「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して空腹になることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがありません。』」
(ヨハネの福音書 6:35)
「彼らは言っていた。『この者はヨセフの子イエスではないか。…それなのに、どうして今『わたしは天から下って来た』と言うのか。』」(ヨハネの福音書 6:42)
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ガリラヤ湖のほとりで、5,000人の男たちに奇跡的に食物をお与えになった後、イエス様はこの冒頭に記された言葉を語られました。「パンの奇跡」として知られるこの出来事は、私たちの「いのち」、すなわち永遠のいのちの必要を満たすことができるのはイエス様だけであるということを示していました。
群衆は肉体の食べ物を受け取ることには意欲的でしたが、イエス様が「天から下ってきた生きたパン」であることを受け入れることができませんでした。彼らはイエス様をヨセフの子としては認めましたが、天から下ってこられた神の子としては認めなかったのです。
そこで、イエス様はさらに進んでこう言われました。
「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
(ヨハネの福音書 6:51)
これを聞いた人々にとって、この言葉はあまりにも受け入れがたいものでした。彼らにとってみれば、ヨセフの子が永遠のいのちを与えることなどあり得なかったからです。
イエス様がご自分の「肉」について語られたとき、それはご自身の肉体そのものを指していたのではなく、人となられたイエス様ご自身を指していました。
「言葉は人となって」(ヨハネ 1:14)
とある通りです。ご自分の肉を与えると言うとき、それはご自身の死、つまり「いのちを捧げること」を意味しています。
信仰とは、イエス様を「天から下ってきた生きたパン」、つまり「天に由来するお方」として見るだけにとどまりません。信じる者を救うために死を経験し、死に勝利されたお方として見ることなのです。
イエス様の肉を食べ、血を飲むということは、イエス様を真に、そして深く信じることを意味します。それは、「イエス様が私のために人となり、私のために死んでくださった」と信じることです。イエス様はいのちを与え、血を流されることによって、私が犯したすべての罪をぬぐい去ってくださいました。
これこそが、十字架の奥義であり、栄光なのです!
(La buena semilla より)
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