こうして、母mamakoは、物忘れ外来に通うことになりました。とはいえ、mamakoの異変は、ちょっと話をしただけではわからず、母の身近な友人数名しか母の症状は知りませんでしたし、娘の私自身もそんなに急激に症状が進むとも思っておらずでした。

 

病院では、ひとまずアルツハイマーの代表的な薬であるアリセプトとメマリーを処方され、飲むことになりました。

 

最初の1年はとくに大きな変化もなく、月に1回病院へ通いましたが、病魔は少しずつ母を蝕んでいきました。診断当初は大きなショッピングセンターへ行くと、トイレに行って出てきたらどちらに向かって歩いたらいいかがわからないとか、どこの出口から出たらどこに出られるとかがわからなかったので、私に傍にいてとか、出口の前にいてねというくらいだったのですが、だんだん今日が何日で、何曜日かがわからないようになりました。もっともmamakoは方向音痴で病気になる前から、トイレから帰ってこれないこともあったんので、それが急激な症状の悪化だとも思ってなかったのですが…。

 

それが、だんだんとひどくなって、2年目になると一緒に買い物に出たはずが、少し距離をあけて歩いたら、気が付いたら迷子になってしまい、自分だけが自宅に帰ってきたり、むやみに歩いて、ビルの中を歩き回ってしまって探すのに1時間以上もかかったりするようになりました。そして、そのころには、薬もメマリーからレミニールという薬に代わっていました。また、大きな症状として、とにかく人との争いを嫌い、穏やかだった母が思うとおりにならないと癇癪を起したり、私をたたいたりするようになっていました。

 

といっても、そんな症状が毎日ある訳でもないですし、あ~少しずつ症状が進むんだなと思いながら、母の症状が少しでも進まないようにと、毎朝、新聞で今日が何日で何曜日かを確認させたり、自分の薬を自分で飲ませるようにしていたんです。今、思えばそんなことをしても症状は進みますし、それ自体が母mamakoにとって苦痛だってことをわかってなかったので、とにかく必死に症状を食い止めようと悪あがきをしていたのは私自身でした。

 

それでも、この時点でさえ近所の人は母が認知症だってことがわからなかったし、たまに話がかみあわないな~くらいだったそうです。もともと穏やかで、おしゃべりでもない母だったので、余計に症状がわかりにくかったんだと思います。

 

こうして、物忘れ外来に約2年近く、通っていました。