普段死を意識しながら
生きている人は
そう多くはないですよね。
生まれて生きている限り
いつか死ぬことは
知ってるけど
それはもっと
遠い先の話だって
なんの根拠もなく
思ってると思います。
だからこそでしょうね。
身近な人が
突然亡くなった時
最期に交わしたやり取りが
“ケンカ”だったという人は
実は少なくないんです。
先日
ボランティアを務める
グリーフグループに参加した時
参加者の方の1人が
まさにその状態でした。
パートナーを亡くして
2ヶ月。
彼女はその一言を言った後
泣き崩れて何も話せませんでした。
こういう話を聞くたびに
私はいつも胸が締め付けられると共に
身が引き締まる思いがするんです。
学校に送り出す前
夜寝る前
これが最期になるとしたら
私は同じ言葉を
同じ態度をとるんだろうかって。
もちろん聖人君子じゃないので
頭ではわかっていても
ケンカしたままってことだって
あります。
でも全く意識しないのと
何回に一回でも意識するのとでは
全然違うんですよ。
“当たり前に生きている”
“当たり前のように生きている奇跡”
になるので。
大切な人が
突然亡くなれば
ケンカしてなくたって
ハグして別れたって
自分を責めて後悔するものです。
そこはどうしようもない。
でもその意識が
日々あったのか
なかったのかは
一生終わらない
グリーフの過程を
間違いなく違うものにすると
私は信じています。
今日も生きて
おはよう
おやすみが言える
その奇跡を
どうか
たまにでいいので
感じてくださいね。