ある日、クリスチャンではない友人を、教会に誘ったことがありました。

 

普段から私の話を真剣に聞いてくれる人で、宗教に強い拒否感があるタイプではありません。

 

だから私は、少し期待していました。

「教会って、意外と普通だよ」

 

「疲れているときに、元気がもらえる場所だよ」

 

そんなふうに伝えられたらいいな、と。

 

 

 

礼拝が終わって帰るとき、友人がぽつりと言いました。

 

「…思ってたのと違った」

「もっと静かで、神様を拝んでる感じかと思った」

 

私はその言葉に、少し胸が詰まりました。

 

たしかに礼拝は“明るい”雰囲気でした。

音楽も元気で、会衆も表情が豊かで、盛り上がりがありました。

 

でも、友人が期待していたのは、

「落ち着いた空気」や「静けさ」だったのだと思います。

 

さらに友人はこう言いました。

 

「途中で笑いが起きてたよね?」

「悪いことじゃないんだけど…拝んでる感じがしなかった」

 

その言葉が、私の中に刺さりました。

 

私はビーワン大阪の礼拝に慣れてしまっていて、

笑いが起きることも、盛り上がることも、

「明るくていいね」と思っていた部分がありました。

 

でも、外から見たらどう見えるのか。

それを突きつけられた気がしました。

 

友人は意地悪で言ったのではなく、

ただ素直に「違和感」を言葉にしただけでした。

 

 

 

 

友人の感想を聞いたとき、私は驚いたというより、「やっぱりそう見えるよね…」と、心のどこかで納得していました。

 

実は私自身も、

 

- 礼拝がイベントのように感じるとき

    

- 盛り上がりが信仰の熱さとして扱われるとき

    

- 空気に乗れないと置いていかれるように感じるとき

    

 

小さな違和感を抱えていたことがあったからです。

 

でも私はそれを、

「自分の信仰が弱いのかな」

「もっと素直に受け取れたらいいのに」

と、自分の側の問題にして片付けていました。

 

 

 

「礼拝って、もっと神様に向かうものじゃないの?」

 

友人の言葉で、私の中にひとつの問いが残りました。

 

礼拝って、本当は

“元気になるため”の時間だったのだろうか。

“気持ちを上げるため”の時間だったのだろうか。

 

もちろん、喜びがあること自体は悪くありません。

信仰には明るさもあると思います。

 

でも、礼拝の中心が

 

- 神様に向かうこと

    

- 神様の前に静まること

    

- 自分を整えること

    

 

ではなく、

 

- 盛り上がれるか

    

- 感動できるか

    

- 空気に入れるか

    

 

になってしまったら、

それは少し違う気がしました。

 

 

 

友人を誘った日をきっかけに、

 

私は正直、少し疲れてしまいました。

 

「教会ってこういう場所なんだよ」

と胸を張って言える自信が、揺らいだのです。

 

礼拝の形がすべてではありません。

スタイルの違いもあります。

 

でも、少なくとも私は、

礼拝の時間に

 

神様への向き方が薄れていく感覚を覚えるときがありました。

 

そしてその感覚は、

友人の一言で、はっきり言葉になってしまいました。

 

「拝んでいる感じがなかった」

 

その言葉は、

外から見た正直な感想であり、

私の中にずっとあった疑問でもありました。