これから、あたしの過去、生立ちを書きます。
誹謗中傷は不要です。
また、表現に寄り不快な想いをされる方も居らっしゃると思いますので、不快に思われた方は観ないで下さい。。


あたしの壮絶体験談  ①

あたしが産まれる前に、母親はあたしを産む事は望んでなく、堕胎をしようとしていました、そう聞かされました。

実父と、離婚をし、再婚した母親の相手、義父。

ここからから、あたしの人生が崩壊していきました。

小学3年生の時、あたしは義父に「魚釣りに行くから付いて来い」と言われ、車に乗せられました。着いた場所は海ではなく、真っ暗な山奥でした。義父はあたしにこう告げました。
「やるかやらないか。」「やらなかったらお前をこの場に置いて帰るから1人で帰って来い」と。
あたしはどちらの選択も出来ず固まった。
その様子を見た義父は勘違いをして「する」方を選んだと思ったのか躊躇なく、後部座席に移動させられました。あたしは抵抗も出来ず怖いので身体が硬直してしまっていた。
義父はあたしを裸にし全ての事がそこで終わりました。勿論、されてる最中、涙は止まらないし怖いし痛いし「辞めて」と言えば「車から降りて1人で帰れ」だったので何も抵抗が出来なかった。
そこから毎週の様に金曜日から日曜日の夜遅くまで山奥に連れて行かれ同じ事を繰り返されました。あたし「母親に言えない、言ったら怒られる」と思い、一切、言わなかった(後々になって気付いたのが母親は知っていた。)
1年があっという間に過ぎてしまい、その頃には暴力や暴言等も全て受けました。
あたしは小学4年生になりました。
小学4年生の中旬頃に初潮がきました。
その事は母親に言いました。でも義父は相変わらずでした。あたしは「性教育での妊娠」がたまらなく怖くなり、ずっと耐えていたけれど、あまりにも「妊娠が怖く」小学4年生の終わり頃に母親に打ち明けました。義父にされている事を。。

母親の反応はやはり、あたしを怒鳴り付けて
「嘘つき、あんたは離婚して欲しいからそんな嘘を平気で付く嘘つき」と言われました。怒鳴られました。泣きながら訴え掛けても「嘘つき、嘘泣き」とレッテルを貼られました。もう母親の事は信用出来なくなり、「どうやって金曜日から日曜日を回避するか」しか考えれなくなりました。
あたしは「頭が痛い」「お腹が痛い」「気持ち悪い」の仮病ばかりを使っていました。
そんなあたしに追討ちを掛けるかの如く、母親は「義父と一緒に釣りに行けば治るから行きなさい」と言葉を掛けて来ました。毎週。毎週。
あたしは回避出来たり出来なかったりしていました。でもいつかを境に本当に体調不良になり、動けず、学校に行く事も出来なくなりました。
母親はあたしを病院に連れて行き医者に診せましたが、身体の痣を診た医者が「カウンセラー」のとこに連れて行ってくれ、「色々な絵を見せられ、これは何に見えるか、画用紙に、あたしの家と木とリンゴを書いて」と言われ、言われるままに従いました。そこで初めてあたしの病気が判明しました、「心身症」でした。医者は母親に伝えましたが、自宅に帰り「あんたはまたカウンセラーに医者に嘘をついた」と叱責され、たまに行く学校では、「イジメ」に合っていたので、あたしの逃げ場は全くありませんでした。その頃にはもう義父からも母親からも身体的虐待を全て受ける様になりました。あたしは三姉妹でしたが、姉と妹は別で、あたしだけが、全ての虐待を受けました。母親と姉が喧嘩していても何故かあたしが悪者、姉と妹が喧嘩をしていて、あたしは何もしてなくても何故かあたしが怒られる毎日でした。
義父の性的虐待、暴力、暴言は小学を卒業しても続きました。誰1人としてあたしを守ってくれる人は居ませんでした。酷い時は自宅で就寝中にされたり、お風呂でもありました。完全に母親は知っていましたが、離婚になるのが嫌だったのか一切、義父には何も言わなく、「見て見ぬふり」を貫き通しました。
母親が再婚した義父と、暮し始めて、あたしは
あたしが全て悪いと責めたり、我慢しないと、と言い聞かせたりしているうちに段々、壊れていったのか、されてる最中も殴られてる最中も
「痛い」「怖い」の感情がなくなってしまい、
ほとんど、「無」の状態に陥りました。
もうそこから全てあたしの人生を壊されました。


~~~~~~~~②へ続きます~~~~~~~~



②へ、続く間は普通のブログを書きます。
一気に書いてしまうと、体調を崩してしまうので今日はここまで。。


②までに、普通のブログも更新します、また②を書きますがいつ書けるかは未定です。


このブログを読まれて苦しい思いをされた方には本当に申し訳ありません。


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あくまで、実体験を書き、吐き出したいから書いているだけなのです。