信仰について考えるとき、
これまでは主に「自分自身の問題」として向き合ってきました。
しかし最近、ある問いが強く心に残るようになりました。
それは、
「この環境で子どもが育ったら、どうなるのだろうか」
という問いです。
ビーワン大阪キリスト教会のような場には、
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否定されない安心感
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常に受け入れられる関係
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傷を癒すような言葉
が満ちています。
大人にとっても居心地が良い場所ですが、
子どもにとってはなおさら、
「ここが世界のすべて」のように感じられるかもしれません。
しかし、その空間を見ていて感じたのは、
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厳しい現実に向き合うこと
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自分の責任を引き受けること
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失敗と正面から向き合うこと
が、あまり語られていないという点でした。
代わりに強調されるのは、
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あなたはそのままでいい
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無理をしなくていい
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神が受け止めてくれる
という方向です。
もちろん、それ自体は必要な側面です。
けれど、それだけになると、
子どもは次第に、
現実と緊張関係を持たないまま育ってしまうのではないか
という不安を感じるようになりました。
信仰が本来持っている力は、
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現実から逃げることではなく
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現実の中で生きる力を与えること
だと思います。
しかしその環境では、
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問題を解決するよりも
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苦しさをやわらげること
が中心になっているように見えました。
すると子どもは、
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困難に向き合うより
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心地よい場所に戻る
というパターンを、自然と身につけていく可能性があります。
さらに気になるのは、
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満たされているか
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安心しているか
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傷ついていないか
といった「感情」が、
判断の基準になっていることです。
この価値観の中で育つと、
「正しいかどうか」より
「自分がどう感じるか」
が優先されるようになります。
しかし現実の社会は、
必ずしも優しくも、分かりやすくもありません。
その中で生きていくためには、
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自分を律する力
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責任を引き受ける姿勢
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不快な現実を受け止める強さ
が必要になります。
教会は、本来
現実から逃げる場所ではなく、
現実に向き合う力を受け取る場所
であるはずです。
しかしもし、
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常に守られる場所
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常に安心できる場所
として機能し続けると、
信仰は
現実から離れるための避難所
になってしまいます。
その環境で育った子どもは、
外の世界に出たとき、
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厳しさに耐えられない
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批判を受け止められない
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自分で決断できない
という状態に陥る可能性があります。
これは誰かを責めたいという話ではありません。
むしろ、
あの場所の優しさや安心感を、
自分自身も受け取ってきたからこそ、
その延長線上にある未来を想像したときに、
強い不安を感じるようになりました。
「このままでは、現実に立てない信仰になるのではないか」
「神に向かうのではなく、安心に依存する信仰になるのではないか」
子どもに必要なのは、
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無条件の受容だけではなく
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真理に導かれる経験
だと思います。
信仰は、
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心を守るためだけではなく
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人を変え、強くし、現実に立たせるもの
であるはずです。