母になってから、「強く言うこと」の難しさを痛感するようになりました。

 

叱れば、心を傷つけるかもしれない。

厳しく言えば、自己肯定感を下げるかもしれない。

 

今の社会は、とても繊細です。

言葉一つで「ハラスメント」と言われる時代です。

 

私はその空気を、家庭だけでなく、教会の中にも感じるようになりました。

 

教会のメッセージは、以前よりもやわらかくなったと感じます。

 

・あなたは愛されている

・神はあなたを受け入れている

・安心していい

 

それらは本当に大切な言葉です。

否定するつもりはありません。

 

でも、気づけば、

・罪についての厳しい言葉

・悔い改めを迫る言葉

・自分中心の生き方を問う言葉

そうした箇所が、あまり語られなくなっているように感じました。

 

語られないのは、牧師が知らないからではないと思います。

 

語れば、

・人が離れるかもしれない

・「責められた」と受け取られるかもしれない

・ハラスメントだと批判されるかもしれない

 

そんな空気が、教会の外と同じように、中にも流れているのではないかと感じるようになってきました。

 

ビーワンのように責任を持つ牧師を置かずリーダー制の教会だとなおさらその傾向にあると感じています。

 

 

今の社会では、否定されること、指摘されること、間違いを指摘されること

それ自体が「攻撃」と受け取られやすい。

 

でも、聖書が語る「悔い改め」は、人格を否定することではありません。

 

それは、

・あなたは価値がない

・あなたはダメな人間だ

という宣告ではなく、

・今の向きが神からずれている

・方向を変えなさい

という呼びかけです。

 

けれど今は、その違いがとても分かりにくくなっています。

 

少しでも強い言葉を使えば、「傷つけた」と言われてしまう。

 

その結果、警告の言葉そのものが消えていく。

 

 

正直に言えば、私も厳しいメッセージは苦手です。

 

自分の内側をえぐられるような話は、できれば避けたい。

 

「大丈夫」と言われるほうが、ずっと安心できます。

 

だからこそ、聞きやすいメッセージを好み、心が温まる話を求め、重たい箇所はスルーする

 

そんな空気を、無意識のうちに作っていたのは私たち自身かもしれません。

 

牧師が語れなくなったというより、語らせない空気を、私たちが作ってきたのではないか。

 

そんな気がするのです。

 

もし教会が、傷つけないこと、不快にさせないこと・離れさせないことを最優先にすると、どうしてもメッセージはやわらかい部分だけに偏ります。

 

 

すると、罪の重さが軽くなり、恵みの深さも浅くなり、神の聖さが遠ざかるという流れが生まれます。

 

それは、優しさのようでいて、実は信仰の芯を細くしてしまう。

 

 

子どもに本当に必要なのは、「何も言わない優しさ」ではなく、愛を前提にした注意、関係を保ったまま、成長を願う言葉だと、日々感じています。

 

教会も同じではないでしょうか。

 

悔い改めを語ることは、人を切り捨てることではなく、神との関係に戻すための言葉のはずです。

 

それを「ハラスメント」と混同してしまうと、私たちは自分で自分の成長の道を閉ざしてしまう。

 

 

 

信仰は、安心だけで成り立つものではありません。

 

時に痛みを伴う言葉も、神との関係を守るためのもの。

 

私は母として、信仰者として、「傷つけない教会」だけでなく、真実を語る教会であってほしいと願っています。

 

そしてまずは、その言葉を受け取れる自分でありたいと思っています。