二葉亭四迷「平凡」を、畑有三編「作家の自伝(1) 二葉亭四迷ーー予が半生の懺悔、平凡」(日本図書センター、1994年)に収録されたもので読んだ。

 「平凡」は、1907年(明治40年)に東京朝日新聞に連載された四迷の自伝的小説である(畑・解説)。主人公は39歳に設定されているが、執筆時の四迷は43歳、亡くなる2年前である。

 四迷は23歳にして「浮雲」を発表して新進作家として注目されたが、その後「文学は男子一生の仕事に非ず」と言って筆を折って文壇からは離れてしまった。その後は中国大陸で事業を起こして失敗したりするなどした挙句、「平凡」執筆の当時は大阪朝日新聞の社員として、ロシア語、英語の新聞記事を翻訳するなどしていた。「平凡」執筆後は露都特派員としてペテルブルクに滞在したが、1909年(明治42年)、ロシアからの帰途、インド洋を航海中の船内で肺結核に肺炎を併発して45歳で亡くなっている。

 四迷の小説は「浮雲」「其面影」と「平凡」の 3作品しかない。

 

 という二葉亭四迷の「平凡」だが、これが極めて読みやすく、しかも話の中身が面白くて一気に読んだ。

 旧仮名遣いではあるが、漢字は新字体に改まっていて難読の漢字には振り仮名がかなり多めに振ってある。筑摩書房版「二葉亭四迷全集」を底本にしたとあるが、筑摩版の全集自体がこんなに読みやすくなっているのだろうか。

 日本や世界文学の古典の何冊かを、1960年代までの岩波文庫や新潮文庫などの原文を尊重した(旧漢字、旧仮名遣いの)旧版で読まされた者としては隔世の感がある。当時比較的若者向けに編集されていた旺文社文庫でももっと読みにくかったような印象がある(永井荷風「ふらんす物語」など)。言文一致体の二葉亭に特有の読みやすさなのか、岩波文庫の「浮雲」に比べても今回の「平凡」は読みやすかった。

 どう面白いかと言うと、「平凡」は、明治期の青年の自伝小説であるが、家族小説であり、青春小説であり、恋愛小説であり、ユーモア小説であり、明治の東京を描いた風俗小説でもあり、筆致には江戸の戯作の雰囲気もある。

 書き出しから人を食った書きっぷりである。

 平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するのだから題名は「平凡」と即決した、昨今は自然主義とか言って作者の経験した愚にもつかぬことをありのままに牛の涎のようにダラダラと書くのが流行っているから、 「平凡」の書き方も「牛の涎」式であると宣う(130頁)。

 

 「平凡」の主人公は39歳で、役所勤めの暇に翻訳の内職をしながら、倅が中学校を卒業するまでは勤め上げたいと思っている小役人に設定されている。

 書きはじめの生い立ちからして型破りである。父母ら家族の思い出を1ページ足らずで簡単に紹介した後に、父母らの数倍のページ数を費やして、幼少期に拾ってきた捨て犬ポチとの出会いと別れを書くのだが、この部分は立派な動物小説になっている。わが家では孫が小学生の頃に、夏休みの課題図書に指定されていた「山のちょうじょうの木のてっぺん」という本を買い与えたことがあった。これが少年と飼い犬との悲しい別れの話で、心優しい孫の心を痛めさせる結果になってしまったのだが、「平凡」の四迷少年とポチ(犬)の別れも衝撃的かつ感動的である(151頁~)。

 自伝小説ではあるが、青年時代の四迷にとって肝心の、外国語学校でロシア語を学んだことはなぜかすべて省略されている。

 某県某市(四迷本人だとすると名古屋か松江)から上京して、叔父宅に居候して書生同然に家事万般を手伝わされながら、錦町にある夜学の某私立法律学校(明記していないが四迷が通ったのは「専修学校」現在の専修大学である)で法律学を学んでいた頃が描かれる(185頁)。叔父の家は招魂社(後の靖国神社)の裏手と書いてあるから、現在の富士見町(当時も富士見町だった)あたりだろう。

 貧しい実家から僅かの仕送りを受けながら東京で質素な生活を送ってはいるが、あまり熱心に勉強している様子ではない。主人公はもともと学校など無意味だと考えていて、ただ東京に出るためには学校に入ると言わなければならなかったので、学校に入っただけである(166頁)。法律学校を選んだのも親戚に法律学校を出て優雅な暮らしをしていたのがいたからに過ぎない(170頁)。

 

 勉強は熱心ではないが、女性への関心が強いことは「浮雲」の内海文三と同じである。同じ四迷の分身なのだから当然か。

 奥手で引っ込み思案ですぐ赤面する恥ずかしがり屋でいながら、女性に接近する(もっと言え関係を持つ)機会を伺いつづける様子は滑稽で、恋愛小説というよりはユーモア小説に近い。主人公の妄想を描いたシーンなどは明治時代にこんな描写が許されていたのかと驚くほどである。誇張されてはいるが、主人公のこの気持ちは多くの思春期の内気な少年が経験するところであろう。ぼくも大いに共感できた。

 まずは居候先の娘(従妹)の雪江さんに惚れる。「浮雲」の文三と同様に恋は盲目、痘痕も笑くぼである。書生扱いされながら叔父の家を出ないのは雪江さんと離れたくないからである。

 襦袢の袖から二の腕どころか腋の下まで見えそうになったと興奮し、乳首の色は薄赤くなっているだろうかなどと妄想する(200頁)。そして彼女が自分の妻(さい)でもなければ情人(ラヴ)でもない、そんな関係(どんな関係なのか?)になることを夢見て恍惚となるのである。雪江さんが座った座蒲団へのフェティシズムなどは、四迷が嫌った自然主義作家、例えば田山花袋「蒲団」と同じではないか。この辺りは明治のポルノ小説と言えなくもない。

 それでいて妄想から醒めると、性欲と理性との葛藤に苦しむところが永井荷風などとは違う四迷らしさである(204頁)。

 雪江さんの他男との縁談が決まると、主人公はさっさと叔父宅を出て下宿に移る。諦めがよいと思いきや、雪江さんが不幸な結婚生活を送っていないか、離婚にでもなれば自分にチャンスがまわって来ないかと嫁ぎ先の様子を伺いに行くなど、今だったらストーカー規制法で御用の行動である。

 その可能性がないと悟ると、今度は新しい下宿先で知り合った家主の遠縁の出戻り中年女のお糸さんに恋をする。病気の父親に仕送りするつもりだった金まで彼女に貢いでしまう。父危篤の電報が届いた時には、帰省する汽車賃もなく金策に駆け回るが、結局父の死に目には会えない。

 

 やがて小説を書くことになるが出版社に伝手がない。そこで根岸に住まう老大家を訪問して(誰だかは書いてないが、幸田露伴が「根岸党」という集団の一員だったというから露伴か? 四迷の師匠は坪内逍遥だが)、批評と出版社への紹介を依頼する。老大家は役にも立たない批評しか述べないが、老大家に紹介された出版社が作品を雑誌に載せてくれることになる。雑誌が発売されるや、嬉しくて書店で買い求めてむさぼり読む。谷崎潤一郎にもそんな場面があった。自分の処女作が載った中公だか改造だかを書店で買い求め、神保町の交差点を歩きながら読んでいた。

 主人公は筆で生きてゆくことを決意して、必死になって書いて書いて書きまくる。当時すでに「文壇」が形成されていたようで、老大家とは縁がなくなったが、文壇とは交わりをもつ(218頁)。そのうちにある作品が評価され(「浮雲」だろうか)文壇に確たる地位を得るのであった・・・。

 父を喪ったのち、母の願いで妻を迎え子ももうけたが、やがて母も父の後を追って亡くなる。自分は元来実感の人であり、文学はいかに現実を写しとったとしても本物の影であり空想の分子を含む。現実の人生や自然に接したような切実の感じは得られない。ところが最近の文壇は・・・と書きかけたところで「平凡」は終わっている。

 

 広津和郎が二葉亭四迷を評価したのは、地に足をつけて現実の人生から離れないこの姿勢であった(広津「二葉亭四迷」講談社日本文学全集系「廣津和郎・宇野浩二集」所収。ただし本は図書館に返却してしまったので正確な引用ではない)。四迷の「条理」観には、たしかに広津の倫理観と相通ずるものを感じることができた。

 

 2026年 2月 2日 記

 

  

 

 わが孫が 2歳か 3歳の頃だったが、私が

 「お祖父ちゃんは泰ちゃんが大好きだけど、泰ちゃんはお祖父ちゃんのこと好き?

と聞いたところ、第一反抗期だったのか、虫の居所が悪かったのか、孫が

 「泰ちゃんはお祖父ちゃん、好きくない!

と答えた(会話を表す「 」のうち、閉じる方の “ 」 ”を二葉亭は使わなかった。会話のテンポを妨げるからだそうだ)。

 「好きだ」という形容動詞(形容詞?)の否定語は「好きでない」だろうが、幼かった孫は、「美味しい」vs「美味しくない」、「可愛い」vs「可愛くない」の類推から、「好き」の否定は「好きくない」と考えたのだろう。幼児が母語を獲得する過程の一エピソードだが、「お祖父ちゃん好きくない」は、可愛い誤用とわが家の語り草になっていた。

 

 ところが先日、二葉亭四迷「浮草」を読んでいたところ、主人公内海文三が思いを寄せるお勢さんが、文三の恋敵で気障な本田昇のことを、何と、

 「わたし、あの人のこと好きくないわ

と言っているではないか!

 二葉亭四迷の用語法も「誤用」ということなのか。

 手元にあった国語辞典で調べたが、説明は見つからなかった。そこでAI で検索してみることにした。AI は質問形で聞かなければならないというので、

 「好きくない」は誤用ですか? と質問した。

 AI の回答は、「好きくない」は、文法的には誤用です。形容動詞「好きだ」の正しい否定形は「好きではない」または「好きじゃない」です、ただし若者言葉や強調表現として使われることもあり、「好かない」よりも軽く否定するニュアンスで使われる場合もあります、と出てきた。AI によれば「好きくない」は文法的には誤用というのが原則のようだ。

 

 そこで今度は、「二葉亭四迷は「好きくない」と書いていますが、これは誤用ですか?」と聞いてみた。

 すると AI の回答は、「はい、規範的な日本語(標準語、学校文法)としては誤用です。」「~くない」は「い形容詞」(寒い、赤いなど)に付く形です、若者言葉や崩れた口語として使われることもありますが、正しい文法ではありませんと言う。そして、二葉亭四迷が「好きくない」と書いていたという明確な資料は見当たりませんでしたと答えるのだが、「浮雲」で使われているのをぼくはちゃんと確認している。「何だ、AI もこの程度か」と思った。

 

 でもひょっとしてと思って、質問を「二葉亭四迷は「好きくない」をどのように使ってますか?」と、四迷が「好きくない」という言葉を使っていることをヒントに与えて質問してみた。

 すると AI の回答は、二葉亭四迷は、代表作である小説「浮雲」(1877年~)において、「好きくない」という言葉を登場人物の会話(口語)として使用しています。その具体例として、ぼくが見つけたのと同じ個所、お勢さんの会話を引用したうえで、四迷は話し言葉で小説を書く「言文一致体」の先駆者で、当時東京の若い女性(「山の手のお嬢さん言葉」ともある)などの間で使われていた「~くない」という新しい口語表現を、リアリティを出すために積極的に取り入れた。「好きくない」は誤用ないし俗語とされることが多いが、明治時代の言文一致運動の中では生きた話し言葉を文章化する実験的な表現として機能した旨の説明が続く。

 こちらの回答では、チャンと四迷「浮雲」に「好きくない」の使用例があることを指摘している。しかも、お勢さんは神田小川町に住む官吏の娘で女学校や英語塾に通っているから、まさに「山の手のお嬢さん言葉」を使っていたのだろう。お勢さんの「好きくない」には「好かない」よりは弱い否定のニュアンスがあったかもしれないというのも、「浮雲」の中でのお勢さんと昇の関係に当てはまる。

 

 AI というのは質問の仕方によって、正しい回答のこともあれば間違った回答をすることもあることが分かった。国語辞典では解決しなかった疑問に回答してくれるのだから、「AI 恐るべし!」と思うが、その一方で、現段階ではいまだ人間のチェックが入らないと、四迷が「好きくない」を使ったという資料はないなどと間違った回答をすることがある。

 

 どうやら、わが孫は2、3歳にして、明治初期の東京の山の手のお嬢さんと同じ言葉を使っていたようだ。

 ただし孫の発した「好きくない」は「好き」の強調表現だとぼくは信じている。

 

 2026年2月1日 記

 

 

 

 イヴァン・ゴンチャロフ「オブローモフ(上・中・下)」(米川正夫訳、岩波文庫、1976年)がわが家の物置に残っている。

 まったく読んでない。なんで買ったかというと、(はっきりした記憶ではないが)1970年代の末に笹川巌「怠けものの思想ーー80年代の行動原理」(PHP研究所、1979年)を読んで笹川の「怠けもの」論に共感し、同書が紹介していた「オブローモフ」にも興味をもったのではなかったかと思う。

 読んでないから、この小説のストーリーも分からない。そこで、上・中・下の各巻表紙の帯についたキャッチ・コピー(惹句)だけを書き写しておく。

 上巻は「オネーギン、ペチョーリン、ルージンの血を引く無用者の典型、余計者の悲劇を見事に描ききったゴンチャロフの代表作」、中巻は「いつまでもベッドを離れないオブローモフ。その彼が夢から醒めて起き上がる日が来た。オリガとのばら色の愛の世界。しかし……。」、下巻は「ヴィボルグ区の侘しい住居で静かに息をひきとるオブローモフ。生涯無用者として、しかし「潔白で真実な心」を害わずに……。」となっている。なんとなく分かったような気がするではないか。

 

  

 

 広津和郎や宇野浩二のように、大学を出ても定職につかず(新聞記者や出版社の校正者などを不定期にやっていたが)小説を書いている大正時代の「高等遊民」たちなら大いに共感しそうである。中巻のコピーなど宇野の「蔵の中」(旧題は「蒲団の中」!)を思わせる。二葉亭四迷「浮雲」の失業した内海文三のお勢さんへの恋などもオブローモフのオリガへの愛が下敷きなのだろうか。

 しかし、昭和50年代に、27、8歳だったぼくがなぜ「オボローモフ」だったのか? 笹川の本でオブローモフを援用していたかどうかは記憶にないが(笹川の本はかなり以前に断捨離してしまった!)、「オブローモフ」の帯の宣伝文句を読むと、オブローモフはいかにも笹川巌「怠けものの思想」に出てきそうな性格と生活ぶりである。

 サラリーマン編集者として鬱屈した日々を送っていたあの頃のぼくが笹川の本から影響を受け、共感したことははっきり覚えているから、同書で知ったのだろうと思う。あの頃のぼくは、こんなコピーにキャッチされて思わず買ってしまったのだろう。しかし、こんな虚無的な人物を主人公にした文庫本3冊で1100頁を超える話を読むほど、当時のぼくは虚無的な日々を送っていたのではなかったはずである。

 それでいて、ご丁寧にニコライ・ドブリューポフ/金子幸彦訳「オブローモフ主義とは何か」(岩波文庫、1980年、上の写真)などという本まで買っている。これも読んだ形跡はまったくない。

 

 いずれにしても、ニヒリズムだの虚無主義だのは先の見通せない若者がおちいりがちな心境で、現在のぼくのように先の見えた老人には縁のない心境である。

 

 2026年1月28日 記

 

 

 

 小谷野敦(二葉亭四迷原著)「もてない男・訳 浮雲」(河出書房、2011年)を読んだ。

 「もてない男・訳」の意味が不明なので、どんなコンセプトの本なのかがよく分からなかった。訳者が自分を卑下しているだけかと思ったが、奥付を見ると「もてない男・訳 浮雲」というのが本書の題名らしい。内容を見ると、二葉亭四迷「浮雲」の抄訳かつ現代語訳ということのようである。序言にも二葉亭四迷「浮雲」の現代語訳のこころみであると書いているから、「もてない男」は無視して、二葉亭四迷「浮雲」の現代語訳、抄訳として読んだ。

 高校や予備校の古文の授業で、先生が直訳したり意訳したり、端折ったり(「こんなところは試験に出ないから無視してよい」とか言って)時には時代背景を説明したりといった、あの形式で「浮雲」を抄録、訳読したものと思えばよい。

 岩波文庫の「浮雲」では通読するのが無理だったので、やや心配しながらこの本を手に取って読んでみたのだが、正解だった。岩波文庫には出版当時の挿絵が入っていて、登場人物が着ているものや髪形などは分かりやすいのだが、ヒロインの「お勢さん」の姿がいかにも江戸時代風で、イメージがわきにくい(下の写真、右側の姿勢が悪いのがお勢さん。岩波文庫「浮雲」40頁。訳注もきわめて詳細で役立つ)。

 

 

 

 明治20年(執筆は前年の19年)、四迷が23歳の時の作品だが、男の側から描いた恋という点では、約30年後の大正 8年発表の広津和郎「若き日」などとも共通の感情が描かれている。第三者からは女のアラが目立つのにすべてが美点に見えたり(恋は盲目)、ほかの男と談笑していれば穏やかならざる気持ちになったりと(嫉妬)、昭和40年代に(四迷と同じ)23歳だったぼくの気持ちにも通じるところがあった。明治のはじめの男もこんな恋をしていたのか、と新鮮な印象を受けた。

 明治初年のこと、ようやく官員(今でいう官僚か国家公務員か)の地位にありついたのに、上司に胡麻をすることができずに免職となってしまった主人公(内海文三)と、文三が厄介になっている叔父の家の娘お勢との恋物語である(いとこ同士だが禁忌感は微塵もない様子である)。と言っても、文三が一方的に思いを寄せているだけで、お勢の気持ちはよく分からない。免職になって無職、無収入で居候の身とあっては、恋などする前に仕事を探せと言いたくなるが、文三は仕事探しなどほとんどしないで日々ぶらぶらするだけである。

 文三のかつての同僚で、課長に取り入って免職を免れたばかりか昇進までした本田昇というライバルが現れ、お勢の心も昇になびいているようにみえる。昇は課長の妻の妹とお勢との二股である。昇がお勢のところにやって来て、下の階で談笑する声が聞こえると、二階の文三は心配になってそっと階段を下りて聞き耳を立てる。笑い声が聞こえると自分のことを笑いの種にしているのだろうと邪推してわなわなと震え、もうこんな家を出て下宿しようと探しに出るが、結局面倒くさくなって下宿はやめて帰ってきてしまう。

 文三の優柔不断と能天気ぶりにはイライラさせられ通しだった。優柔不断で臆病なのにプライドだけは人並み以上に高い。明治初期の落ちぶれた士族出身の男はこんな調子の者が多かったのだろうか。「浮雲」はゴンチャロフの「断崖」がモデルであるという。こんな主人公の心情に共感して、ゴンチャロフの(「オブローモフ」の)虚無主義(無気力?)に馴染んだ広津和郎は、二葉亭のニヒリズムを高く評価するのだろうか。

 

 ぼくが「浮雲」を気に入った理由の一つは、ぼくにとって多少の地理勘のある場所がいくつも出てきたことであった。

 文三が居候する叔父の家は小川町にあるようだ。当時の官庁街は大手町の内堀沿いにあり、仕事が退けると神田見付から北側の錦町を通り、さらに北側の小川町に帰っていたようだ。

 錦町には四迷が通った外国語学校(後の一橋大学、東京外国語大学)があり、錦町の西北方向が神保町だが、四迷が通った専修学校(後の専修大学)は当時から神保町にあったのだろうか。岩波文庫「浮雲」331頁に舞台となった街の当時の地図が載っている。「浮雲」には専修学校は出てこないが俎橋(まないたばし)から靖国神社の鳥居にむかう九段坂は出てきた。

 神田川に架かる俎橋は今では首都高の下で、橋のたもとにはなぜかハリー彗星の記念碑(?)が立っている。神保町のさらに北側(北西側)は「西小川町」となっている。こんなところまでが小川町だったのか! 現在では西神田(5丁目?)の交差点がある辺りである。当時は、夜になると神保町には夜店が並んだそうだ。今では夜店など見かけないが、平成の半ば頃までは、それこそ俎橋のたもとに屋台が出ていて、仕事帰りのサラリーマンが酒を飲んだり、ラーメンを立ち食いしていたが、いつの間にかいなくなってしまった。

 

 文三の叔母の知り合いは須賀町に住んでいて、三筋町が近所のように書いてあった。台東区浅草の三筋まで歩くのかと思ったら、この三筋町に訳注がついていて、赤坂区青山三筋町と説明があった。現在の港区北青山とあるから、それなら須賀町から歩いても行けただろう。

 ぼくが在職した昭和50年ころの日本評論社はこの須賀町にあった。近所はお寺と神社が多く、出戸時代から続いているようなごちゃごちゃした古い町並みだった。

 文三が下宿しようかと貸間を物色に行ったのが小石川、水道町(今の水道橋か)あたりだが、結局叔父の家に居候をつづけることにしたのは前に書いた通り。

 そして、文三とお勢の恋の行く末もの尻つぼみのまま、「浮雲」第三篇(最終篇)は終わってしまう。お勢と昇との間に性関係があったかどうかも「浮雲」の謎の一つだそうだ。

 四迷は「全体を通じた思想などありません」と言っていたが、そうかもしれない。官尊民卑の世相を風刺したという者もあったが、官僚の腐敗は批判しているが「官尊民卑」は伺われなかった。

 

 2026年1月28日 記 

 

 

 

 広津和郎「若き日」(大正8年、大正15年改題)は、実際の広津の閲歴とは似つかわしくない、「年月のあしおと」以降何冊か広津の自伝的な私小説を読んできたぼくにとっては予想外の「純愛」物語だった。ひょっとすると実際の広津にも「若き日」に描かれたような「純愛」の心持ちがあったのかもしれない。だからこそ「愛のない結婚はできない」と言って「性の過誤」(松原新一)によって妊娠させた女との結婚を拒否しつづけたのかもしれない。

 

 ところで、小津安二郎監督の「晩春」(昭和24年、1949年)は「原作 広津和郎「父と娘」より」となっているが、原作とはかなり(まったく?)違った展開、結末になっている。広津の「父と娘」を読んでいないので何とも言えないが、娘の自立、自己責任を尊重したであろう広津にとって、父親が虚言を弄してまで娘を結婚させようとする「晩春」のストーリーを納得できなかったことは考えられる。「晩春」が広津の不興を買ったという話もありうる話だろう。

 「晩春」の前後にも、広津と小津の交流は(広津の自伝「年月のあしおと」を読んだ限りでは)無かったようである。二人とも志賀直哉を尊敬していたから、志賀を介してでも、あるいは二人とも里見弴と交流があったようだから、何らかの交渉があってもよさそうな気がするのだが。

 

 再びところで、(起承転結ならぬ起・転・転々・・・となってしまうが)、広津の「若き日」を読んでいて、ぼくは昭和期(戦前も含めて)小津映画の俳優たち、とくに女優たちの台詞に広津の影響があったのではないかと感じることが何度もあった。昭和期の東京に住む女性たちは誰でも広津が書いたような会話、言葉遣いをしていたというのであればそれまでのことだが。

 例えば、広津「若き日」で、千鶴子の母親が、娘に好意を抱いている主人公小島に向かってこんな風に尋ねる場面がある。

 「もしあなたがですよ。・・・いえ、今のあなたのお気持はよく解ってますよ。今のあなたがそうだというんではありませんよ。ほんとうに千鶴子を妹のように可愛がっていて下さるんですから。・・・けれども、今にあなたが別な意味で千鶴子を愛して下さるような事になり、千鶴子が又あなたをお慕いするようになりましたら、いえ、これは仮定ですよ、ひょっとそういうことにでもなりましたら、あなたはどうなさいます?」(筑摩現代文学大系(27)廣津和郎集300- 1頁)。

 この会話はそれだけでも映画の脚本のように読むことができるが、この会話を読んだぼくには千鶴子の母親が小津「麦秋」(昭和26年、1951年)の杉村春子が喋っているように思えた。息子の二本柳寛を原節子と結婚させようという「麦秋」と状況も似ているではないか。小津(と野田高梧)の脚本に広津の影響があったかどうかについて、誰かの先行研究があるのか知らないけれど。

 ※「晩春」「麦秋」はいずれも「日本映画永遠の名作集 小津安二郎大全集」(メディアジャパン、下の写真)に収録。

 

 

 

 三たびところで(転々々・・・)、小津にはそのものずばり「若き日」という作品がある(昭和4年、1929年。正式な題名は「学生ロマンス 若き日」)。

 この映画は、当時の小津のいくつかの作品と同様に、舞台は都の西北(安部球場などが出てくるからおそらく早稲田大学)、登場人物たちは大学近辺に下宿する(早稲田)大学生である。授業をサボるあたりも広津の学生生活と似ているが、広津が翻訳などで生活費を捻出する苦学生だったのに対して、小津「若き日」の主人公たちは試験休みにスキーに出かける余裕はある(裕福という程ではなかったように記憶するが)。

 下宿近くの女性を見染めるあたりも広津「若き日」を思わせるが、その真剣さ、純愛度(?)はまったく違っている。小津「若き日」のほうは、とくにスキー場以降の展開はスラップスティック風のドタバタ喜劇だった。10年以上前に見たので記憶はあいまいだが、主人公たち 4人がスキー場に向かう列車内の場面で、「その日 軽井沢駅では 釜めしが いつもより四つ余計に売れた」という字幕画面が出たことと、彼らが到着した信越線のホームの駅名表示が「たぐち駅」(現在は妙高高原駅)となっていたことだけは覚えている。

 

 広津が「若き日」と改題したのが大正15年、小津の「若き日」は昭和4年と広津から 3年しか経っていないが、題名が同タイトルになったことは偶然なのだろうか。ぼくは何がしか広津「若き日」の影響があったと思う。小津「若き日」は、もともと「思ひ出」という仮題だったのを公開に際して「若き日」に改題したという。小津25歳の、長編第 1作だそうだ(「小津安二郎映畫読本 [東京]そして[家族] 」フィルムアート社、2003年新装改訂版、36頁。上の写真)。

 広津が当時映画に興味があったのかどうか分からないが、もし小津「若き日」を見たら好感は持たなかったと思う。「父と娘」と「晩春」以上に、広津の「若き日」と小津の「若き日」は違い過ぎる。どうせ「若き日」と題するのなら、むしろ広津の「若き日」をなぞった映画を作ればよかったのにとぼくは思うが、当時は日活のスキーもの映画に対抗しなければならなかったというから(同上書)、無理だったのだろう。

 そもそも広津「若き日」のような純愛ものは、結婚(縁談?)志向の小津には似合わない。広津自身が、白樺派の武者小路実篤「お目出度き人」や志賀直哉「大津順吉」に見られる(生活の不安というものを抱えていない人たちの)一途さに驚嘆し、自分のような生活の不安を抱えた青年の複雑な屈折を顧みている(筑摩版308頁)。この屈折は、少なくとも戦後(「風の中の牝鶏」以降)の小津映画のテーマではないだろう。

 

 2026年 1月24日 記

 

 

 

 「筑摩現代文学大系(27)菊池寛・廣津和郎集」(ちくま書房、1977年、上の写真)で、広津和郎「若き日」ほかを読んだ。

 読んだのは、「怒れるトルストイ」、「志賀直哉論」、「一本の糸」、「藤村覚え書」 、「徳田秋声論」と文芸評論が中心だったが、最後に読んだ小説「若き日」(大正 8年)が一番良かったので、これをタイトルにした。

 

 評論の方を先に片づけると、「一本の糸」は二葉亭四迷「其面影」に見られた、自己反省の無さやインテリの弱さの自覚、現実適応主義、ルーディン(誰?)理解(これが「一本の糸」か)が後継者(内田魯庵、正宗白鳥ら)に伝わらず、二葉亭限りでついえ去ってしまったと論ずる。ほかの何かで、広津は二葉亭のリアリズムとニヒリズムを評価していた。いよいよもって二葉亭は読まなければなるまい。広津がまったく言及しない「浮雲」ではだめなのだろうか。「文学は男子一生の仕事に非ず」と四迷は言って筆を折ったが、他の事業に行っても二葉亭が腰を落ち着ける場所はなかっただろうと広津は書く。

 徳田秋声への賛辞はほかの何かでも読んだが(「年月のあしおと」だったか)、50年に及ぶ息の長い作家人生の間中秋声は成長をとげ、到達点の「縮図」における愛欲生活(だったか)の描写の温かさを褒めていた。どんな筆の温かさなのか興味はあるが、秋声「縮図」まで読む時間はぼくには残されていないだろう。

 志賀直哉への評価も高い。作品だけではなく、志賀の体格(身長の高さ)、風貌、立居振舞いまで、人間全体として褒めるのである。そういう人物だったのだろう。学生時代に広津らが「奇蹟」を始める際に、誌名の相談に行って以来、松川裁判批判に至るまでの長い交流だから肝胆相照らす仲だったのだろう。誰だったかの「暗夜行路」批判も吹っ飛んでしまう。

 広津は晩年の島崎藤村の姿や発言を優しく観察していたが、全体には藤村を高く評価しているようには読めなかった。例の「新生」執筆後にフランス(だったか)に逃亡した藤村には厳しい。その一方で相手方女性(姪)のその後の立ち直りを知ることができて救われた。小諸懐古園内の藤村記念館では「新生」は年譜に一行触れているだけだったが、姪の写真が展示してあった。

 

 広津は批判するような人物は取り上げないと何かに書いていた。硯友社の尾崎紅葉、幸田露伴、などには触れないし論じていない(と思う)。広津柳浪は、父としては頻繁に取り上げるが作品はいっさい論じない。柳浪の「弟子」だった永井荷風にも好意はもっていなかったのだろう。「つゆのあとさき」を女性蔑視と言って批判していた。広津自身にもそのような傾向が無きにしも非ずと思うのだが、広津自身の価値観では永井と自分の間に差異があるのだろう。宇野浩二の発病が脳梅毒によるものだったことについて、当時としては宇野にとって恥しいことではないような記述が「年月のあしおと」の中にあった。

 永井が忌み嫌った菊池寛を広津は嫌いでなかった。「菊池寛の率直さ」と題した人物論を読んだ(本は図書館に返してしまったので確認できない)。自然主義の作家でも田山花袋などはそのセンチメンタリズムを批判する。

 「怒れるトルストイ」も当時のトルストイ・ブームに乗った人々のトルストイ理解の浅さを批判する。広津はトルストイの五戒のうち「怒るなかれ」を自分自身と内省する自分とを統合する戒めとして重視する(こんな要約に自信はない)。

 

 そして、本書の中で一番良かったのが、「若き日」という小説である。主人公の小島(広津本人だろう)には矢来町、麻布と家が隣近所で、学校も小学校、麻布中学、早稲田予科、大学と一緒だった杉野という友人がいる(モデルは誰だろう?)。

 杉野の物言いや態度を主人公の小島は嫌悪するが、杉野の妹千鶴子に小島は好意を寄せる。杉野の父は万朝報の記者だったが結核のために退社し黒岩涙香からの賞与で生活していたが、やがて亡くなる。杉野は政治科に進み雄弁会に所属し、主人公は文科に進むが父の収入がなく家が貧乏なため学費は翻訳などで賄っている。

 杉野の家を屡々訪ねる小島は千鶴子を妹のようにかわいいというが、母親から将来的には嫁に貰うつもりかと聞かれて返事に窮する。まだ学生の身分で、卒業後も両親の生活も自ら背負っていこうと覚悟している小島にとっては経済的に千鶴子と結婚する自信がない。ある時帝劇だったかの芝居に千鶴子を誘うが、兄が反対したため当日になって彼女は行けないという。杉野宅を辞して帰宅する小島と、千鶴子は銭湯に行くという口実で途中まで一緒に歩く。言葉を交わすこともなく穴八幡の坂道を二人は歩き、別れ際に千鶴子は、「さようなら」「もううちにはいらっしゃらないんでしょう」とささやく。

 この場面の二人の描写がいい。とても大正8年の作品、しかもやがて下宿の娘と関係を持って子を産ませることになる広津の作品とも思えない。昭和40~50年代のぼくの心象と同じである。

 何年か後に偶然電車の中で杉野に再会した小島は、千鶴子が不本意な結婚をし、結核で亡くなったと聞かされる。電車の窓からは濠の向こうの松の木立や堤の青々とした芝に五月初旬の陽ざしが当たり松の背後には紺青の空が広がっている。こういう五月の美しい景色が彼女の瞳にはうつっていないのだ、半年前に彼女はもうこの地上の空気を呼吸しなくなっていたということが小島には不思議に思われた。あのとき穴八幡の坂道で別れたときが自分にとっても千鶴子にとっても運命の岐路だったと小島はふりかえる。

 この感慨もわかる。1974年、昭和49年の5月、新宿駅ビル地下の「アンアン」で飲み、春の宵、嘘っぽいけれど本当に沈丁花が香っていた恵比寿駅東側の坂道を並んで歩いた。彼女は別れ際に「さよなら」と心で言っていたのかもしれないが、ぼくはまた会うつもりだった。しかし結局その後50年間一度も彼女と会うことはなかった。そして彼女は、千鶴子ほど短命ではなかったが一昨年亡くなってしまった。沈丁花の香る恵比寿の坂上が彼女との別れ道だった。

 

 2026年1月22日 記

 

 

 

 広津桃子「父広津和郎」(毎日新聞社、1973年)を読んだ(表紙カバーの絵は広津の描いたもの)。図書館に収蔵されていなかったので、Amazon で古本を購入した。本体38円、送料が350円だったが、どうも最近のネット古本屋の本体価格と送料の値付けには納得できない。

 

 広津は、性関係を持って(松原新一に言わせれば「性の過誤」によって)子まで産ませた女に対して、愛をもてないから結婚もしないと言った。そのような二人の間に生まれた子どもたちは広津のことをどのように思っていたのかを知りたくて本書を読んだ。広津は、はじめは愛のない結婚はできないと言っていたのだが、女が二人目の子どもを懐妊するに及んで婚姻届を提出したことは、松原新一の伝記「怠惰の逆説」で知った。その二人目の子どもが長女の桃子である。

 広津は婚姻届は出したものの母子と同居することはなく、二人の子どもは母親に引き取られ永田町の母方の実家で育った。桃子の小学校は永田町小学校だった。子どもたちは広津と交流したが、母親は生前の広津と会うことはなく、広津が亡くなった折にはじめて棺の前に座ったという。若くして結核で亡くなった長男の賢樹は広津に懐いていたようで、二人が広津宅の縁側でにこやかに微笑んで並んだ写真をどこかの文学全集の口絵で見た。賢樹は「けんじゅ」と読むらしいが、祖父の柳浪が「けんじゅ」では僧侶みたいだから「まさき」と読んではどうかと進言したが(!37頁)、祖父の意見は採用されなかった。

 ※下の写真は、「筑摩現代文学大系(27)廣津和郎集」504頁に載った広津と賢樹。

 

 思春期ころまでの桃子は広津に対してわだかまりがあったようだが、毎月の生活費の仕送りが滞った折などには、母親に言われた桃子が広津のもとを催促に訪ねたりした。桃子が甘えるつもりで、英語のリーダーの訳読を質問したところ、「こんな簡単なことが分からないようでは困ったものだ」と広津が言ったために桃子が傷ついたというエピソードもあった。ツルゲーネフやモーパッサンを英語で読んだ広津には桃子の英語力が物足りなかったのだろう。

 しかし、文学少女だったらしい桃子は長じてからは父との交流を楽しんでいる様子がどの随筆からもうかがえた。父を父としてまた作家として尊敬するだけでなく、男としても好いているように読めた。父と母と二つの家を持ち、時おり双方を行き来する生活は、いわくある父と娘の間に程よい距離感を与えている。

 また父の関係で宇野浩二、谷崎精二、佐多稲子、志賀直哉らと、さらに志賀を介して阿川弘之や網野菊らと知己を得ることができ、交流できたことも桃子の喜びであっただろう。普通の文学少女では得られない、広津の娘ならではの経験である。

 松川裁判の救援活動を経済面で支援するために、作家たちが色紙を展示、販売する催しがあった。志賀直哉が呼びかけ人の筆頭になり、尾崎士郎も名を連ねたばかりか挨拶状まで書いている。尾崎士郎までもが松川裁判支援にかかわっていたとは知らなかった。志賀は、「広津が無罪だと確信するなら広津を信じる」と言って協力したが、尾崎も広津との関係で協力したのだろうか。「年月のあしおと」には尾崎士郎との交流は出ていなかったが。

 

 

 

 広津からの生活費の支援もあって桃子一家の生活は経済的には困ることはなかったようだ。桃子は女学校から日本女子大(学校)の国文科を出て、戦時中に女子商業学校の教師になったが、教師という職業を嫌って退職した。教師よりも、勤労動員先の工場長のほうが好感が持てたと書いている。戦時中の桃子は相当の愛国婦人だったことが当時の日記や手紙からも伺える。

 戦後、とくに広津が松川裁判の支援を始めて以降、桃子はずっと広津に寄り添い秘書的役割を果たしていたようだ。桃子は鵠沼に住み、広津は護国寺の下宿で執筆活動をしていたが、その護国寺の下宿を屡々訪ねている(このアパートに網野も住んでいた)。

護国寺から裁判所へ向かうタクシーが牛込の矢来町を通るときに、広津は「あの新潮社のあるところで生まれた」と桃子に説明した。最高裁への道は広津のお気に入りのコースだったようだ。

 松川裁判支援を呼びかけるための全国各地への講演旅行などにも桃子は同道している。父とともに全国各地を講演旅行して回ったことは、桃子にとっても思い出深い旅になった。聴衆席で父の講演を聞いている桃子の耳に、隣席の女性の「あの『女給』を書いた作家よ」などという囁きが聞こえたことがあったという。「女給」はそれくらい評判になったのだった。

 松川事件は事件発生から第 2次最高裁無罪判決まで14年の歳月を要したが、当初は青年弁護士だった大塚一男弁護士が無罪判決報告会の頃には貫禄ある弁護士になっていたという桃子の観察が記されている。編集者時代にぼくは、貫禄十分になられた後の大塚弁護士に何度かお会いして原稿をいただいたことがあったが、内容は松川関係ではなく再審問題だったと記憶する。大塚弁護士も(広津と同じく)早稲田の予科出身ではなかっただろうか。

 第 2次仙台高裁での無罪判決(裁判長の名を冠して門田 [=もんでん] 判決と呼ぶ)で広津らの気持ちが大きく安らいだという。判決後に桃子と父は支援者の車で青葉城を見物した。広津は麻布の同級生だった伊達順之助(政宗の子孫)のことを思い出していた。 

 

 広津は生活費を捻出するために多くの娯楽小説を書いたという。改造社の円本ブーム以降、(売れている)小説家の収入はよくなったが、広津は少なからぬ家族を養うためにそのような小説も書かなければならなかった。それら作品の多くは「廣津和郎全集」にも収録しなかったというから、本人は納得していなかったのだろう。

 そんな作品の中に、「父と娘」という小説がある。おそらく広津の桃子に対する思いが登場人物に仮託して書いてあるのではないかと想像する。「父と娘」は小津安二郎「晩春」の原作とされているが、映画のタイトルには「原作 広津和郎「父と娘」より」となっていて、 映画の内容は原作とかなり違っているらしい。広津は「晩春」に不満を抱いていたことを何かで読んだが、娘を嫁がせるために父親が「偽装結婚」まで装うというよう展開は広津の作風ではないだろう。広津の自伝「年月のあしおと」には小津への言及はまったくなかった。小津は志賀を大変に有り難がっていたが、広津との間にはそれほど親しい交流はなかったのか。 

 「父と娘」は「全集」だけでなく単行本にも未収録と書いてあったが、ネットで調べると戦前発行の単行本には収録されているようだ。しかし古本屋の目録にも載っていない。「Kawade ムック 小津安二郎--永遠の映画」(河出書房、2020年)というのに収録されているらしいが、この本も品切れになっている。ネットの情報であらすじを知ることができるが、主人公は大森に住む弁護士で、京浜線の通勤の車内で「法律時報」などを読んでいる! 大森在住は広津のようで(大森馬込村)、弁護士というのは「晩春」の笠の大学教授か松川裁判支援の広津自身のようである。

 

 広津は護国寺の路上で、バスに接触して意識を失って入院したことがあった。道端の電気屋の店頭で早慶戦の野球中継を見終わった(聞き終わった)直後の事故だったという。意識を回復した広津は事故の記憶を一切失っていて、桃子に向かって「無だね」と言った(76頁)。ずっと後になって、広津は松川事件の元被告だった本田昇氏にも、松川裁判の無罪判決について「僕にとってはゼロだよ」とつぶやいたという(松原新一 9頁)。

 若い頃以来の虚無哲学にとらわれたニヒルな広津にとっては、松川裁判の無罪判決にいたる散文精神の発揮も本当に「ゼロ」だったのだろうか。もともと無実だった被告人たちを裁判官が誤った事実認定によって死刑と宣告したために、その誤りを是正するために努力をして無罪が確定したのだから、「ゼロ」(無実)から「ゼロ」(無罪)に戻っただけと言えなくもないが、そこに至る裁判批判のプロセスは決して「ゼロ」ではないと思うのだが。広津には何かむなしさが残ったのか。

 

 最後に熱海の家で心臓を患い、家で養生したいという本人の希望にもかかわらず、主治医の強い勧めに従って国立熱海病院に入院させてしまったことへの、桃子の強い悔恨の念が語られている。入院後に病状は一気に悪化し、入院から数日後に広津は亡くなった。昭和43年 9月21日、77歳にあと 2か月だった。

 後を追うように、志賀直哉、谷崎精二も亡くなった。

 

 2026年1月20日 記

 

 

 

 ギュスターブ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848~1894)というのは印象派の画家で、大富豪の美術商かつ印象派の絵画のコレクターでもあった。彼の別荘は今日では広大な公園になっている。

 ぼくは彼の名をまったく聞いたことがなかった。1960年代にわが家で取っていた(毎月配本の)座右宝刊行会の美術全集(河出書房)に彼の巻はあっただろうか。

 

 昨年亡くなった妹の蔵書を整理しているうちに、魂をパリに残したまま日本での生活を送っていた彼女の書棚にパリの地図や各区ごとの観光案内、モネの画集などとともに、題名に “Gustave Caillebotte” なる名前の付いた本が10冊以上あることに気づいた。上の写真はそのうちの1冊、Jean-Jaques Leveque,“Gustave Caillebotte”(ACR Edition, 1994)の表紙。

 パラパラとページをめくってみると、ぼくのような美術に疎いものでも見覚えのある絵が何枚かあった。下の絵はその代表格で、見覚えはあったがシスレーか誰か有名な印象派の画家の作品だろうと思っていたのだが、この絵を描いた画家がカイユボットだった。

 ルノアール、マネ、モネ、スーラ、セザンヌ、ゴッホらほど有名ではないようだが、彼の絵を眺めると、他のどの印象派の画家とも異なる(と言っても大した数を見たわけではないが)彼独自の印象を受けた。写真に近いような写実的な画風で、描いた画家の心象が透けて見える。19世紀中葉の画家とは思えない、19世紀末のベル・エポックか、20世紀のレトロな雰囲気のポスターのような印象である。

 残念なことに、古い本で無線綴じの糊もひからびていたらしく、このページを開いたとたんにノドの部分がガバッと剝がれてしまった。せっかく妹が大事にしていた本だったのに申し訳ないことをした。

 

 

 

 亡くなった妹も、これらの画集を眺めてパリでの日々を回想し、懐かしんでいたのだろう。もし魂があるのなら、彼女の魂は多磨墓地でも東京の自宅でもなく、パリの町のどこかを彷徨っていると思う。

 

 2026年1月19日 記

 

 

 

 松原新一「怠惰の逆説ーー広津和郎の人生と文学」(講談社、1998年)を読んだ。

 

 広津の著書を数冊読んで気になっていたことのほとんどが解決した。

 もっとも気になっていたことは、戦前の女性問題をくりかえす広津と、戦後の松川事件の被告人たちを支援しつづけた広津との整合性(のなさ)であった。

 まず事実関係として、本書の記述によって、広津が私小説的な小説の中でも明らかにしていなかった広津が法的な婚姻届出をした時期を知ることができた。

 広津は永田町で下宿屋を営む神山某の長女ふく(戸籍上は「婦く」)と関係をもち、大正4年に賢樹が生まれ「愉快ならざる結婚生活に入る」と自ら年譜に書いている(80頁)。しかし広津が正式に法律上の婚姻届を提出したのは大正7年1月16日のことだった(85頁)。長女桃子が生まれる2か月前であった(93頁)。

 長男賢樹は大正5年に他人夫婦の子として出生届が出された後に、和郎・ふく夫婦と養子縁組をして戸籍上は二人の養子と記載されている。小説「小さい自転車」の中で広津は、この子を庶子や私生児として届けることは嫌だったので、このような方法を取ったと書いているそうだ(87頁)。「愛のない結婚」を峻拒しながら、かかる配慮をするあたりに大正時代の広津の「戸籍」意識が伺える。

 大正8年に二人は完全に別居し、子どもたちは母親に引き取られた。ただし子供たちとの関係は細々とつづいており、月ごとの生活費の振り込みが滞ると、桃子は和郎のもとに催促に行かされた。賢樹と和郎とは桃子が嫉むほどに仲が良かったようだが、和郎の父柳浪に対する労りと孝養を思い出す。 

 この間、子どもを背負ったふくとその母親が毎夕新聞社の門前で退社する広津を待ち伏せ、神保町の辻で愁嘆場を演じたこともあったという。ぼくが20年間通ったあの神保町の交差点で大正末年にそのようなことが起きていたとは・・・。

 

 松原は、広津とふくの結婚を「性的過誤」から始まった「結婚生活」という。さらに、広津とふくとの関係の出発を「性の罠」といい、その後の輻輳する広津の女性関係を「多角的恋愛」というが、その一方で、松川裁判批判を貫いた広津を尊敬する人の中には、彼の女性関係を知って驚く人も少なくない、その女性関係の「だらしなさ」はこれが同じ作家のものかと素朴な疑問をもつのも当然だろうとも書く(99頁)。この一文を読んで、広津の女性問題に対する忌避感がぼくひとりのものではないことに安心した。

 大正12年に広津は、辛い女中奉公を経て当時カフェの女給をしていた松沢はまと出会って恋愛関係となり、大正末年には大森馬込村で同棲生活(事実上の婚姻関係)に入る(103、114頁)。ようやく広津の女性遍歴は終わり、昭和37年にはまが亡くなるまで二人の関係は終生続いた。はまを喪った広津は「わが生涯もこれで終わったか」と嘆いたという(233頁)。


 小説家としての広津と、松川裁判批判、無実の被告人支援者としての広津をつなぐものが、おそらく広津のいう「散文精神」だろうということは予想されるところだったが、ぼくは広津の文芸評論をほとんど読んでいないので、彼の「散文精神」なるものも理解していなかった。松原はその核心を広津の文章を適切に援用して説明してくれる。

 広津は「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通していく精神ーーそれが散文精神だと思います」という(155頁)。この文章は昭和10年代の、政治的には軍国主義化に対して、文化的には林房雄らのロマンティシズム(浪漫主義)に対して向けられた言葉だが、より普遍的に広津の行動原理の宣言でもあった。

 そして「散文芸術」の位置について、散文芸術は美術、音楽や詩などよりも実人生に近い位置にあり、散文芸術の隣りは現実、実人生であると論じている。葛西善蔵や芥川龍之介(「人生は一行のボードレールに若かず」)のような芸術至上主義と違って、散文芸術の広津は常に現実から離れることはなかった。

 

 このような「散文精神」が広津を松川裁判批判に向かわせた根底にあったのだろう。しかし、広津が松川裁判に関心をもつことになった直接かつ最初のきっかけは、被告人たちが出版した「真実は壁を透して」を読んで彼らの無実を確信し「世にも不思議な物語」を書いた友人宇野浩二への連帯だった(208頁)。そして、まさに「散文精神」で判決を熟読し裁判の誤り、被告人の無実を確信した広津も、無実の罪によって死刑囚として獄中にある被告人たちへの共感から松川裁判批判の論陣を張ることになった。

 広津は被告人に向かって、運動が政治性を帯びないように忠告し、「吉田内閣打倒!」といったスローガンを掲げることに反対したという。被告人で当時の共産党支持者の中には、所詮裁判は「階級裁判」であり公正な裁判など幻想であると考えたものもあったが、広津はそのような考えに与することなく、刑事裁判、刑事訴訟の論理に従って論陣を張り、そして勝利したのだった。

 戦前、戦時中にプロレタリア文学の「伴走者」と規定され、他方で言論報国会などの戦意高揚文学とも距離を置いた広津の延長線上に、戦後の広津の松川裁判批判があった。広津のいう「散文精神」については広津自身の書いたものは読んでいないのだが、ぼくには諒解できた気がする。

 松川の被告人らへの共感は、関係した女性たちがいずれも虐げられ、困難に直面した女性であったことと通底するものがあるという見方には賛成できないが、そのような心情もあったかもしれない。加えて、広津は女性にもてたのだろう。

 広津の長女桃子は、「父はあの通り好い人だ。よくもまあ、あの人のよさで、人生を通って来たと思ふ」と書いた(188頁)。またある友人は、(広津の女性問題に関して)「人情家で浮気者の広津には困ったものだ」と評したという(頁数みつからず)。同人の葛西のために自分の印税を前借し、プロレタリア文学の伴走者であることを拒むことなく、文藝懇話会にも関わりをもち、戦後は松川裁判支援に心血を注いだ広津は「お人好し」で「人情家」であったのだろう。ぼくは同年代の祖父の「お人好し」ぶりを思った。

 

 はまを亡くして以降の広津は、護国寺のアパートで独り暮らしをしていたが、鵠沼に住んでいた桃子が時折訪ねては面倒を見ていた。その桃子に対して和郎はけっこう古風な父親のように買い物を命じたりしたらしい。甘えていたのだろう。

 桃子は生涯独身で、祖父柳浪から、兄賢樹、継母はま、父和郎、そして母ふくの死を見届けて、昭和63年に70歳で亡くなった(235頁)。広津家は桃子の死によって完結した。

 

 広津和郎が徳田秋声、二葉亭四迷のリアリズムに示した共感などは、「広津和郎全集」に収録された秋声論、四迷論を読んでみよう。松原の本書に触発されて書きたいことは他にもあるが、ここまでにする。重要なことは広津自身の「年月のあしおと」でほぼ十分のように思う。

 広津は若い頃に自らを「性格破産者」と称し、虚無思想にとらわれた怠惰な人間と自己規定した。その「怠惰」が一般にいう怠け者ではなかったというのが「怠惰の逆説」という本書のタイトルなのだろうが、サブタイトルの方が内容にふさわしいと思う。

 

 2026年1月18日 記

 

 

 

 葛西善蔵「椎の若葉」を、千葉俊二ほか編「日本近代短編小説選・大正篇」(岩波文庫、2012年)で読んだ。

 この文庫はもともと宇野浩二「屋根裏の法学士」を読むために借りてきたが、広津和郎「師崎行」に続いて、広津の自伝「年月のあしおと」にも登場する葛西の「椎の若葉」も読んだ。広津は早稲田時代に創刊した「奇蹟」の同人でもあった葛西を下宿先の三宿の病床に見舞うなど最後まで優しく接していた。

 所用があって新宿に出かけたのだが、約束の時間の30分近く前に現地に到着してしまったので、近くのマックに入ってコーヒーMサイズを飲みながら、ちょうど約束の時間の 5分ほど前に読み終わった。

 

 広津「年月のあしおと」で葛西は面倒な人物だと予備知識があったので、広津「師崎行」のようなことはなく、予想通りの「嫌な感じ」がした。酒の上で暴行事件を起こして警察の厄介になったり、親戚から借金をしたり、女房を実家に連れ戻されたりといった不行跡をくりかえしながら、何かと自己弁護するような文章を綴っている。こういう人間をぼくは好きにはなれない。

 しかしその文章は新鮮だった。二葉亭四迷「浮雲」が言文一致体と言われているが(確かに森鷗外などと比べれば話し言葉に近いが)、それでも現代のぼくから見れば硬い語調だった。それに比べると葛西の文章は現代の作家が書いた文章とほとんど違いは感じられなかった。そんな軽い文章でありながら、語られる状況は悲惨である。

 「椎の若葉に光あれ」という葛西の希望はどのように読めばよいのか。葛西のような人間をぼくは苦手だが、鎌田慧さんはどのような葛西像を描いているのだろう。葛西と同郷という鎌田さんの「椎の若葉に光あれーー葛西善蔵の生涯」(岩波現代文庫)を読んでみよう。

 

 その昔、山崎章郎「病院で死ぬということ」か何かを読んだときに、肝硬変の末期の患者が酒を飲んで病室の床いっぱいに血を吐いたので、山崎医師が諫めたところ、「酒を飲まなければならない俺の苦しみはお前なんかには分からない」と言い返されて言葉に詰まったというエピソードがあった(ように思う。正確な言葉は忘れたが問答の趣旨はこんなだったと記憶する)。

 ぼくは恵まれて育ったから、葛西の苦しみも山崎医師の患者の苦しみも分からない。泥酔するほどに、血を吐くほどに酒を飲んで紛らわせなければならない苦しみも世の中にはあるのだろう。

 

 2026年1月15日 記