月 の なずな

月 の なずな

「・・・まあ、いいか」と暮らす毎日。

Amebaでブログを始めよう!

お祓いをせねばならぬかというくらい

これでもかと次々にいろいろとありまして

本当に忙しくて仕事ばかりしています。


他の訪問介護の事業所さんは

一体どうやっているんだろう。

この人手不足。



介護の担い手はどこにいるのか。

在宅重視と政府は言うけれど

在宅を保障する訪問介護はこんなにやせ細っている。

しかも、来春の介護保険法の改正で

生活援助の部分は随分とおさえられると聞く。


世間では

ピンからキリまで

有料の老人ホームの箱物が次から次にできていて

一人で暮らすことが不安になった老人たちを飲み込もうと

大きな口を開いて待っている。


だけど、

皆が皆そんなところには入れない。

少ない年金だけでは難しい。


かといって公的な特養は何万人も待っていて

介護度も3以上でないと入れない。


じゃ、やっぱり自宅でできるだけ長く生活したい・・・

事情があって家族には頼れない人も多い。

家族が協力的だったとしても

状態によっては限界がある。


ヘルパーさんをお願いして何とか生活が回っている人たちもたくさんいる。


あのおじいちゃんに美味しいもの食べてもらおう。

お風呂を楽しみに待っているあのおばあちゃんに笑ってもらおう。

失禁で濡れたシーツ洗ってきれいなシーツでゆっくり寝てもらおう。

ホコリまみれのあの部屋をもう少し暮らしやすく整えてあげたい。


そんなささやかな生活の楽しみや暮らしやすさを

ニコニコと笑顔で

勇敢につくっていくヘルパーさんたち。

凄いって思うんだけどなあ。


どうにかならないかなあ?

面白い仕事なんだけどなあ。



今は自分自身の生活の楽しみや暮らしやすさは随分とおさえられているが、

ま、それはいい。

本当にどうにかならないだろうか。



すみません、久しぶりに書いたら

ため息混じりで愚痴になってしまいました。





前回の続きです。

ずいぶん間が開いてしまいました。

文章や内容に乱れがあるかもしれませんがお許しを。


 4,統制された情緒的関与 (controlled emotional involvement)
ワーカー自身がクライエント自身の感情に呑み込まれないようにする考え方。クライエントを正確にかつ問題無くケース解決に導くため「ワーカー自身がクライエントの心を理解し、自らの感情を統制して接していく事」を要求する考え方。


これが難しい。

何が難しいって相手の感情に飲み込まれないようにするのが難しい。

自らの感情の統制って何よ。

相手に共感せよっていうのに、自分の感情は統制するのか・・・。

相手がとても悲しんだり喜んだりしている時には
案外これはできる。

相手と自分を客観視することが容易なのだとおもわれる。

難しいのは相手が理不尽にこちらを攻撃したり怒ったりしてくるときである。

人間だからやっぱりそれに反応してしまうのだよ。気持ちが・・。

その場では見せないけれど、結構落ち込んだりもするんだよね。

年取って経験もしたからかなり流せるようにはなったが。




 5.非審判的態度 (nonjudgmental attitude)
クライエントの行動や思考に対して「ワーカーは善悪を判じない」とする考え方。あくまでもワーカーは補佐であり、現実にはクライエント自身が自らのケースを解決せねばならないため、その善悪の判断もクライエント自身が行うのが理想とされる。また人間は基本的に当初において自らを否定するものは信用しないため受容の観点からも、これが要求される。


いいも悪いもなくひたすら受容・・・

ただ、いい悪いを相手に対して言わないだけではあるんだけど。

心の中では色々なツッコミを入れてる。


 6.利用者の自己決定 (client self-determination)
あくまでも自らの行動を決定するのはクライエントである、とする考え方。問題に対する解決の主体はクライエントであり、この事によってクライエントの成長と今後起こりうる同様のケースにおけるクライエント一人での解決を目指す。この原則によって、ワーカーによるクライエントへの命令的指示が否定される。


認知のお客様多いから自己決定って限りがあるよ。

家族や介護者がその人のために何がその状況でのベターかを選択するしか無いと思う。


 7,秘密保持 (confidentiality)
クライエントの個人的情報・プライバシーは絶対に他方にもらしてはならない、とする考え方。いわゆる「個人情報保護」の原則。他方に漏れた情報が使われ方によってクライエントに害を成す可能性があるため。



ま、これは言うまでもないってことで

で、やっと終わりました。

こういうのは時間かかっちゃうとダメだね。

前、何が言いたくてこれ書き始めたんだか忘れちゃったよ。


難しいと言われてたお客さんにも何とか潜り込んでいます。((・。・;



なんとなく精神的に行き詰まった時に

私は

言葉を求める。



その時の感覚で納得できる言葉を探すことによって

もう少しだけ違う感覚で頑張れるように自分を鼓舞する。

視点を変えることで

リセットできる気がするのである。


ある難しいサービスで、やはり

モヤモヤとしてしまいなんとなくしっくりいかない。

いつも、小さな粗を探されてそこを攻撃されてしまう。

うーん、

相手がわがままだとか、自己中心的だとか

精神的に不安定だとか言うのは簡単であるが

それも不本意である。

何かもう少し自分が広くなれば相手を受け入れることができるのではないか



基本に立ち戻るか・・・と

そういえばと思いだしたのが以下である。

今回は、これだな。



ケースワークの基本姿勢として「バイスティックの7原則」というものがある。


これは

まったく、「言うは易し行うが難し」そのままである。

説明部分(青字)はウィキペディアからの引用である。


 1,個別化 (individualization)
クライエントの抱える困難や問題は、どれだけ似たようなものであっても、人それぞれの問題であり「同じ問題(ケース)は存在しない」とする考え方。この原則においてクライエントのラベリング (いわゆる人格や環境の決めつけ)やカテゴライズ(同様の問題をまとめ分類してしまい、同様の解決手法を執ろうとする事)は厳禁となる。



そりゃそうさ、みんな個性強いからねえ。

ひとりとしておんなじ人はいない。これは納得。




 2、受容 (acceptance)
クライエントの考えは、そのクライエントの人生経験や必死の思考から来るものであり、クライエント自身の個性であるため「決して頭から否定せず、どうしてそういう考え方になるかを理解する」という考え方。この原則によってワーカーによるクライエントへの直接的命令や行動感情の否定が禁じられる。ただし、この受容の原則を理解する際には注意が必要である。バイステックは、人を受け入れることと道徳や社会のルールに反する行為を受け入れることは違うとし、あくまで「ケースワーカーが受けとめる対象は現実である」と述べている。そのような意味でケースワーカーはクライエントをあるがままの姿で捉えることが必要であるとバイステックは主張しているのであり、何もかもを受け入れるべきであると主張しているのではない。


いや、これは難しい。

簡単そうに言うけれど「現実を受けとめること」って

援助者にも感情や価値観があって

そこにそぐわない現実は受け入れにくいんだ。

ただ、ここでは否定せず理解しようとするという姿勢がポイントとなるのだと思う。

「必死の思考」ってのっぴきならない感覚がよく出たいい表現だ、と思う。


 3,意図的な感情表出 (purposeful expression of feeling)
クライエントの感情表現の自由を認める考え方。特に抑圧されやすい否定的な感情や独善的な感情などを表出させることでクライエント自身の心の枷を取り払い、逆にクライエント自身が自らを取り巻く外的・内心的状況を俯瞰しやすくする事が目的。またワーカーもクライエントに対しそれが出来るように、自らの感情表現を工夫する必要がある。



これも難しい。

否定的な感情や独善的な感情を出したくないと思う一般的な人は意図的に出して貰う必要があるのだけれど

むしろ積極的にそれらを出し

そのことによって援助者や周囲を惹きつけようとする人達もいる。

このことがかえって自身にとってマイナスに働くということが見えないのか、

あるいはそうせざるを得ない心理的な何かがあるのか

出すだけ出し尽くしたら何かが変わるのか、(出し尽くすことがあるとすれば、だけれども)

・・・これは「この人にならなんでも言っても許される」というお互いの関係を作れるか否か、ということなのかもしれない。



長くなりそうなので

以下

次回に。





素直で正直


年をとったらそれが通じない時がある。


思ったことが素直に顔や表情に出、

正直に言葉に出てしまう。

人間としてしかたのないことではある。


だが、仕事柄

特にサービス中はなるべくそれを正直には出さず

一枚二枚ふんわりとベールを掛けている(つもりである)。

言葉も表情も相手に合わせて選んで出している(つもりである)。



だが、日頃思ったり考えたりしていることが

社会との関係や身の回りの関係と

どれだけ深さや広がりを持っているかで

その表出の仕方は随分違うように思う。

またその人の人間性みたいなものも関係はしてくるのだろうが。


その場の、欲や感情に支配されてしまうと

つい、顔や言葉に嫌なものが出てきてしまう。

底の浅さを露呈してしまう。


商売柄、いろんな人を見てきてお付き合いもさせて頂いて

自分なりに

拙いながら一生けん命はやってはきたつもりではあるけれど

やはり見る人が見たら

隠しているつもりのいやらしいところが見えるんだろうな・・・。


人の見たくないところが見えちゃうと

自分もそうかもしれないと

自分のことも

一緒に反省する。





わが訪問事業所には

他の事業所で断られてきたお客さまを

ケアマネさんが

「もしかしたらここなら・・・」とご紹介くださることが多い。


私の友達でもある上司が

この困難ケースというものが好きなのである。

好きという言い方には語弊があるかもしれない。


当事者であるどっちかといえば受け入れがたい

高齢者への共感能力が高い。

彼女自身がとても苦労しているだけにその共感も幅が広い。

なにより彼女には理念がある。

若い時からずっと福祉や精神関係の仕事を続けてきたので

知識もあり、人望もある。


私がこの仕事を続けてこられたのは

彼女のおかげでも有り、

しかし、やめられないのはいろいろと彼女のせいでもある。


いやいや、人のせいにしているのでもないんだけれど

「一蓮托生」という言葉があるでしょ、

私自身は、どうしてもこれという強いものを持っていないから

あなたがするというなら付き合いましょう、

あなたに付き合えるのは私くらいなもんでしょう

みたいな

そんな関係。



介護の仕事って本当に給料も安く、体力的にも精神的にもきつく

下のお世話など汚い、と思われる仕事で、3Kの典型である。

夢を持った若い人がいっしょうけんめいやろうと思っても

結局数年でやめてしまうのは、きつくても汚くてもそれだけの見返りがないからだと思う。


ある程度の能力が有れば

もっと効率のいい稼ぎ方ができる。

お金だけを考えれば・・だけれど。


私がやめなかったのは

彼女とやってきた仕事が面白かったから、である。

彼女に舞い込んでくる

無闇矢鱈に難しいじいちゃんばあちゃんに

どのヘルパーも入れないとなると

「・・じゃ、わたしがいってみましょか、

入りこめたらいいけどねぇ」と

あっちこっちに行って

なんとかなったりならなかったり。

そんなこんなでもう10年を超えた。


思い出しただけで涙が浮かんでしまうような

貴重な時間と関係をもらえたのは

私の財産である。


来週から、うちのけっこう頑張るヘルパーさんが行けなくなってしまったとびきりのケースに入る。

さてさて、どうなることやら。