ぼくはこの番組で「名探偵ルコック」の作者ガボリオの名前を知った。

 ネットで調べると、1946年 5月に NHK ラジオで放送された「ルコック探偵」というのは出てくるが、1962、3年ころのラジオ番組は見つからない。しかし、中学生だったぼくが「名探偵ルコック」というラジオ番組を聞いたことは間違いない。内容はほとんど覚えていないが、なぜか監獄に入れられた探偵が看守から与えられたパンの中に暗号を隠して外部と連絡する場面が印象に残っている。ひょっとしたら別の番組だったかもしれないが。

 ※追記 これまたネットで調べると、ルコック探偵には前科があるという。ルコックが監獄に入っていたとしてもおかしくはない。

 

 中学卒業後そのガブリオの名前を久しぶりに目にしたのが、「ルルージュ事件」(国書刊行会)の新刊広告が新聞に載った時だった。しかしその頃(2008年だったのだ)には名探偵ルコックに興味を失っていたので、買うこともないままに過ぎた。さらにその後になって Amazon でこの本を見かけたのだが、その表紙がまさにこのカイユボットの絵だったのだ。

 当時はカイユボットという画家の作品だとは知らず、作品にふさわしいたんなる表紙カバー絵だと思っていたが、今日まで見覚えがあったということは、どこかぼくの印象に残るものがあったのだろう。さすが印象派の画家の手になるだけのことはある。

 

 今回は、妹の蔵書の中に挟んであった絵葉書をアップしておく(冒頭の写真)。

 ハガキ裏面の解説によると、この絵は “Rue de Paris : Temps de Pluie, 1877” というらしい。このくらいのフランス語ならぼくにも分かる。「パリの通り:雨の時間」、かつての東宝東和ふうにいえば「パリ 雨に濡れた舗道」くらいだろう。

 1877年といえば、日本では、二葉亭四迷が尊敬したという西郷隆盛が敗れたあの西南戦争の年ではないか。

 

 2026年2月13日 記

 

 

 

 追記 

 というようなわけで、ガブリオ「ルルージュ事件」(国書刊行会)という本の表紙がどんなものかぜひ見てみたくなって、今日図書館に借りに行った。ところが受付の係員が持ってきた本はただのクリーム色の無地で、挿絵もなにもないシンプルというか殺風景な表紙だった。一瞬係員が間違った本をもって来たのではないかと疑ったくらいである。表紙が寂しいので、同書の口絵ページをアップしておいた(上の写真)。

 しかし、表紙カバーの上部にはちゃんと「ルルージュ事件 エミール・ガブリオ 太田浩一訳」とある。それではぼくが先日 Amazon で見たカイユボットの絵が入った表紙は何だったのか? ひょっとすると、カイユボットの絵を使った帯がついていたのか、あるいはいったんはカイユボットの絵を表紙カバーに使ったが、何らかの理由から表紙カバーを無地のシンプルなものに差し換えたのか? ぼくにとっての「ルルージュ事件の怪」が発生した。

 2026年 2月16日 追記

 

 

 

 太田治子「星はらはらと――二葉亭四迷の明治」(2016年、中日新聞社)を読んだ。

 もちろん二葉亭四迷への関心からである。西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉のことなど、二葉亭の伝記としては話題が離れすぎていると思われる個所もなくはなかったが、二葉亭の人生や著作とその時代背景について教えられるところが多かった。

 著者は二葉亭四迷の愚直なまでの正直さ、女性との恋愛や経済生活における不器用さをいとおしく見守っている。著者は二葉亭が滞在したサントペテルブルグを旅して二葉亭が逗留したアパートを訪ねて二葉亭を偲ぶなど、全体を通じて著者の二葉亭への愛情が強く感じられた。

 ぼくも「浮雲」と「平凡」その他を少し読んだだけで二葉亭四迷という人物が好きになっていたが、いっそう好感を持つようになった。

 

 二葉亭は坪内逍遥に師事したが、師匠といっても5歳年上に過ぎない逍遥との交流が、二葉亭の交遊関係の中ではもっとも親密だった。二人はともに旧士族の出身で、士族の末裔としての心情を共有していた。「維新の志士肌」の傾向をもった二葉亭は西郷隆盛を生涯尊敬したという(83頁)。

 逍遥は二葉亭からロシア文学に関する蘊蓄を聞くこと楽しみにしていて、そんな二葉亭の心からの批判を受けて小説の筆を折ったという。二葉亭の母親が家庭の窮状を逍遥に頻繁に訴えに来たため逍遥が困惑したというが、それほどの関係だったとは。

 二葉亭は自由民権家だった徳富蘇峰に心酔した時期があり、「国民の友」にロシア詩の翻訳を掲載したりしたが、やがて蘇峰が自由民権から国家主義に転向して桂太郎の側近になるなどその変わり身の早さに幻滅した。「浮雲」第三篇で二葉亭は「浮雲」をつまらぬ小説と自虐的に書いているが、「つまらぬ」と評したのは蘇峰だった(236頁)。

 「浮雲」という題名も、やすやすと自由民権から国家主義に乗り換える蘇峰に代表されるような、日本国民の頼りないありさまから来ているという(238頁)。「浮雲」の本田昇のモデルが蘇峰だったという指摘も意外だった(248頁)。 

 二葉亭は東京外国語学校露語科教授を務めていたが、文部大臣の森有礼が国家主義的教育に方針転換し、外国語学校を商業学校の付属(商売の道具としてのロシア語)としたことに抗議して外国語学校教授を辞職してしまう。併合の二か月前の辞職だった。家族が生活に困窮することになったとしても、筋を曲げることはできない愚直さの一例である。ぼくは、信念のために外語大教授の職を辞する二葉亭のまっすぐな勇気に驚嘆する。

 

 明治25年ころ、二葉亭は本郷菊坂町81番地に住んでいたことあり、同時期に樋口一葉も菊坂町69番地に住んでいた。二人は菊坂の坂道ですれ違っていたかもしれない、二人はお似合いだったと著者は書いている(261頁~)。

 本書の表題「星はらはらと」は、二葉亭が明治26年に詠んだ「柚の花に星はらはらとこぼれけり」という歌からとったものである。著者は、菊坂ですれ違ったかもしれない二葉亭が一葉に心惹かれたことは自然に想像できる、この一句が一葉を思って歌ったものだとしたらすばらしいと、想像をふくらませている。

 一葉の明治29年1月の日記には、毎日新聞記者だった横山源之助が一葉を訪ねた際に、二葉亭と引き合わせようとした旨が記されているという(262頁)。二葉亭の不器用さのために二人の出会いは実現しなかったようだが、著者は「二葉亭こそ、一葉の考える理想の男性だった」と書いている(~266頁)。

 現実には、二葉亭は酌婦だった女性と結婚する。彼女に「罪と罰」のソーニャの幻影を見たのかと著者は想像するが、この妻は二人の子をもうけた後に他の男との間の子を産んで二葉亭を裏切ることになる(278頁)。二葉亭は、職業に貴賎はないと言って植村正久の廃娼運動に反対し在娼論を唱えたり、巌本善治の「浮雲」に対する批評(内海文三にキリスト教の信仰があればといった趣旨だったようだ)に反発するなど、キリスト教には好意的でない。

 二葉亭は東京の貧民街の状況に心を痛めていて、横山源之助「日本之下層社会」や松原岩五郎「最暗黒の東京」が二葉亭の言動に鼓舞されて執筆されたものだったことも初めて知った(263頁)。

 

 今回も瑣事ながら、ぼくの人生(生活)と二葉亭がわずかに交錯する場所があった。

 二葉亭(長谷川辰之助)の本家と思われる家、二葉亭が祖母とともに居候をした家は四谷左門町にあったが、著者は明治期の古地図を調べて、現在の外苑東通りの旧東電病院の先を信濃町駅を背にして左折したあたりに「長谷川」と表示された家があり、左門町の「長谷川」はこの一軒だけだったので、これが二葉亭の実家だっただろうと書く(100頁~、142頁)。

 ぼくが就職した出版社は外苑東通りの左門町バス停を右折した須賀町にあった。そこから少し四谷三丁目交差点寄りの旧東電病院(猪瀬都知事の事件で有名になった病院だが)の先を左折した辺りには、わが社で出していた法律雑誌に毎月法曹史談を連載された弁護士さんのご自宅があった。書斎に上がって、連載の挿絵に使う明治期の事件を扱った錦絵などを拝見したことがあった。あの頃ぼくは、二葉亭が歩いたのと同じ左門町の路地を歩いたことがあったかもしれない。

 二葉亭が上京して間借りした家の一つは九段坂上にあったが(「平凡」で「招魂社の裏手」と書いてあった家だろう)、それが富士山を眺めることができる丘の上で、九段高校のあたりとも書いてあった。通勤の途中に飯田橋駅から時たま歩くことがあった「富士見町」のあの高台を二葉亭も歩いたのだろう。

  

 広津和郎は「二葉亭四迷論」の中で、夏目漱石や国木田独歩の死は惜しくない、彼らのなすことは先が見えていたが、二葉亭の死は何とも痛ましい、二葉亭にはまだまだやり残した仕事があったのに、と悔やむ一節があった(現物が手元にないので記憶で書いている)。地に足をつけ、人生の現実に立ち向かった二葉亭を広津が愛惜したこともうなずける。戦後の広津の松川裁判批判の執筆と行動は、戦後の日本社会で二葉亭の精神を生きる営みといえるかもしれない。

 日露戦争後の日本がいよいよ国家主義に傾く中で、「正直者」で「不器用」な二葉亭が生きていたらどう生きたか、そして何を書いたのか、広津ならずとも興味がわく。しかし生き延びたとしても、きっと生きにくい人生を送っただろうと想像される。 

 

 2026年2月11日 記

 

 
 
 映画“エデンの東”については以前に書いたが、今回はそのテーマソングの日本語の歌詞について。

 ジェームス・ディーンの没後10年を記念して “エデンの東” がリバイバル上映されたのは、ぼくが中学 3年生だった1964年の夏休みのことである。ジェームス・ディーンの没年は1955年(2025年の9月30日が没後70周年)だが、確かに1964年に「没後10年」を謳っていたように記憶する。

 その時にぼくは初めて映画 “エデンの東” を見た。リバイバル上映がまわって来た池袋の二番館だった。
 感動して原作も読んだ。もちろん野崎孝・大橋健三郎訳の日本語版(早川書房)だが。
 ヴィクター・ヤング楽団が主題歌を演奏するソノシートも買った。

 ところで、その “エデンの東” の主題歌には日本語の歌詞がついていた。
 ぼくの中学校の音楽の副教材で、いわゆる「歌本」のようなものが配布されていたのだが、その中に “エデンの東” の楽譜と歌詞が載っていた。
 中学 3年の音楽の時間に器楽の試験があって、自分の好きな曲を演奏してよいということだったので、ぼくはリコーダーでこの “エデンの東” を吹いた。

 そしてその歌詞もよく口ずさんでいた。 
 むらさきの 雲の流れに 
 思い出ずる 母の面影 ・・・♪♪
 という歌い出しだった。
 しかし、残念ながら、それ以降の歌詞はまったく記憶にない。

 Googleで「エデンの東 歌詞」で検索すると、いろいろなページが出てくる。そして、さまざまのバージョンの日本語の歌詞が出ている。
 しかし、ぼくの記憶にある歌い出しの歌詞には今のところ出会えない。
 あの音楽の副教材は、当時いくつかの中学校で採用されていたのではないだろうか。
 あの “むらさきの 雲の流れに ~” を歌った人もいるのではないかと思うのだが・・・。

 
 2018/5/2 記 

 ※ 何かふさわしい写真はないかと探したが、見つからなかったので、晩夏の軽井沢(借宿付近)の夕暮れの写真アップしておいた。しかしその後、同じ借宿の交差点から眺めた夕空で「むらさきの雲の流れ」により近いのがあったので差し替えた。2024年 9月の夕景である。「むらさき」とまでは行かないが、この写真のほうが、空と雲の色は歌詞にふさわしいかもしれない。 

 (※2026年2月7日 訂正再録)